第107話 失敗した薬人
その日、慧が青ざめた顔で駆け込んできた。
温泉鎮へ送られた五人の薬人のうち、三人が完全に怪物化してしまい。
さらに悪いことに、そのうちの一人が町を脱出して行方不明になったという。
報告を聞いた無光の顔に怒りが浮かんだ。
小さな町一つ満足に見張ることもできず、逃げ出すのを許すとは……使いものにならない小妖怪どもめ!
続いて小慧が怯えながら、幼い皇帝・李順天にはまだ大きな変化はないものの、腕からチラホラとうろこが生え始めていると伝えた。
無光の怒りはついに限界を超えた。
彼はその場で呪文を唱え、主人の李御の目の前で雷の術を放ち、慧を爆殺してしまった。
冷酷で優雅な国師様がここまで激怒したのを見たのは、これが初めてだった。
隣に立ち尽くしていた李御は腰を抜かすほど怯え、体調不良を言い訳にして、逃げるように屏風山へ帰っていった。
無光は険しい顔で眉間をよせ、秘伝書に書かれていた作成手順を何度も反芻していた。
いったいどこで手違いがあったのだろうか……。
秘伝書には、身分が高い薬人と、高貴な人魚の血を組み合わせるほど、成功率は上がると記載されていた。
この世で最高峰の材料である「人間の皇帝の体」と「人魚の姫の血」。
その双方を惜しみなく小皇帝に注ぎ込んだのだ。
しかし、李順天の失敗は無光の余裕を根底から打ち砕き、意気消沈させた。
まったく、勝手気ままな成功率だ!
内殿を出た無光は袖を振り、結界を張ってから転送陣へと足を向けた。
だめだ!
この目で直接、人魚島の九重塔での精錬工程を確認しなければ!
どこかに手落ちがあったから失敗したに違いない。
ただ……最高級の材料だった小皇帝を失ったのは、あまりにも惜しかった。
―――
都城の朝堂大殿はがらんとしていた。
数十人はいたはずの大臣たちが、今や半分も残っていない。
高々に鎮座する龍椅すら空席のままだ。
今の皇帝をはじめ、多くの文武百官が「不老不死の治療をしてほしい」と無光国師に懇願した結果、朝廷はすっかり変わり果ててしまった。
それでも、いくつか景気の良い話は流れていた。
第二陣として霊薬を授かった皇親国戚たちは無事に蘇ったらしい。
ただし身体が弱っているため養生が必要とのことで、今は温泉鎮で静養中だという。
第三陣の皇帝や大臣たちは、ちょうど人魚島へ送られて国師の治療を受けているところだった。
そのため、朝堂に残された大臣たちは顔を出すだけで仕事が終わり、まるで先生のいない教室の小学生のように、思い思いにお喋りを楽しんでいた。
そこへ突然、殿下の侍衛が慌ただしく駆け込んできた。
「ご、報告いたします! 大変です! 大事件が発生しました!」
今ここで一番偉いのは、背が高くて太っちょの右大臣だった。
彼は「威張るなら今だ」とばかりに甲高い声を張り上げた。
「なんだなんだ! 騒々しい! 陛下はお休み中だが、わしらがついておるのだぞ!」
侍衛は顔を真っ青にして報告した。
「右大臣様! たった今、大殿の前に怪物が現れ、殿内へ突入しようと暴れ回っております! 仲間たちが抑え込もうとしておりますが、なにぶん凄まじい怪力でして、四人かがりでも太刀打ちできません!」
大臣たちは一気にパニックに陥った。
これはいったいどうすればいいのか!
右往左往していると、別の侍衛が入ってきた。
「報告いたします! 怪物は捕獲いたしました! どのように処置いたしましょうか?」
一同はホッと胸を撫でおろした。
太っちょの右大臣と日頃から折り合いの悪い王将軍が言った。
「聞くまでもない! いつも通り天牢へ送っておき、陛下のお戻りを待って処分を仰げばよかろう」
一方、右大臣と仲が良い李学士が口を挟む。
「捕らえたのならもう安心でしょう。どのような妖怪なのか、わたくしたちにも見せていただけませんか?」
マウントを取りたい右大臣は、もちろん王将軍の意見を突っぱねる。
「李学士の言う通りだ! 先にここに連れてこい。見物してから天牢へ送ればよかろう!」
―――
数十人の侍衛が、全身うろこまみれで目をギョロつかせた怪物を頑丈に縛り上げ、大殿へと運び込んできた。
危険はないと判断した大臣たちは、ぞろぞろと近寄って怪物を観察し始めた。
李学士はまじまじと見つめた後、ハハッと笑って右大臣に話しかけた。
「珍しい生き物ですねぇ! なんだか右大臣様に話しかけたがっているように見えませんか? 逃がしてくれと懇願しているのでしょうか。見てください、飛び出た目に涙まで浮かべていますよ!」
同僚の言葉に好奇心を刺激された右大臣は、じっくりと怪物の顔を覗き込んだ。
おや! 彼も気づいた。
本当だ。怪物がじっと自分を見つめている。
その飛び出た目から放たれる眼光に、どこか見覚えがあるような……。
突然、彼は背筋にゾクッと寒気を覚えた。
彼の弟は公主の夫であり、少し前に公主と一緒に国師のもとへ治療へ向かったはずだった。
弟は自分と最も親しく、容姿端麗で才能に溢れ、一族の誇りだった。
しかし、そんな完璧な弟にも一つだけ欠点があった。
左右の耳の大きさが明らかに違っており、いつも「玉に瑕」と言われていたのだ。
この……怪物の耳も、左右で大きさが違っている。
右大臣はたまらず、震える声で呼びかけた。
「……玉池か?」
それは弟の幼名だった。
生きた心地のしない右大臣の視線の中で、怪物は激しく頷き、大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。
衝撃のあまり、右大臣だけでなく、周りにいた数人の大臣までもが「バタン、バタン!」と膝から崩れ落ちた。
直後、刺すような尿臭が鼻を突いた。
振り向くと、後ろに立っていた官吏が全身をガタガタと震わせており、袴の裾から黄色い液体が広がり出していた……。
―――
通天山。
星盤仙尊のわけのわからない言葉を聞いて以来、誰もが胸にモヤモヤを抱えたまま、重い気分で床に就いた。
翌朝早く、朝食の準備をしようと起きてきた雲英は、仙尊の姿がないことに気づいた。
みんなで外へ飛び出し、四方八方を探し回った。
無畏と小亀は雪山の上まで飛び、残りの者は温泉の周りや、小屋の裏の林、丘の草むらを探した……。
やがて全員が落胆の表情で部屋に戻ってくると、雲英が焦った様子で二通の手紙を取り出した。
「これをみて!仙尊のお布団の上に置いてありました。朝は無かったのに、今ふと振り返ったら置いてあって……」
集まってきた全員は、手紙の宛名を見て顔色を失った。
一通は波有へ、そしてもう一通は、残された仲間たち全員へ宛てられたものだった。




