第106話 国師の理不尽な怒り
みんなが食事を終えると、雲英が『雪黄花茶』を運んできた。
木の湯のみを手に取ったものの、全員の表情は重い。
この花は、和白と藍が切り立った雪山の絶壁で採ってきてくれたものだったからだ。
仮羅と胡白、そして後霊)。
この同門の三人組は、無光によって如意琉璃塔へ閉じ込められる前に、手足の筋を切られてしまっていた。
波有に助け出された後、白鶴に乗って通天山へと逃れてきたのだ。
星盤仙尊の手で外傷こそ治り、歩くのには困らなくなったものの、以前のような高度な術を使うことはもうできない。
一方で伊高屋は、人間だからと無光に無視されたおかげで、一人だけ無傷のままだった。
せっかく魔の手を逃れ、通天山で自由を取り戻したというのに、今度は和白と藍が都城へ連れ去られてしまったのだ。
仙尊は湯のみの熱気をふーふーと吹き消し、ゆっくりとお茶を一口味わった。
「そう落ち込むものではないよ。姫や若いお前さんたちが都城へ乗り込んで仮羅たちを救い出し、心魔とやり合った末に生きて戻れたのじゃ。不幸中の幸いと言うべきじゃろ」
「ですが仙尊様! 和白たちが俺と同じ目に遭わされていないか心配なんです。霊力はあっても、術がまったく使えない体にされてしまったら……」仮羅が落ち込んだ様子で吐露する。
隣にいた胡白は、このショックに耐えかねていた。
通天山に着いてからというもの、すっかり自暴自棄になって人の姿になろうとせず、ずっと狐の姿のままだ。
今は師兄の洋服の裾に丸まり、白い頭と長い口元をひょっこり覗かせている。
真っ白な頭頂部にある一束の金色の毛が、やけに目立っていた。
「術が使えたところで何になるんだよ。どうせ無光には勝てない。僕たちじゃ束になってかかっても敵わないんだ……」狐の胡白はうなだれて、投げやりに呟く。
「じっくり養生すれば元に戻るさ。焦るでない、焦るでないぞ」
仙尊は優しくなだめると、ゆっくり波有に視線を向けた。
「姫や、この件についてどう思うかね? 秘伝書は人魚島の禁書じゃが、何か知っていることはあるかな?」
―――
突然の問いかけに、波有は一瞬言葉に詰まった。
少し考えてから、真剣な面持ちで答える。
「あの本は人魚島で大切に保管されていましたが、先祖代々の固い掟がありました。前世で人魚の姫だった私でも、名前を知っているだけで、実物すら見たことがありません。中に何が書かれているかなんて、なおさら……」
「ただ、戦大と戦小の話を聞く限り、心魔・無光は秘伝書を手に入れた後、都城の人間から切り取った心臓や肝臓を使い、私の族人の血を搾り取り、拷問を加えて祈りの歌を歌わせている……」
透き通るような彼女の白い頬を、涙の粒がぽろぽろと零れ落ちていく。
そばで見守る小亀は、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
「族人がそんな惨い目に遭っていると思うと、今すぐ翼を生やして人魚島へ飛んでいき、代わりに捕まりたいくらいです!」
「 でも……今の私には力がない。行ったところで誰も救えない……いったい、どうすればいいの……?」
話せば話すほど、彼女の心は苦しみで押し潰されそうになった。
星盤仙尊は深く溜め息をつき、彼たちを見回した。
「秘伝書には、不老不死の霊薬を作る方法が書かれているという。もしお前さんたちがその本を手に入れたら、心魔のように、他人の命を犠牲にしてまで薬を作ろうと思うかね?」
みんなの顔に思案の色が浮かぶ。
「そんなのするわけないだろ!」
「 長生不老は誰もが憧れるものだけど、そんな都合のいい話、絶対に嘘だ! 天の理はいつだって公平なんだから、そんな無茶苦茶なものが存在するはずないよ。仮にあったとしても、良心のある人間なら絶対に手を出さない!」
伊高屋がきっぱりと言い切った。
―――
仙尊はうなずき、重ねて問いかける。
「では、それを書いた本人は霊薬を飲んだはずじゃ。大昔のこととはいえ、不老不死になったのなら、なぜその者は今どこにもおらんのだ?」
「世の中のどこか遠くへ隠れ住んでいるんじゃないですか……?」
仮羅がぽつりと呟く。
仙尊は破れ扇子をパタパタとあおぎながら首を振った。
「この世のすべてを知り尽くす三大能者すら、そんな人物の話は聞いたことがないそうじゃ」
すると伊貴も考え込むように口を開いた。
「……もしかしたら、もう一つ理由があるんじゃないでしょうか。その人は、結局、薬を完成させられなかった……あの本はただの計画書か実験の記録で、試してみたけれど失敗した。だから本当の不老不死にはなれなかったんじゃないかと」
「だから……今その人物はどこにも存在しないんだ」
「そうじゃ。だから奴のやっていることは失敗に終わる宿命なのだ」
仙尊は再び溜め息をついた。
「心魔が心魔たるゆえんは、執着が強すぎて考え方が極端だからじゃ」
「人間の頭などほんの小さなものじゃよ。一つのことだけで頭をいっぱいにしたら、他の考えが入る隙間などなくなってしまう。今の奴は、自分が不老不死になることしか頭にないのだろうな」
「わたしたちはこれからどうすればいいんですか?」仮羅が尋ねる。
「お前の義理の弟が言った通りじゃよ! 天の理は公平じゃ! そんな無茶な霊薬など存在するはずもないし、存在することも許されん! だから心魔がどれほど足掻こうと、不老不死の体など手に入るものか。この世はな、絶対に正義が勝つようにできているのじゃよ!」
「ですが……! だからと言って指をくわえて待っているわけにはいきません! 無光が好き勝手に暴れて、害のない人たちを痛めつけるのを黙って見ているなんて……!」
耐えかねた仮羅が食ってかかる。
仙尊はうなずくと破れ竹椅子から立ち上がり、波有の前まで歩いていくと、彼女の頭にそっと手を置いた。
滅多に見せないような優しい手つきで艶やかな黒髪をなで、愛おしそうに呟く。
「お前のブサイクな師匠も、ハンサムな師兄も、ワシのかわいい鶴ちゃんや狼ちゃんも……」
「はぁ、目の前には姫のほか、もう誰もいなくなってしまったのう……時の流れは早いものじゃ」
「あの頃にはあの頃の良さがあった」
仙尊は振り返り、彼たちを見つめる。
「そして今には、今の良さがある!」
突然のちんぷんかんぷんな言葉に、全員は顔を見合わせ、首をかしげるばかりだった。
―――
一方、不老国の都城にある国師殿は、最近不気味な静けさに包まれていた。
召使たちは息を殺すようにして自分の仕事をしつつ、恐る恐る内殿の様子を伺っている。
噂では一昨日、狐妖の李御の側近だった小妖が国師の逆鱗に触れ、雷の術で放たれた一撃によって、異臭を放つ灰の山に変えられてしまったらしい。
恐怖に慄いた李御は、もう一匹の小妖・葉を連れ、病気と偽って屏風山へ逃げ帰ってしまった。
召使たちの嫌な予感は当たっていた。
無光は今、激怒していたのだ。
小妖を殺したところで腹の虫は収まらず、内殿を行ったり来たりしながら、また生意気な奴が紛れ込んできて憂晴らしの雷を落とさせてくれないかと苛立っていた。
あの死んだ小妖がもたらした不吉な報告――温泉鎮に閉じ込めていた五人の『薬人』のうち、三人が人間でも幽霊でもない化物に変果てたというのだ。
その化物たちは凄まじい怪力を誇り、術こそ使えないものの、全身が固いウロコで覆われていて刀も槍も通さない。
温泉鎮の人間を生き喰いした挙句、町から逃げ出そうとして大騒ぎになり、あちこちに潜伏しているという。
何より無光を怒らせたのは、その三匹のうち、一匹が町を脱出し、どこへ消えたかわからなくなったことだった。
秘伝書にも、成功率は極めて低く、百分の一か、へたをすれば千分の一だと書かれていた。
だから実験が失敗すること自体は想定内だったのだ。
百人に一人成功すれば万々歳、運が悪ければそれ以上かかることも分かっていた。
失敗作の処理方法だって決めてあった。
人魚島の九重塔の地下室へ運び込み、炎で跡形もなく焼き尽くせばいいだけのこと。
それなのに、よりによって実験体が逃げ出すとは――無光の怒りは当分収まりそうになかった。




