第102話 珊瑚の鉢
目の前で起きたあまりに恐ろしい光景に、白鶴の背中に乗っていた伊蘭、伊貴、無畏たちは、思わず悲鳴を上げた!
苦労して借りてきた『蓋紅沙』が、無光を倒すどころか裏目に出て、人魚島を丸ごと呑み込む大津波を起こしてしまうなんて!
海に沈んだ波有も、如意瑠璃塔の下に押し潰された通天山の和白たちも、生きているのかすら分からない……。
空にはびゅうびゅうと狂風が吹き荒れている。
無光は高みの見物をしながら、すっかり海に沈んだ人魚島を見下ろし、冷酷で残忍な目を光らせていた。
国師の白い髪と黒い服が海風に揺れていた。氷のように冷たい黒い瞳には、世の中を見下すような威圧感が漂っている。
でも、人魚は泳ぎが得意だ。
これくらいの大波、彼らにとってはなんてことない。
案の定、波が引き始めると、海の中からゆっくりと人魚島が姿を現した。
次の瞬間、島から何千何万という水の矢が、無光に向かって勢いよく飛んでいく!
国師が黒い服の袖を軽く振ると、法力に弾かれた水は、ただの雨になってパラパラと落ちていった。
彼は高らかに笑い飛ばした。
「人魚は戦いが弱いと聞いていたけれど、本当にもろくて話にならないな」
―――
その頃、波有は島の人魚たちと落ち合っていた。
島のリーダーである汕や清夫人が、波有の前にひざまずく。
戦勇が悔しそうにつぶやいた。
「和白様たちが引きつけてくれている間に、海水で攻撃しようと思ったのですが……あいつの技が凄すぎて、歯が立ちません!」
波有は悲しそうにうなずいた。
「勝てないと分かっていても、やるしかないわ」
「ふたりはみんなを連れて秘伝書を壊しに行って。私は戦勇の兄弟と一緒に、あいつと戦うわ」
汕リーダーは泣きそうな声で止めた。
「姫様は大切なお体です! そんな危険な真似は絶対にいけません! 秘伝書を持って海の中に逃げてください! あとは私たちが引きつけます!」
彼たちが自分を逃がそうとするのを見て、波有は「これ以上グズグズしていたら島のみんなが危険だ」と察した。
「私は人魚族の姫よ。強くなって島のみんなを守るために修行に出たの。千年経って、かえってパワーが弱くなっちゃったけれど……」
「けれども、昔と気持ちは変わらない! たとえまた死んで、次に生まれ変わるまで千年かかったとしても、姫としての誇りを守れるならそれでいいの!」
きっぱり言い切ると、彼女は振り返りもせず、七色の光になって無光へ向かって飛び立った!
戦勇と戦雄の兄弟も慌てて後を追う。
―――
無光が一番恐れていたのは、人魚たちがやけくそになって秘伝書を壊してしまうことだった。
だから波有が自分から向かってきたのは、願ってもないチャンスだ。
彼は足元に小さな黒い穴を作り出し、それ以上広がらないように固定した。
波有たちが近づいてくると、攻撃される前に黒い服をバサッと振った、一瞬で戦勇兄弟を縛り上げ、そのまま塔の下へ投げ飛ばしてしまう!
波有は急いで身につけていた鈴を鳴らした。
塔の上にある『人魚の涙』に呼びかけ、いつもの歌を歌う。
歌声で四不像師兄の驕盧の目を覚まさせようとしたのだ。
しかし、無光はニヤニヤと笑うだけだった。
風に銀髪をなびかせながら吐き捨てる。
「姫様はご存じないようですね。この頃ね、僕のパワーは跳ね上がって、四不像も羅漢の体も思い通りに動かせるんですよ。君のバカな師兄は、もう二度とお返事なんてできませんよ」
「秘伝書のやり方はだいたい知っています。人間の心臓でも人魚の血でも、身分が高い者ほど成功しやすい」
「さっき手加減すると言いましたがね……ちょっと血を借りるくらい、大したことないでしょう?」
言い終わるやいなや、彼は光のような速さで波有の後ろへ回り込んだ。
白く綺麗な手で波有の尾びれを掴むと、そのまま逆さまに吊り上げた!
「よく見ろ!」
無光は術を使って、島にいる全員に聞こえる大声で叫んだ。
尾びれから流れた血が、波有の体をたどり、顔を濡らして頭へ染み込んでいく。
黒髪が真っ赤に染まり、ぽたぽたと下の白い鉢の中へ落ちていった。
赤と白の対比が気味悪く浮かび上がる。
「姫様、この珊瑚の鉢を覚えていますか? ご自分で『珍しい白い珊瑚だ』と言っていたでしょう」
あざ笑う無光の顔を見て、波有の頭の中に昔の記憶がよみがえった。
弟子入りした時、彼女は深い海をずっと探して、めったに見つからない白珊瑚を見つけたのだ。
それを鉢に加工して、師匠の光如意にプレゼントした。
師匠はすごく喜んで、もったいなくて使えないと言っていたのに……。
血まみれで逆さ吊りにされる波有を見て、皆は怒りで頭が破裂しそうだった。
小亀は全身が凍りつくようなショックを受け、白鶴を操って真っ直ぐ突っ込んでいった!
無光は見向きもせずまた袖を振ると、白鶴を海へと叩き落とした。
「遠くへ行けと言ったのに、聞き分けのない子供たちだ」
―――
彼は眉をひそめた。
鉢に血がいっぱいになると、無光は波有を黒い穴の上に引き寄せた。
「秘伝書を持ってこないと、このまま手を離すぞ」
落とすフリをしてみせる。
島の人魚たちは青ざめた顔で一斉に地面にひざまずいた。
秘伝書の箱を高く掲げ、頭を地面に叩きつけて血を流しながら許しを乞う。
「どうか国師大人、お心をお広くして、私たちの姫様をお返しください!」
無光は大笑いしながら、指をちょっと動かして箱を手に入れた。
(ついに……ついに秘伝書を手に入れたぞ!)
心の中で叫び、少しホッとしたものの、口元には冷酷な笑みが浮かんでいた。
「波有師妹……波有姫様……はぁ……」
「ねえ、どうしてくれようか」
「逃がしたら、また僕の瑠璃塔をたぶらかして、計画を邪魔してくるだろうしな」
「千年前から嫌な奴だった。昔から見ていて不愉快だったのに、生まれ変わってもまた目の前に現れるなんて」
彼は手の中の血まみれな体を、嫌そうに見つめた。
海風に吹かれて、雪のような銀色の髪が激しく舞う。
「人魚の姫のくせに自分の島でおとなしくしていればいいものを、なんであんな老いぼれのところへ行ったんだ? 修行に来たくせに、あっちもこっちも誘惑しやがって!」
「静かになったと思ったら、四不像と一緒に山を下りて暮らせばいいだろう!」
「なのにそれも嫌だと言って、老いぼれのそばにへばりついて! 師兄に相手されなくなったら、今度はカメをたぶらかすのか!」
「いい加減にしてくれないか! 全員を不幸にしないと気が済まないのか!!!」
「分かってるぞ、お前はわざとやってるんだ! 絶対にそうだ!!!」
言えば言えるほど怒りが込み上げてくるのか、無光の声と体はガタガタと震えていた。
冷たかった瞳は興奮で真っ赤に光り、口元には不気味な笑みが浮かんでいる。
いつもの気取った冷酷な公子とは、まるで別人だった。
「本当にムカつくよ!」
「お前がいなきゃ老いぼれも僕を生み出さなかったし、お前がいなきゃ僕も地上に戻れず、海底の奥深くに封印されたままだった! なのに、心から……!」
「心からお前が嫌いだ!」
何度も溜息をついた後、彼はついに手を離した。
―――
まさにその瞬間!
海の中から一筋の眩しい光が一直線に飛び出し、穴に落ちそうになった波有をサッと抱きかかえた!
無光が目を凝らした時には、その光も波有もどこかへ消えていた。
彼はぽかんと立ち尽くし、しばらく考えてからつぶやいた。
「この速さ……通天山のあのクソジジイか……?」
無光は人魚島に降り立つと、汕リーダーたちに向かってヒラヒラと手を振った。
「まあいい、まあいい……さっきは頭に血が上って、あの子の血がもっと必要なのを忘れていたよ」
「まあ、通天山の奴が助けたところで何になる? 見ただろう、もう一度やったって無駄なあがきだ。お前たちの島なんて、僕が指をちょっと動かすだけで消し飛ばせるんだからな。今回は……見逃してやる」
秘伝書を奪われ、姫の行方も分からなくなった人魚たちは、悔しさをこらえて命令に従うしかなかった。
海に沈んでいた李御を救い出す。
無光は囚われていた美姫たちを解放した。
お目当ての秘伝書は手に入った。
これ以上ここに長居するつもりはない。
無光は塔の下に閉じ込めた和白たちだけを連れ去り、残りの者たちには目もくれず、そのまま不老国の王都へと帰っていったのだった。




