第101話 蓋紅沙
白鶴の背中に乗る波有たちは、目の前で繰り広げられる激戦に冷や汗が止まらなかった。
黒い穴の中は、入ったものを何でもズタズタに引き裂く場所だ。
もし和白たちが無光の放つ光に撃たれて落っこちたら、二度と這い上がって来られない!
伊蘭はもう焦りまくりで、小亀の腕をガシッと掴むと叫んだ。
「もう待てないって! 今すぐ『蓋紅沙』を使おう! このままだとふたりがやられちゃう!」
大事な宝物を抱えた小亀は、浮かない顔でためらった。
「でも……星盤仙尊様が出発するとき言ってたんです。これは砂漠の鷹王一族のすごいお宝で、めちゃくちゃ危険だから、本当に命があぶない時まで使っちゃダメだって……」
「甲ちゃん 今がまさに命が危ない瞬間でしょ!」伊貴も大声を上げる。
「穴に落ちちゃったら、こんな宝物を持ってたって意味ないじゃない!」
「早く早く! 迷ってるヒマはないわ、出しなさい!」
波有も身を乗り出してせかした。
みんなの焦る声を聞いて、小亀は思い切って奥歯を噛み締めた、目に決意の光が宿る。
もう迷わない。
彼は懐から慎重に『光占羅盤』を取り出すと、カチッと蓋を開けた。
中には、少しだけ暗い赤色の細かな砂が入っていた、怪しいパワーが漂っている。
「師姉!」 小亀は顔を上げ、早口で指示を出した。
「僕は黒洞の真上から砂を撒く! 師姉はすぐ真身(本来の姿)に戻って、海から水を汲み上げて砂にぶっかけてくれ! 水は多ければ多いほどいい!」
波有は少しの躊躇もなく、力強くうなずいた。 「分かったわ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、人魚の姿に戻って、流れ星のように白鶴の背から跳び下り、美しい放物線を描いて、荒れ狂う眼下の海へとドスンと飛び込んだ!
―――
ほんの数秒やり取りをしている間に、天空の黒洞は人魚島を包んでいた最後の白い霧まで綺麗に吸い尽くしていた。
島に住む人魚たちは恐怖に怯えて空を仰ぎ、この世の終わりのような惨状をただ見つめることしかできない。
黒い円陣は広がり続け、今や島全体をすっぽり覆うほどの巨大さに達していた!
漆黒の輪郭線が、島の最外郭の砂浜やサンゴ礁に触れようとしている。
この惨状を目にして、白鶴の背に乗る無畏は顔面を蒼白に染めた。
「うわあ! まだ間に合うのかよ!? ちょっとでもグズグズしてたら、島丸ごと穴に吸い込まれちゃうぞ!」
それを聞いた小亀は、一刻の猶予もないと悟った。
彼は顔を跳ね上げるとガバッと口を開け、数十粒の蓋紅沙を一気に口の中へ放り込んだ。
そして全身から光を放つと、一瞬にして本来の姿——茶色の草亀へと変貌を遂げた!
巨大な亀が大空を切り裂き、吹きすさぶ暴風に逆らって、黒洞の真上を目指して猛突き進む!
荒れ狂う穴の真っ直ぐ上空に辿り着いた瞬間、彼は大きな亀口を限界まで開き、蓋紅沙を勢いよく吐き出した!
赤い砂粒がパラパラと黒洞の中へ舞い落ちていく。
同時に、甲高い声を張り上げ、海に向かって叫んだ。 「師姉!師―姉―! 今だーーーーっ!」
ドォォォン!
小亀の叫びに応えるように、静かだった海面から突如として津波が幾重にも湧き上がった!
直後、透き通った水の咆哮が響き渡る。
莫大な清流が、一匹の青緑の巨龍と化して駆け上がった!
空気を引き裂く音を立てながら、黒洞の深淵を目指して怒涛の勢いで注ぎ込まれていく!
その瞬間、息をのむような驚愕の光景が広がった!
黒洞に投げ込まれた時は大豆ほどの大きさしかなかった赤い砂粒が、大量の海水に触れた途端、何かの禁忌の法則が呼び覚まされたかのように、狂ったような速度で水を取り込み始めたのだ!
メリメリッ! メキメキッ! メリメリッ! メキメキッ!
水分を吸収した紅砂は急速に膨張し、目に見える速さで巨大かつ鉄のように硬い『赤い石の田んぼ』へと固まっていく!
ほんの僅かな時間で、巨大化した紅砂は、あらゆるものを呑み込むはずだった黒い渦を、隙間なくギッチリと埋め尽くしてしまったのだった!
―――
上空で和白たちと激闘を繰り広げていた無光は、異変を察知して勢いよく見下ろした。
黒洞の中に広がった信じがたい光景を目にする。
瞳孔がキュッと収縮した。
これまで余裕を崩さなかった顔に、初めて激しい驚きと怒りが浮かぶ。
——目の前の連中と付き合っている暇などなくなった!
しかし、蓋紅沙が効いたのを見た和白と藍が、この好機を逃すはずもない。
ふたりの瞳に鋭い光が宿り、手加減なしの強烈な剣気を繰り出す。
無光の喉元と心臓を狙って容赦なく剣を突き出し、その場に強引に足止めした!
「命知らずの愚か者どもが!」
無光の忍耐は完全に途切れた。
目に凄まじい殺気を宿すと冷たく鼻を鳴らし、虚空に向かって手をかざして吠えた。
「琉璃如意塔よ! 今すぐ姿を現せ!」
一方、至宝である琉璃如意塔はといえば、王都の空で波有に命じられて仮羅を逃がして以来、ずっと王宮の上空でビクビクと震えていた。
残忍な心魔の主人が戻ってきてお仕置きされるのを恐れていたのだ。
そこへ突然、主人からの召喚が届いたのだから、逆らえるはずもない!
塔全体から眩い光を放つと、天を突くロケットのように一気に雲を突き破った。
瞬く間に山河を飛び越え、人魚島の上空へ威風堂々と飛来すると、無光が差し出した左手の上へとストんと収まった。
無光は般若のような恐ろしい顔つきで、不気味な禁忌の呪文を早口で唱え始めた。
ブワッ!
琉璃如意塔が空中で激しく回転しながら巨大化し、一瞬で百倍もの大きさに膨れ上がると、和白と藍の頭上すれすれに覆いかぶさった!
表面から五色の琉璃の光が溢れ出し、万物を押し潰す巨大な光の柱となって、二人へ叩きつけられる!
「グハッ……!」
ふたりは巨大な槌で殴られたような衝撃を受け、同時に大量の血を吐き散らした。
大きい山でも背負わされたかのように恐ろしい光に押さえつけられ、全身の骨をギチギチと鳴らしながら、空中で指一本動かせなくなってしまった。
―――
邪魔者をねじ伏せた無光はゆっくりと降下し、黒洞の中で巨大な岩山と化して固まった『赤い砂田』をじっくりと観察した。
凝視することしばしば、無光の脳裏にひらめくものがあった。
「これは……蓋紅沙か」
彼は独りごちると、薄暗い冷笑を口元に浮かべた。
「砂漠の鷹王一族に伝わる宝物『蓋紅沙』……水を得れば果てしなく膨らみ、世のあらゆる法術を呑み込むという。……どうやら、この冴えないガラクタのことだったようだな」
無光は首を向け、空中で血を吐いて固まっている和白たちを見やり、嘲笑を浮かべた。
「身の程知らずのガキ共め。通天山へ逃げ延び、あのクソジジイを説得して砂漠からこんな宝を持ち出させ、僕の如意錫杖を封じようとは……なかなか良い知恵を絞ったものだ。さすがは通天山の大能が手塩にかけた弟子、度胸も知恵もお見事というべきか」
そこまで言うと無光の笑みが消え、瞳が刃のように冷たく光った。
「だが惜しかったな……身を削って相打ちを狙うような、浅はかな悪手だ」
「——収めよ!」
無光が天を突く如意錫杖に向かって、軽く指を突き立てた!
ブワァン……!
広がっていた黒洞の法術が、その一言で一瞬にして掻き消えた!
黒洞が消えたことで、宙に浮いていた巨大な紅砂の塊は、全ての支えを失ってしまったのだ。
ドスン! ドカン! ドカガガガッ!
山のように巨大で硬い紅砂の塊が、隕石群となって、下方の青い大海原へと一気に崩落していく!
バシャアアアン! ズドオオン!
巨岩が一斉に海面を叩きつけ、凄まじい衝撃波が海底の海床までをもズタズタに引き裂いた!
「グオオオオオン!」
海底から重苦しい咆哮が響き渡る!
直後、高さ数十メートルにも及ぶ巨大な津波が、天と地を繋ぐ水の壁となって、人魚島に向かって襲いかかってきた!
ザザーーーッ!
荒れ狂う海水があっという間にすべてを呑み込んでいく。
ほんの数瞬の間に、美しく静かだった人魚島は、この壊滅的な大津波の中に没し、影も形もなく消え去ってしまったのだった。




