第100話 人魚島の戦い
無光は苦虫をかみ潰したような顔をしたが、さっき「青二才相手にムキにならない」と言い放った手前、聞かなかったフリを決め込むことにした。
無畏たちの呑気な声は、吹きすさぶ狂風の中に消えていく。
彼はもう、取るに足らない子供を相手にするのをやめた。
ゆっくりと振り返ると、氷のような眼光を和白へと向けた。
声は平穏そのものだったが、かえって残忍さを際立たせていた。
「和白兄さん、僕がこれまで手加減してきた理由は、君にも分かっているはずだ」
「昔の情に免じて手減らしをしてやらねば、とっくに『如意錫杖』が吐き出すブラックホールに呑み込まれ、灰も残らず消し飛んでいたのだぞ」
「見ろ、今の僕は四不像の姿に過ぎんというのに、君たち二人を血まみれに追い詰めている。この圧倒的な実力差を前にして、阻もうなどカマキリが斧を振るうようなもの。無駄な足掻きだ」
言葉を区切ると、無光は手にした錫杖を空中へ軽やかに突き立てた。
ドォォン!
と凄まじい仏の音が轟き、鼓膜を揺らす。
彼は静かに言葉を続けた。
「今すぐ狐妖たちを解放し、道を譲って人魚島の秘伝を貰えるのだ」
「さすれば今日この場において、誰一人として傷つけないと誓おう」
「今後……人魚の精血が必要になったとしても、平和的に話し合いに来ると約束する。どうだ?」
一見すると寛大な提案に見えるが、その実は逃げ場を無くす脅迫だ。
無光にとって、人魚島への乗り込みは秘伝を必ず手に入れるための作戦だった。
今回ばかりは、絶対に失敗など許されない。
だが、辺境の寂れた南海の孤島に、多くの猛者が待ち構えていようとは予想外だった。
何より警戒すべきは、かつての人魚の姫であり、今は人間に転生した波有の存在だ。
冷眼で見定めれば、今の彼女はただの凡夫であり、法力も微々たるものだと分かる。
しかし、あまりに追い詰めすぎて、人魚たちに姫様の登場を覚知されれば、刺し違える覚悟で襲いかかってくるかもしれない。
万が一、乱戦の弾みで秘伝が破壊されでもしたら、取り返しのつかない大損害になる……。
だからこそ、無光は戦略を切り替えたのだ。——電撃戦で片付ける!
最後のチャンスとして言の葉で相手を揺さぶり、この頑固者たちを仲間割れさせようと目論んだ。
―――
ところが、大空に立つ和白と藍の二人は、秘宝『蓋紅沙』がすでに届いたと知り、落ちかけていた士気を一気に爆発させていた!
藍は口元から溢れる血を強引に拭い去ると、胸前に剣を横たえ、無光に向かって冷ややかに拳を握ってみせた。
「国師、先ほどは我が師兄との旧情に免じて手加減していただいたこと、感謝します」
「師兄は温厚で情に厚いお人だ。だから甘い言葉を囁けば道心が揺らぐとお思いでしょう。……ですが国師、貴方は何も分かっておられない!」
藍は深く息を吸い込み、澄み渡る声を海と空の間に響かせた。
「通天山ではな、師匠が本気で腹を立てた時、影で師兄のことを『分からず屋のロバ』と呼ぶのです!」
「彼は一度思い込んだら最後、どこまでも突き進む筋金入りの頑固ものなんですよ! たとえ頭を叩き割られようが、命が尽きようが、一度決めた道を振り返ることなんて絶対にあり得ないんだ!」
藍の瞳には、まるで道に命を捧げる者のような決死の光が宿っていた。
彼は喉が千切れるほどの叫びを上げた。
「南海に来る前、師兄は僕にコッソリ言ったんです。『山を下りたら、生きて通天山へ戻るつもりはない。師匠に、親不孝な弟子をお許しくださいとお伝えしてくれ』とな!」
大空に吹きすさぶ狂風が、藍の道服を激しく羽ばたかせる。
彼は空を仰ぎ、高らかに笑い飛ばした。
「僕はその場で引き受けましたよ! でもね、師兄には口が裂けても言えなかった……『僕だって同じ気持ちだ』なんてね! 」
「無光国師! これ以上無駄な舌を回すのはやめろ! 息がある限りお前を人魚島へ一歩たりとも踏み入らせはしない!……どうしてもと言うなら!」
「殺してから行け!」
決死の誓いが、大海原の上にズドンと響き渡る。
圧倒的な正義の気が満ちあふれていた。
―――
無光は首を少し傾げ、藍を冷酷な眼差しで見つめた。隠しきれない見下しと嘲笑が浮かんでいた。
「フフッ……クハハハハ!」
低い冷笑を漏らし、無光は何度も頷いた。
「いいだろう! 結構なことだ! そこまで死に急ぎたいというのなら、愚かな忠義心ごと、今すぐ引き裂いてやろう!」
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、殺気が一気に爆発した!
無光は空中に斜めに突き刺さっていた如意錫杖を猛然と引き抜くと、体の正面にズドンと構えた。
両手が残影を描くほどの速度で交差し、幾重もの怪しく複雑な古代の法印を組み上げる!
莫大な法力が怒涛の勢いで錫杖の中へと注ぎ込まれていった!
もともと温かみのある黄銅色だった如意錫杖は、禍々しい法力を吸い上げるにつれ、墨のように真っ黒に変色していく!
凄まじい黒気が錫杖の周囲を渦巻いて跳ね回り、頭部に取り付けられた十二個の金銅の環を激しく揺らした。
「ジャラン! ジャラン!」と耳を刺すような甲高い音が響き渡り、聞く者の魂を削りとっていく!
天を覆う黒気を糧にして、錫杖は狂ったように巨大化し始めた。
どんどん高く、どんどん太くなり、巨大な黒い魔柱へと変貌していく!
うねり狂う黒気は、まるで巨大な黒龍のようだった。
上方へと昇り詰め、雲層を突き破って天の彼方へと駆け上がる。
下方では猛烈に渦を巻き、巨大な竜巻となって天と海を強引につなぎ合わせたのだった!
―――
かつて人族の王都で遠目から見た時とは違い、白鶴の背に乗る波有は、至近距離から錫杖の足元に広がる邪悪な陣法を目撃していた。
底なしの黒い穴がズズズ……と際限なく広がり、中の暗雲からは稲妻が走り雷鳴が轟く。
飢えた古代の野獣が咆哮しているかのように荒れ狂い、見る者の肝を冷やさせた。
どろりとした眩暈のような感覚が、瞬時に波有を包み込んだ。
黒洞はまだ白鶴から距離があったものの、波有の鋭敏すぎる神識(意識)の大半は、抗う術もなく恐ろしい渦の中へと引きずり込まれていた。
魂が強引に肉体から引き剥がされそうになっている感覚だ。
痛みと恐怖が交錯する中、波有の脳裏に、何の脈絡もなく一枚の顔が浮かび上がった。
爽やかで男らしく、無邪気な笑顔を浮かべたあの顔——後一だ。
(ダメっ……!)
波有はガツンと自分の舌を強く噛んだ。
激痛が走り、途切れかけていた意識が一気に覚醒する。
彼女は心の中で狂ったように叫んだ。
後一の時のような悲劇を、もう誰にも味わわせたくない!
この悪魔に、人魚島のすべてを破壊させるわけにはいかないのだ!
メリメリッ……!
黒洞の拡大スピードがさらに加速する。
人魚島を包み込み、巨大なバリアのように守っていた白い霧が、恐ろしい渦によって半分以上も強引に呑み込まれてしまった。
深い霧を失ったことで、人魚島の桃源郷のような幻想的な風景が、包み隠さず天地の間に晒されてしまった。
―――
上空では、顔色を蒼白にした和白と藍の二人が、秘蔵の宝剣を携えて閃光のような二筋の剣光と化していた。
彼たちは錫杖の本体と周囲を吹き荒れる黒風を巧みに避け、通天山が誇る至高の剣術を繰り出す。
斜め上の死角から鋭い一撃を放ち、無光の命狙いに肉薄した!
無光は鼻で笑うと、両の手のひらをガッと突き出した。
掌から、柱のように太く眩い光線が噴き出す!
瞬く間に金光は実体に凝縮され、両手に巨大な金龍の棒を握っているかのようだ。
左右へ豪快に振り回し、大立ち回りを演じる!
ガンガンッ! ドカンッ!
金光と剣気が半空で激しくぶつかり合い、天を揺るがすほどの火花と稲妻を散らす!
縦横無尽に飛び交う刃の光が、目を開けていられないほどの眩しさを撒き散らした。
目にも留まらぬ超高速の攻防。
雷鳴が轟く黒洞の上空で繰り広げられる死闘はあまりに激しく、戦況は一時的に完全な拮抗状態へと陥ったのだった。




