11、ストランドでの暮らし
タイメラ王国から逃げてきてひと月。テレーシアは、アルフォンスとの暮らしにも慣れてきた。
料理や掃除は通いの使用人たちがしてくれるが。何か手伝いをしたいと、テレーシアは申し出た。
とはいえ物心つく前から神殿で聖女として生きてきたので、湯を沸かすにも時間がかかる。
やはり祈りと儀式と勉強ばかりの生活だったので、家事は苦手だ。
「水を凍らせるのは簡単なのですが」
「まぁ、気にしなくていいさ」
庭にあるテーブルの向かいの席に座るアルフォンスは、楽しそうにテレーシアが淹れた紅茶を飲んでいる。
ストランド王国は、テレーシアの故郷であるタイメラよりも北にある。空気は冷涼で、夏とはいえ吹く風は心地よい。
タイメラでは春に咲く薔薇が、ここでは夏の象徴だ。
「今日も薄いわ……」
紅茶をひとくち飲んで、テレーシアは肩を落とした。
寒冷の力を抑えているのに、どうしても火を見ると冷やしてしまいたくなるようだ。紅茶は沸騰した湯を使うからこそ、茶葉が開いて香りが立つ。
『しょうがないよぉ。火傷が治っても、火への恐怖は消えないでしょ』
庭に植えられた大輪の芍薬をイングリッドは眺めている。どちらもピオニーと呼ばれる芍薬と牡丹の区別が難しいようで、さっきから動かない。
華やかに重なって咲く赤い花弁が、炎を連想させるからなのか。イングリッドは『あの子、大丈夫なのかな』と呟いた。
確かにまぶたを閉じれば、足もとから迫ってくる炎の熱と痛みが昨日のことのように甦る。
テレーシアは、飴がけのナッツを口に運んだ。少し苦みのある外側のカラメルと、油分を感じるナッツの甘みがちょうどいい。
「とてもおいしいです。これで紅茶さえ上手に淹れられたなら」
「人には向き不向きがあるからな。あまり気にしなくていいと思うぞ。昨日、うちに来た男性は、テレーシアに感謝していたではないか」
いつの間にか、テレーシアが寒冷の聖女であることが広まっていたらしい。
アルフォンスによると「堅物な団長が、驚くほどの速さで結婚をした」「相手は誰だ」「色気もへったくれもない団長が、捨てられないか心配だ」と騎士たちが、テレーシアを見にきたときに、彼女を聖女と見抜いたのだという。
「イングリッドがいますから。ばれますよね」
「まぁな。俺だって、森であなたと出会ったときに、一目で気づいたからな」
アルフォンスは苦笑する。
昨夜、この家を訪れたのは、タイメラから避難してきた男性だった。タイメラは干害がひどく、水も食糧もないので難民がストランドに流れてきている。
土や砂で汚れてしまった服をまとった男性は、テレーシアを見ると涙を流した。
家の中に入るようにとアルフォンスが勧めても、男性は「汚れてしまいますから」と頑なに拒否した。
「ああ、寒冷の聖女さまは本当に生きていらした」
男性の声はかすれ、黒くなった手はかさかさだ。
テレーシアがグラスに入った水を与えると、何度も礼を告げて男性は飲み干した。
どれほどタイメラが干上がっているか、酷暑であるかが見て取れた。
「ストランドの国王陛下は国境付近での、避難民の滞在を認めておいでだが。なにぶん、人が多い。住むところは小屋を建てるしかないし、食糧や水を援助するのが精いっぱいだ」
アルフォンスの言葉に、男性はふるふると首をふる。
「しょうがありません。誰もビリエル殿下と暑熱の聖女を止められなかった。タイメラの王も、王子を諫めたんです。テレーシアさまを投獄していたことに苦言を呈していました。でも、王が国を空けている隙に処刑を強行するなど、どうして考えられましょう。あり得ないことです」
「タイメラでは、どのような暮らしをなさっておいでだったのですか?」
テレーシアの問いかけに、男性は豆を育てていたと話した。豆からオイルを取るのが生業だったと。けれど土は乾ききって、作物はすべて枯れ果てた。
「アルフォンスさま。小型で簡易なもので良いのですが。オイル絞り機を、タイメラからの避難民に与えることはできるでしょうか」
「宰相に相談してみるが。可能だと思うぞ」
こくりとテレーシアはうなずいた。
火刑の途中で、テレーシアは国境近くの森に飛ばされた。あの森は、誰も採取することのない木の実がたくさん落ちていた。
おそらくは胡桃やヘーゼルナッツ。
「豆の代わりに、ナッツのオイルを作って売ればどうでしょう。暮らしていくには、仕事と収入が必要ですよね。森の木の実で足りなければ、ひまわりを植えるのもいいと思います。あの花は一輪で少なくとも1500、多ければ3000の種ができるそうです。それに種の油脂量は豆よりも多いと聞きますから」
テレーシアの言葉に、男性は大きく目を見開いた。
「いずれまたタイメラに戻れる日が来ます。このストランドは寒冷地というほどではないので、ひまわりも育つでしょう。しかもあの花は耐暑性がありますから。水さえ確保できるようになれば、暑熱化したタイメラでも産業として成り立つでしょう」
アルフォンスもまた、テレーシアを眩しそうに眺めている。
「金銭的な援助だけではなく、ひまわりの種子とそれを育てる土地、それにオイル絞り機も宰相に掛け合ってみよう。国王陛下も許可してくださると思う」
「ありがとうございます。これで彼らの先の暮らしの見通しが立ちます」
テレーシアは、ほっとして柔らかな笑顔を浮かべた。
男性は、いやタイメラの民のほとんどは、寒冷の聖女が微笑むなど知らなかった。
「俺らの聖女さまは、テレーシアさまは、俺らを見捨てずに……いてくださる。あんなひどいことをされたのに……」
男性の声は震えていた。
◇◇◇
「テレーシアには、救える人がいる。聖女の力と培ってきた教養だ」
庭の芍薬を眺めながら、アルフォンスが紅茶のカップを手にする。
「わたくしはただ勉強をしていただけで。それに力はイングリッドがわたくしを選んでくれたからです」
アルフォンスに昨夜のことを褒められて、テレーシアは頬が染まるのを感じた。
「騎士の修行と同じで、勉学も続けることは難しい。継続できるのは、あなたの才能でもある」
まっすぐにアルフォンスが見つめてくるから。テレーシアは胸の奥で、何かが軽やかに跳ねるのを感じた。
「ありがとうございます、アルフォンスさま」
「アルフォンスでいいぞ」
「でも、形の上での結婚ですから」
「気にしなくていいのになぁ」
困ったようにアルフォンスが眉を下げた。
テレーシアと彼に名を呼ばれると、それだけでも耳が喜ぶのが分かるのに。さらに敬称をつけずにアルフォンスと呼ぶとなると。緊張が極限に達するに違いない。