迫る魔の手
丸和リテールの試験導入が本契約の話に進み始めた頃、風向きがきな臭くなった。
俺が営業で結果を出すほど、郷田係長の当たりが露骨になっていった。
渡すべき資料を俺にだけ回さない。客先への同行メンバーから、理由もつけずに外す。朝礼で、俺の数字をわざと小さく読み上げる。細かい嫌がらせを、飽きもせず積み重ねてくる。二十四年、こういう陰湿な先輩も、俺は何人も見てきた。放っておけば、いずれ大きな仕掛けを打ってくる。そういう予感があった。
予感は、残業の夜に当たった。
フロアに二人きりになった頃合いを見て、郷田が俺の背後に立った。肩を揉むふりをして、手を首筋から下へ滑らせてくる。
「熊沢。お前、丸和を一人で抱えるのは荷が重いだろ。俺が手伝ってやるよ。……そのかわり、お前も、俺に優しくしてくれないとなあ」
耳元で囁かれて、虫唾が走った。これは指導じゃない。立場を盾にした、むき出しの要求だ。昇進も、案件の割り振りも、全部こいつの胸先三寸。それをちらつかせて、体を差し出せと言っている。
俺は椅子を引いて距離を取り、「係長、録音、回ってますけど」とだけ言った。はったりだ。だが郷田の手は、ぴたりと止まった。やましい人間ほど、記録の二文字に弱い。郷田は「冗談だよ、冗談」と笑って離れたが、目は笑っていなかった。
*
厄介なのは、もう一人いたことだ。丸和の寺脇部長だった。
本契約の詰めと称して、寺脇は夜の席に俺を呼び出すようになった。最初は会食。次は二軒目、三軒目と場所を変える。そして、はっきりと匂わせてきた。
「熊沢さん。契約のハンコってのはね、こういうのは、人と人の距離が縮まってこそ、押せるもんなんだよ。書類だけじゃあ、なかなかね。……どうだい、今夜はもう少し、二人きりで、ゆっくり話そうか」
俺の肩に手を回し、タクシーでホテルの方へそれとなく水を向ける。商品ではなく、俺の体を、契約のハンコの対価に換算している目だった。遊郭の……いや、とにかく、この手の粘つく視線を、俺はいやというほど知っている。
背筋が冷えた。だが俺は、顔に笑みを貼りつけたまま、頭の奥で算盤を弾き始めていた。逃げるだけなら簡単だ。だがそれでは、丸和の契約も飛ぶ。逃げずに、かわしながら、こいつを仕留める。その算段を。
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郷田と寺脇。やり口は、同じだった。立場を盾に、体を要求する。
二十四年、こういう手合いを、俺は何人も見てきた。そして、こういう手合いの倒し方も、知っている。感情で殴り返しても勝てない。奴らは「言った言わない」の泥沼が得意だ。涙で訴えても、気の迷いだ酔った上だと言い逃れる。だから、泥沼にしない。
証拠だ。日付、時刻、発言。動かぬ記録を一つずつ束ねて、奴らが一番逃げられない刻に、正面から突きつける。
俺は、郷田の残業の誘いにも、寺脇の夜の席にも、顔では戸惑うふりをして応じ続けた。その実、手帳型のレコーダーを回し、メールの文面を保存し、材料を一つずつ積み上げていった。かわし続けるだけでは、いつか捕まる。守りは、攻めに転じて初めて、本物の守りになる。これも営業で覚えた。
手帳の新しいページに、俺は書いた。棚卸し、開始。二十四年、最後の武器を使うときが来た。
次に奴らが仕掛けてきた夜が、精算の刻だ。




