社長の誘い
社員旅行から半月後、俺は社長室に呼ばれた。
新人が社長直々に呼ばれるのは異例だ。営業部長が青い顔で「おい熊沢、何かやらかしたか」と小声で聞いてきた。身に覚えはない。強いて言えば、丸和の試験導入が数字で跳ね始めたくらいだ。悪い話ではないはずだが、こればかりは入ってみないとわからない。俺はネクタイを締め直す気分で、スーツの襟を正して社長室の扉を叩いた。
大沢社長は、意外なほど機嫌がよかった。革張りの椅子を回して、俺を上から下まで眺めると、満足そうに頷いた。
「熊沢くん。丸和の件、聞いたよ。新人が落ちない城に穴を開けた。歴代の精鋭が跳ね返された相手だ。……たいしたものだ」
そして、こう続けた。
「どうだね。営業なんて泥臭いところでくすぶるより、社長室づきの秘書に来ないか。私の隣で、要人の相手をしてほしい。給与も待遇も、営業の比じゃない。君のその華なら、うちの顔になれる」
*
秘書室。給与も待遇も段違い。社長の顔として、要人の隣に立つ仕事。
普通の新人なら、二つ返事で飛びつく話だろう。出世の近道だ。だが俺は、迷わなかった。考える間もなく、口が動いていた。
「ありがたいお話ですが、お断りします」
社長が、片眉を上げた。
「俺は、営業でメシを食いたいんです」俺は背筋を伸ばした。「要人の隣で微笑むより、売り場を歩いて、死んでる棚を一つずつ生き返らせる方が性に合ってます。数字で城を落とす。それが俺の仕事だと思ってます。華で選ばれても、俺は嬉しくありません。売った数字で選ばれたい」
言ってから、しまったと思った。新人が社長の誘いを正面から蹴る。角が立つどころの話じゃない。だが口は、おっさんの本音を勝手に喋っていた。二十四年、俺は売り場でメシを食ってきた。今さら、微笑むだけの椅子には座れない。座ったら、自分じゃなくなる。
社長は、しばらく黙って俺を見ていた。品定めのような、値踏みのような目だ。やがて、腹の底から豪快に笑った。
「……面白い。待遇で釣られん新人は久しぶりだ。よし、営業で好きにやれ。ただし、口で言った分の結果は出せよ。出せなきゃ、ただの生意気な新人だぞ」
「はい。城を、いくつでも落としてみせます」
*
社長室を出ると、廊下で郷田係長が待ち構えていた。腕を組んで、壁に寄りかかっている。
「社長に呼ばれて何を話した。新人のくせに、ゴマでもすってきたか」
「秘書室に誘われましたが、断りました」
郷田の顔が、ぽかんと固まった。それから、信じられないという表情に変わっていく。あとで知ったが、秘書室は郷田が長年、裏で手を回して狙っていたポストだったらしい。社長への売り込みも重ねていたという。それを、入ったばかりの新人が、鼻先であっさり断った。
「……お前、何様のつもりだ」
「ただの、営業志望の新人です」
俺は軽く頭を下げて、営業二部の島へ戻った。背中に、郷田の刺すような視線が張りついている。この男は、いずれ本気で潰しにくる。二十四年の勘が、はっきりとそう告げていた。来るなら来い。受けて立つ算段は、もう頭の中で組み始めていた。




