海とビキニ
社員旅行の二日目は、近くの海岸での自由行動だった。
同期の相沢に「熊沢さん海行きましょう」と引っ張られて、俺は水着を持たされた。
支給ではなく各自持参。だが俺は水着など持っていない。すると相沢が「予備があるんで」と、自分のバッグから一着を取り出した。「新人同士、おそろいっぽくしましょうよ」。
手渡されたのは、赤いビキニだった。
俺はそれを手のひらに広げて、しばらく眺めた。上下で、二枚の小さな布。紐が、やけに多い。これのどこが水着なのか。中身のおっさんの常識では、これは水着というより、せいぜい包帯か何かだ。重さもほとんどない。手の中で、頼りなく揺れている。
「……相沢。これ、布が足りてないぞ。不良品じゃないのか」
「ビキニってそういうものです。熊沢さんスタイルいいんだから、絶対似合いますって」
似合う似合わないの問題じゃない。中身は四十六の男だ。海パン一枚ならまだしも、こんな紐みたいなものを体に巻いて人前に出るなど、羞恥以前に、意味がわからない。赤という色も、やけに主張が強い。俺は赤い布を手に、更衣室の中で、たっぷり三分は突っ立っていた。
だが、断れば相沢ががっかりする。それに、浜へ行くと言ったのは、断れなかった自分だ。郷に入れば郷に従え。俺は腹を決めて、しぶしぶ、その赤いビキニに袖を……袖はない。とにかく、しぶしぶ身につけた。
鏡の前で、俺はまた首をひねった。布の面積は、やはりどう見ても足りない。心もとないどころの話じゃない。中身のおっさんとしては、海水パンツ一枚の方が、百倍、心が落ち着く。俺は羽織ってきたパーカーの前を、これでもかとしっかり閉めて、砂浜に出た。これならまあ、ただの浜辺の新人だ。そう思っていた。
*
浜に出た途端、周りの空気が変わった。
近くでバーベキューをしていた若い男のグループが、一斉にこちらを見た。パラソルの下の男たちも、サングラス越しに視線を送ってくる。通りかかったナンパ待ちらしい連中まで足を止めた。相沢が「うわ、めっちゃ見られてる」と俺の腕をつついた。
「新人の俺らが珍しいんだろ」と俺は言った。
「……熊沢さん、たまに本気で何も気づいてないですよね」相沢が呆れたように笑った。「パーカー閉めてても意味ないですよ、その破壊力」
破壊力もなにも、俺はただ浜を歩いているだけだ。中身はおっさんで、浜辺の視線は昔から海の家の呼び込みくらいにしか思っていない。相沢の言う意味が、やっぱりよくわからなかった。
この相沢という同期は、変に俺を飾らない。そこが気楽でよかった。女子大生のころからずっと、俺の周りの女はたいてい、俺のモテを警戒して距離を取る。合コンでも職場でも、同性の視線はいつも少し冷たい。だが相沢だけは、俺を「ちょっと変わった同期」として普通に扱ってくれる。おっさんの俺には、その普通が一番ありがたかった。
*
波打ち際で、相沢が貝殻を拾い始めた。俺も付き合って屈み込む。打ち寄せる波が、足首を冷たく洗っていった。
「熊沢さんって、彼氏いないんですか。あんなにモテるのに」
「いないな」
「意外。作らないんですか」
俺は答えに詰まった。作らないのではない。作れない、に近い。この体で誰かと添い遂げるとは、どういうことか。その先には、どうしても越えられない一線がある。想像しかけて、俺はいつも、そこで思考を止めてしまう。
だが、それを二十三歳の同期に話せるはずもない。俺は「仕事が面白くてな」と、当たり障りなく流した。
「出た、社畜発言」相沢が笑って、拾った桜貝を俺の手のひらに載せた。「はい、お近づきの印」
俺はその小さな貝を、しばらく眺めた。くだらない冗談だ。だが、こういう何でもないやり取りが、この体になってからの俺には、やけに沁みる。
「熊沢さんって、なんか達観してますよね。二十三には見えないっていうか」
「老けてるってことか」
「違いますよ。落ち着いてるってこと。頼れる感じ」相沢は桜貝をもう一つ拾って、自分のポーチにしまった。「だから女子にもモテればいいのに。顔だけじゃなくて中身も、って」
中身で勝負したら、それこそ一番モテないだろうな。四十六のおっさんだぞ。俺は心の中でそう返して、口には出さなかった。
浜の向こうで、先輩たちがビーチボールで騒いでいる。郷田がこちらをちらちら見ているのにも、俺は気づいていた。だが気づかないふりをした。あの手の視線は、相手にするだけ損だ。二十四年、しつこい取引先の相手で学んだ。見ない。取り合わない。それが一番こたえる。
相沢は「帰りにソフトクリーム食べましょ」と立ち上がった。俺も立ち上がる。笑いながら、胸の隅に小さな澱が残った。この明るい浜で、楽しげに笑う同期の隣で、俺一人だけが、どこか遠い場所に立っている気がした。海は、どこまでも明るかった。その明るさが、少しだけ、こたえた。




