社員旅行、浴衣の夜
初夏、営業二部の社員旅行があった。
伊豆の温泉宿だ。俺はこういう行事が嫌いじゃない。二十四年、宴会は商談の続きだと思って生きてきた。酌をして場を回して、翌朝きっちり覚えている。それが営業の夜の仕事だ。誰が何杯で崩れるか、どの話題で財布の紐が緩むか。宴席ほど人間の本音が転がっている場所はない。
問題は、支給された浴衣だった。
宿の浴衣に袖を通して、俺は鏡の前で首をひねった。女の体に浴衣はずいぶん心もとない。帯一本で成立している服だと改めて思う。襟元もどうにも頼りない。油断すると胸元が開く。俺はきっちり衿を合わせ、帯を締め直して、もう一度鏡を睨んだ。よし、これで隙はない。中身のおっさんとしては、スーツの方がよほど戦闘服らしくて落ち着くのだが。
宴会場に入った瞬間、場がどよめいた。
男性社員たちが箸を止めてこちらを見る。若手が顔を赤らめ、年配が湯呑みの茶をこぼす。隣の課長が、連れの部長の脇腹を肘でつついている。視線が、妙に俺の腰のあたりに集まっていた。俺はそれを「新人が遅れて来たから席を気にしてくれているんだな」と解釈した。中身はおっさんだ。浴衣姿の女に宴会場がどよめく理由が、本気でわからない。
末席に座ろうと歩き出したとき、相沢が血相を変えて駆け寄ってきた。俺の袖を引いて、物陰へ連れ込む。
「熊沢さん、下着。下着のラインが、浴衣に、もろに浮いてます」
「下着?」
「浴衣の下、普通のブラとショーツでしょう。薄い生地だと、くっきり透けるんです。歩くたびに、形まで……男の人たち、さっきから全員そこ見てますよ」
言われて、俺は初めて自分の腰に目をやった。確かに、浴衣の薄い木綿に、下着の輪郭がうっすら浮いている。中身はおっさんだ。浴衣の下には響かない下着をつける、なんて知恵は、脳のどこにもなかった。いつもの調子で、普通の下着の上に、そのまま浴衣を着ていた。
「無防備すぎます。女子としての危機感、ゼロですよ」相沢が呆れ果てた顔で言った。
「……浴衣ってのは、そんな気を遣うもんなのか」俺は素直に感心した。四十六年、浴衣の下の心配なんて、一度もしたことがない。
俺は慌てて、宿の羽織を一枚借りて腰に巻き、ラインを隠した。男性陣から、小さなため息のような声が漏れた。残念がっているのか、安堵しているのか。どちらにしろ、俺の知ったことじゃない。危機感ゼロの新人は、ようやく腰を落ち着け、末席にちょこんと座り直した。
*
俺は手酌ならぬ、酌をして回った。
部長に、課長に、先輩たちに。誰が何を飲み、どの話で機嫌が直るか、宴会一つで頭に叩き込む。職業病というやつだ。専務は昔話に弱い。経理の課長は孫の写真を見せると三杯進む。そういうことを体で覚えるのが、俺の二十四年だった。おかげで俺の周りには、自然と人の輪ができていった。
だが郷田係長だけは、絡み方が違った。
「熊沢。俺の酌もしてくれよ。……もっと近くでさ」
俺が徳利を向けると、郷田は受ける盃をわざと傾けた。そのまま俺の手に自分の手を重ねようとする。酒臭い息が近い。空いた盃を突き出して、一気に注げと迫る空気も作ってくる。注げば、次は「返杯だ」と言って距離を詰めてくる腹だろう。見え透いている。
俺は、盃に酒が満ちる寸前で、すっと徳利を引いた。
「係長、いける口ですね。でも明日の朝、丸和の追加提案があります。係長のお名前も出しますから、二日酔いで同席されたら、格好がつきませんよ」
仕事の話を逃げ場に使う。酔いの席で絡んでくる上役を、翌日の商談でやんわり縛る。これも宴会芸の一つだ。郷田は「ちっ」と小さく舌打ちして、手を引っ込めた。周りの手前、無理押しもできない。
俺はその夜も素面のまま、座をひと回りしきった。酔い潰れた若手に水を配り、脱いだ上着を畳んでやり、くだを巻く課長の昔話に相槌を打つ。宴会というのは、放っておくと必ず誰かが潰れ、誰かが揉める。それを未然にさばくのが、二十四年やってきた俺の役回りだ。気づけば末席の新人が、いつのまにか宴会の司令塔になっていた。
宴がはけたあと、相沢が感心した顔で寄ってきた。
「熊沢さん、ああいうの慣れてますよね。新人っぽくないっていうか」
「場を回すのは得意なんだ。昔から」
昔から、は嘘じゃない。ただその昔が、四十六年分だとは言えないだけだ。俺は曖昧に笑って、ロビーの自販機で水を二本買い、一本を相沢に放った。
部屋に戻って、俺はようやく帯を解いた。浴衣は、やはり心もとない。だが今夜は、この心もとない一枚のおかげで、郷田の下心も、課長のくだも、全部いなしきった。道具は使いようだ。中身はおっさんだ。浴衣の頼りなさより、明日の商談の数字と、潰れた同僚の明日の二日酔いの方が、俺にはずっと気がかりだった。




