もう一日だけ
その後、ヒルダは錆鉄の冒険者ギルドに滞在することになった。
本人の言葉によれば、あくまでも短期間の滞在であり、近いうちにヘクトール伯爵家へ戻る予定らしい。
ノーマンが昼間、ほかの冒険者たちと依頼へ出ている間、ヒルダはギルドに残り、手の空いている冒険者や職員たちと話をしたり、ロイが他国から輸入したという「粉ミルク」の使い方を興味深そうに教わったりしていた。
ギルドの者たちはヒルダとの会話を好んだ。彼女は聞き上手で、いつも穏やかな微笑みを浮かべている。人を頭ごなしに否定することもなく、結論を急ぐこともない。
ノーマンはまだ冒険者としては新人だったが、戦闘能力は飛び抜けていた。将来的にギルドの重要な戦力になることは誰の目にも明らかだった。
ギルドの仲間たちは、この家族を気に入っていた。
いつも温かな目で見守っていた。
最初の夜。
慣れない部屋のせいか、普段はぐっすり眠るヒルダが夜中に目を覚ました。
窓から差し込む月明かりの中、エイデンがゆったりと揺れる揺り籠の中で安らかに眠っているのが見える。
母親が起きていることなど知らずに。
その時、ヒルダは何かに押されているような感覚に気付いた。
隣ではノーマンが奇妙な姿勢で眠っていた。
まるで正体不明の甲殻類のように体を丸め込み、そこから一本だけ腕を伸ばしている。
そしてその手は、ヒルダの手を握っていた。
ヒルダはしばらく二人の手を見つめた。
そっと手を引こうとしたが、眠っているノーマンがわずかに眉をひそめる。
その様子を見て、彼女は動きを止めた。そして最後には、自分からその手を優しく握り返した。
一日目。
ノーマンは依頼書に書かれていた数を遥かに超える獲物を狩ってきて、ロイにこっぴどく叱られた。
「だからそんなに狩らなくていいって言っただろ! 五匹って書いてあるのに五十匹も狩ってくる奴があるか!」
「五匹は最低ノルマだと思ってたんですけど。」
「だったらせめて七匹とか八匹にしろ! なんで五十匹なんだ! 飢え死にでもすると思ったのか!? お前、何日飯を食わなかったことがあるんだ!」
「五日。」
ロイは思わず目を見開いた。
「いや、正確には丸々五日じゃないですけど。草を十分に抜かなかったって管理人に怒られて――でもちゃんと指定された量は抜いたんですよ? それで独房に入れられて。幸い壁が柔らかかったので、中にシロアリがたくさんいて……」
ロイも橘も、その場の冒険者たちも呆然としていた。
ヒルダは慌ててノーマンを隅へ引っ張っていき、
「念のためでも、ちゃんと適量というものがあるのよ」
と真剣に説教することになった。
二日目。
真夜中にエイデンが大泣きを始めた。
ノーマンは授乳し、おむつを替え、服も着替えさせた。
だが全く泣き止まない。
やがてギルド総出の騒ぎになった。
玩具を持ってくる者。
面白い芸を披露する者。
魔法で光を出す者。
ありとあらゆる方法を試したが、エイデンは泣き続けた。
三時間後。
ロイも、橘も、ノーマンも、冒険者たち全員も疲れ果てていた。
誰もが今にも眠りそうな顔をしている。
それなのに、騒動の中心人物であるエイデンだけは元気だった。
ようやく騒ぎで目を覚ましたヒルダが、寝ぼけ眼のまま部屋から出てくる。
「どうしたの?」
そう言いながらエイデンを抱き上げる。
するとエイデンは満足そうな顔をして、そのまま眠ってしまった。
談話室にいた冒険者たちは、一斉に裏切られたような顔でエイデンを見つめた。
「俺たち三時間何やってたんだ?」
「ただお母さんに会いたかっただけじゃねぇか!」
三日目。
橘がヒルダの髪を切り、アカハン地方で流行している短髪に整えた。
誰もがよく似合うと言った。
その隙に、ノーマンは切り落とされた髪を一本拾い上げていた。
「おい、何してる?」
橘が問い詰める。
「記念にしようかなって……お守りとか。」
ノーマンは気まずそうに答えながらも、髪を渡そうとはしなかった。
「どこでそんな発想を覚えたんだ?」
「小説です。」
それを見ていたヒルダは少し頬を赤くした。
しかし橘は青ざめた顔になった。
「待て。それってまさか『虐げられた奴隷少女は、孤独な大公に溺愛される』の展開じゃないだろうな?」
「ロマンチックだと思うんですけど……」
四日目になって、ようやくロイが口を開いた。
「お前、まだ帰らないのか?」
ヒルダは顔を上げた。
ノーマンは彼女の膝を枕にして気持ちよさそうに眠っている。
その隣ではエイデンも眠っていた。
「もう一日だけ。」
「昨日も同じこと言ってたな。その前の日も。」
「……分かってるわ。」
ヒルダには見えない位置で、ノーマンは嬉しそうに笑った。
その夜、エイデンはよく眠った。
ギルドには久しぶりに静かな夜が訪れた。
そして五日目の朝。
一通の手紙が届いた。
その時ヒルダはノーマンとエイデンの隣に座り、人々の輪の中心でロイが語る武勇伝を聞いていた。
ロイの大袈裟な語り口に、皆が腹を抱えて笑っていた。
しかし手紙を読んだ瞬間。
ヒルダの笑顔は消えた。
「どうした?」
ロイが心配そうに尋ねる。
「大使館で動きがあったの。」
ヒルダの顔色は青白かった。
ディマン王国にあるリタール王国大使館から連絡が入った。
エリカ王妃に密かに忠誠を誓う女性からの報告だった。
ハントが大使館を離れ、帰国船に乗ったという。
やがて。
別れの時が訪れた。
ノーマンはエイデンを抱いて入口に立ち、馬車へ乗り込むヒルダを見送っていた。
隣ではロイが、今にも泣きそうな彼の顔を見てため息をつく。
「そんな顔をするな。ヒルダはお前たちのために、一週間もハントを放置してたんだぞ。」
「分かってますよ……」
ノーマンは乱暴に目をこすった。
涙を止めようとしているのに、声はますます震えていく。
その時だった。
動き始めた馬車の中から、ヒルダが停止を命じた。
扉が開く。
彼女は飛び降りるようにして地面へ降り、ノーマンとエイデンの元へ駆け戻ってきた。父子を見上げたまま、ヒルダ自身も少し戸惑っているように見えた。
その瞬間。
ノーマンは馬鹿げた期待を抱いてしまった。
もしかしたら、ヒルダは残ってくれるかもしれない。
もしかしたら伯爵夫人という立場を捨ててくれるかもしれない。
もしかしたら、この数日間のような生活が永遠に続くのかもしれない。
けれど――
ヒルダはただ優しくノーマンに口づけをした。
彼女からキスをされたのは初めてだった。
それは短く、儚く、美しい夢のようだった。
ノーマンはぼんやりと、エイデンが生まれた日に空から言われた言葉を思い出した。
「もし彼女たちが、恋のために全てを捨てる女性だったなら、僕たちはそもそも彼女たちを愛していないと思うよ。恋をしている人間はね、愛する相手には特別であってほしいものなんだ。」
ヒルダは最後にもう一度エイデンを抱きしめた。
そして振り返り、再び馬車へ乗り込む。
今度の馬車は止まらなかった。まっすぐ前へ進んでいく。その背中が見えなくなった時、ようやくノーマンの涙が零れ落ちた。
エイデンはまだ何も分かっていない。母親が面白い遊びをしているのだと思っていた。小さな手を振りながら、楽しそうに笑っている。
三人の中で。
泣かなかったのは、エイデンだけだった。




