泣き虫な父と息子
ロイは呆れたようにノーマンを見た。
「だから、そんなに早く飛び出してくるなと言っただろう?」
「無理でした……」
ノーマンはうつむき、そのまま顔をヒルダの首元へ埋めた。
「そうか。だが依頼を受けるのを焦ったせいで数を勘違いして、一度に紫晶猿を五十匹も狩ってきた時は、ずいぶん勇敢そうだったぞ。おかげでギルドは猿の死体に埋まりかけた。処理が間に合わなければ腐臭で地獄になるところだったんだからな」
ロイは不機嫌そうに言った。
その後ろでは冒険者たちが楽しそうに笑っている。
ヒルダはノーマンの腕から抜け出し、エイデンをそっと彼の腕に預けると、改めてロイへ丁寧に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。損害があれば、必ず補償いたします」
「構わん。猿の死体はすぐ売り払ったから損害は出ていない」
「でしたら、せめて皆さんにお酒と食事をご馳走させてください。この間、私の家族を助けてくださったお礼です」
ヒルダはマントの中から袋を取り出した。
ずっしりと重そうなその袋の中では、金属同士がぶつかる音が鳴っている。
冒険者たちはその音だけで、中に大量の金貨が入っていることを察したらしく、歓声を上げた。
「最高の酒だ!」
「肉を注文しろ!」
「今日は宴会だ!」
その騒ぎの中で、ヒルダは改めて談話室を見回した。
そこは完全にエイデン育児の痕跡に占領されていた。
依頼掲示板の横には育児メモが貼られている。
『赤ん坊はミルク以外食べられません!』
『宝石を渡すな! 飲み込む!』
『枕は禁止!』
『誰だ俺のタオルをエイデンのよだれ拭きに使ったやつは!』
冒険者たちの歓声を聞きながら、ロイは深いため息をついた。
「その金はお前たちで使え。好きな酒と飯でも買ってこい。今夜はこの家族の再会を祝う宴だ」
「やったー!」
「エイデンのお母さんありがとう!」
「会長ありがとう!」
「それと、お前たち二人は子供を連れて執務室へ来い。今後のことを話し合う必要がある」
◇
ロイに連れられ、ヒルダとノーマン、それにエイデンは再び執務室へ戻った。
ギルドマスターの部屋としては驚くほど簡素な造りだった。
名誉を示す勲章もなければ、獲物の剥製も、感謝の贈り物も飾られていない。
ヒルダとノーマンがソファに腰を下ろすと、ロイは上着の内側から紫色の宝石が埋め込まれた魔道具を取り出し、ボタンを押した。
「盗聴と録音の魔法は切れた。二人でゆっくり話せ。私は後で戻る」
そう言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まると、ノーマンは嬉しそうにヒルダを見つめた。
瞳が輝いている。
言いたいことが山ほどあるのだろう。
だがヒルダは扉を疑わしそうに見つめていた。
「本当に魔法を切ったと思う?」
「雰囲気台無しですよ、奥様……」
ヒルダは部屋をもう一度確認してから、ようやく席へ戻った。
ノーマンは嬉しそうに口を開こうとしたが、ヒルダに鋭い視線を向けられると、叱られた猟犬のように大人しく姿勢を正した。
「どれだけ心配したと思っているの!」
「ご、ごめんなさい……」
「あなたがエイデンを連れて消えたと知った時、どれだけ怖かったと思う? 道中で悪人に襲われたら? 病気になったら?」
「ごめんなさい……」
「それより、この数日エイデンに何を飲ませていたの? まさか小説みたいに牛乳なんて飲ませてないでしょうね?」
「屋敷の乳母から教わっていました。最初の日は持参した分を使って、その後は通りかかった村で出産経験のある女性に謝礼を払って助けてもらいました。三日目に錆鉄の冒険者ギルドへ着いてからは、橘さんが乳母を探してくれて、ロイ会長が粉ミルクの入手先も教えてくれました」
エイデンがきちんと食事を取れていたと知り、ヒルダは少しだけ安堵した。
だが怒りはまだ残っている。
「この世界は危険なのよ! 小説みたいに、道を歩けば親切な村人や正体を隠した強者や、不思議な高位種族が助けてくれると思ったの?」
――あれ?
でもノーマンとエイデンは、実際に希少な高位種族である精霊のロイに助けられている。
そう思った瞬間、少しおかしくなった。
怒りがようやく薄れていく。
ヒルダはため息をついた。
「あなたは何を考えていたの? 私が全部何とかできないと思ったの?」
「私がそんな冷たい女に見える? 息子の父親で、刺客に囲まれた私を助けてくれた人を見捨てるような?」
「でも、ハント様が奥様の本当のご主人です」
「忘れたの? 夫の役目を代行しろと言ったのは、あの人自身よ。今さら撤回なんてさせないわ」
「そこまでしてくださらなくても……。私はエイデンの父親です。でも責任感だけで苦しんでほしくありません」
「そうじゃないわ」
ヒルダは静かに言った。
「私がこうしているのは、あなたも大切だから」
「え……?」
「エイデンは大切よ」
「あなたも大切」
「それだけの話。ごめんなさい。ずっと、自分の気持ちを伝えていなかったわ」
ノーマンは泣き始めた。
涙が頬を伝い、やがて声を上げて泣き出す。
父親の腕の中にいたエイデンは、ぼんやりとそんな様子を見つめていた。
二秒ほど沈黙した後――
つられるように大泣きを始めた。
ヒルダは完全に途方に暮れる。
いっそロイを呼び戻そうか。
どうせ怒られるだけだ。
そんなことまで考えてしまった。
◇
しばらくして、ようやくノーマンは落ち着きを取り戻した。
エイデンも二人がかりで寝かしつけることに成功した。
「奥様を信じていなかったわけではありません」
ノーマンは涙を拭いながら言った。
「伝言を残せば、きっと追いかけて来てくださると思っていました……。もちろん馬鹿な考えでした。だから逃げ出した初日の夜には後悔していました」
「じゃあ、どうして戻らなかったの?」
「あることが起きたんです」
ノーマンは真剣な顔になる。
「急いで移動していたので、その夜は廃村の農家に泊まりました。私が少し離れて用を足しに行った時です。突然、エイデンの泣き声が大きくなって――」
彼は息を飲んだ。
「周囲のものが、その声で切断されたんです」
木の机が真っ二つになった。
壁には鋭い裂け目が走った。
農家の屋根にまで大きな亀裂が刻まれた。
「……そんな馬鹿な」
「二日前にも起きました。幸いギルドの部屋には防護魔法陣があったので無事でした。その時ははっきり分かったんです。あの泣き声は、奥様の嘯声魔法とそっくりでした」
ヒルダは父親の腕の中で眠るエイデンを見つめた。
まさか乳児のうちから、セイレン男爵家の嘯声魔法が覚醒するとは思わなかった。
そんな前例は家系史にも存在しない。
しかもノーマンの話が正しければ、その才能は異常なほど強力だ。
セイレン男爵家でも、ここ数代は現れていないほどの逸材かもしれない。
その瞬間、ヒルダはノーマンが逃亡を続けた理由を理解した。
もしエイデンが伯爵家で力を見せれば、どれほど使用人を管理しても、商人や客人の誰かに見聞きされる可能性がある。
噂が広まれば、エイデンは過去の天才たちと同じ運命を辿るだろう。
守る力を持つ前に利用され、奪い合われ、そして若くして潰される。
「奥様は以前、男爵家の天才たちの話をしてくださいました」
ノーマンは静かに言った。
「皆、不幸な人生を送ったと」
「私は奥様に出会う前、とても苦しかった」
「だから、エイデンだけは同じ目に遭わせたくなかったんです」
ヒルダは眠る息子を見つめた。
―この子だけは。
―絶対に、そんな人生にはさせない。
そう強く心に誓った。




