錆鉄ギルドの子守唄
ヒルダが錆鉄の冒険者ギルド支部に到着すると、すぐにギルドマスター室へと案内され、支部長であるロイから盛大に叱責を受けることになった。
ロイは黒褐色の肌に銀色の髪、そして先端の尖った特徴的な耳を持っていた。衣服から覗く腕や脚、さらには頬にまで、複雑な紋様のルーンが刻まれている。
ロイはエルフだった。
ヒルダは学院で初めて彼に会うまで、エルフとは伝説の中にしか存在しない種族だと思っていた。
伝承によれば、エルフは深く閉ざされた森の奥で暮らし、高度で繊細な魔法を操り、人間の世界には一切干渉しないという。
だからこそ、ロイの存在は特別だった。
なぜ同胞から離れ、人間の社会に住み着き、しかもエルフらしからぬ開放的な性格で冒険者ギルドまで運営しているのか。
人々はいつも興味津々に噂していた。
そんな昔を思い出す時間を与えるつもりはないらしい。
ロイはヒルダが持参した礼物を脇へ押しやると、彼女の正面に立ち、じろりと睨みつけた。
その光景に、ヒルダは一瞬だけ翡翠魔法学院時代へ引き戻された気分になった。
ロイは学生に対して常に厳しかった。
提出物や魔法の成果が彼の基準に達していなければ、何度でもやり直しを命じる。
怠けているところを見つければ容赦なく叱られる。
短期講義の終盤には、結局エリカとヒルダだけが最後まで残ったが、その二人に対してもロイは一切手加減をしなかった。
要求すべきことは要求し、叱るべきことは叱る。
それがロイだった。
「お前はいったい何を考えているんだ? エイデンを産む前に、その後のことを少しも考えなかったのか?」
ヒルダは少しだけ間を置いて答えた。
「考えていましたよ。」
「何をだ?」
「私にもヘクトル伯爵家にも後継者が必要でした。エイデンはハントが出国してから十か月後に生まれましたし、貴族たちの前にも姿を見せています。あの容姿なら誰が見てもヘクトル家の血筋だと分かります。これから先も私が守れば、穏やかに暮らせるはずです。」
「じゃあ父親はどうするつもりだった?」
「ハントはディマン王国でヴィクトリアのそばに残る予定でした。ノーマンは屋敷で私と一緒に暮らします。」
「だが今、そのハントが帰ってこようとしている。どうあれ、法的にはあいつがお前の夫だ。」
「その件は私が何とかします。」
「じゃあ、あの少年についてはどう考えている?」
「エイデンのことですか?」
「違う。ノーマンだ。」
ロイは眉間を押さえた。
「追い出すつもりはないようだが、あいつを何だと思っている? エイデンの父親で、お前の護衛で、ベッドの相手でもある。なのに夫ではない。そんな都合のいい立場が存在すると思うのか?」
「ノーマンもエイデンも、私にとって大切な人です。」
「どの程度だ? お前はあいつとどんな関係になりたいんだ?」
「それは……とても大切な人です。」
「便利な代用品だって大切だろう?」
「そういう意味じゃありません。」
「じゃあ、お前はそれを本人に伝えたのか?」
ヒルダは黙り込んだ。
ロイは誇らしくもあり、頭痛の種でもある教え子を見つめ、深いため息をついた。
「来い。エイデンに会わせてやる。」
ロイに案内され、ヒルダは執務室を出て廊下を進み、明るい一室へと入った。
「ここは談話室だ。冒険者たちが暇なときに集まって過ごしている。」
ヒルダは興味深そうに室内を見回した。
そこには統一感のないソファや肘掛け椅子が並んでいたが、共通しているのはどれも座り心地が良さそうなことだけだった。
椅子の間には様々な形のテーブルが置かれ、その上には手紙や書類、ティーカップ、食べかけの菓子――そして、なぜか哺乳瓶が転がっている。
窓際には白い布が干されていた。
どう見ても赤ん坊のおむつだった。
さらに掲示板には依頼書の隣に、
『本日の当番表』
と書かれた紙が貼られている。
三時間ごとに区切られた時間の横には冒険者たちの名前が並んでいた。
「気になるか?」
ロイが尋ねる。
ヒルダは頷いた。
「あの馬鹿息子が依頼に出ている間、俺たちがエイデンを見るための当番表だ。」
その直後。
どこかから赤ん坊の泣き声が聞こえた。
ヒルダが振り向く。
そこにはエイデンがいた。
数人の冒険者が集まり、慌ててあやしている。
抱き上げて揺する者。
玩具を振る者。
光る宝石を見せて気を引こうとする者。
見覚えのある顔も何人かいた。
ロイの短期講義の最終試験で実戦訓練を行った際、試験補助として参加していた冒険者たちだ。
中央でエイデンを抱いている女性は、有名な「鉄の女」タチバナだった。
大柄な体には無数の傷跡が走っている。
溶けた金属の溶岩の中から姫君を救い出したことで、その傷と莫大な報酬を得たという伝説的な冒険者だった。
ロイは冒険者たちの輪に入り、タチバナからエイデンを受け取る。
そしてそのままヒルダのもとへ歩いてきた。
周囲の冒険者たちも視線をヒルダへ向ける。
やがて、その表情は困惑から納得へと変わった。
まるで妻子を捨てた最低の男を見るような目だった。
「なるほど……この人がノーマンの……アレか。」
「見た目はいい人そうなのにな。」
「まさかこんなことするとはな。」
「リタール王国の貴族ってディマン王国の血筋だろ? 子供と父親を捨てるのも納得だな。」
どういう話になっているの?
ヒルダは本気で困惑した。
ロイはエイデンを彼女の腕の中へ押し付けた。
ヒルダは慌てて様子を確認する。
肌は清潔で柔らかく、服からは干したばかりの心地よい香りがした。
大切に世話されているのが一目で分かる。
エイデンは母親を見るなり、きゃっきゃと笑い始めた。
数日ぶりに息子を抱いたヒルダは、どう反応すればいいのか分からなくなる。
「こんな小さな赤ん坊がどれだけ面倒か知っているか?」
「たぶん……。」
「お前が重大な決断をする前によく考えなかったせいで、俺は卒業から四年も経った教え子の男と子供の面倒を見る羽目になったんだぞ?」
「私は本当に申し訳なく思っています……。」
「俺は高貴なエルフだぞ! 俺が生まれた頃にはリタール王国なんて存在していなかった! 古竜と共に空を飛び、怪物の王―冥王星とも戦った! なのにここ一週間、この小さな人間親子に振り回され続けているんだ!」
「す、すみません……。」
「人間の赤ん坊が夜中から明け方にかけて何度も泣いて起きるって知っているか? 知らないだろうな。どうせ今まではメイドかノーマンが面倒を見ていたんだから。」
「本当に申し訳ありません、先生。」
「このままだと、竜王ですら成し遂げられなかった偉業をお前が達成しそうだぞ。」
「どんな偉業です?」
「俺を過労で殺すことだ。」
「でも昨日、会長はエイデンを抱っこしながら『最近見た人間の赤ん坊の中で一番可愛い』って言ってましたよ~?」
「黙れ!」
「うちのお母さんが言ってましたよ。小さい頃、お母さんが依頼に出ている間は会長が面倒を見てくれたって。」
「してない! それは記憶違いだ!」
その賑やかなやり取りに、ヒルダは思わず笑ってしまった。
ロイは部下たちとヒルダを見回し、諦めたようにタチバナへ合図した。
「……もういい。鍵を開けろ。」
タチバナは笑いを堪えながら、左側にある扉へ向かった。
扉には三重の鍵が掛かっている。
一つ。
二つ。
三つ。
鍵を外している間、扉の向こうからは何かを叩く音や引っかく音が聞こえてきた。
まるで巨大な獣が中に閉じ込められ、必死に外へ出たがっているかのようだった。
そして――
ついに扉が開く。
「奥様!」
ノーマンが飛び出してきた。
凄まじい勢いでヒルダへ駆け寄り、そのまま抱き締める。
ヒルダは腕の中のエイデンごと、ノーマンの胸の中へ埋もれた。
その瞬間、彼女は気付いた。
いつの間にか、ノーマンはこんなにも大きくなっていたのだと。




