君が消えた朝
エイデンがいなくなった。
ノーマンも、いなくなった。
ヒルダは王宮に泊まった翌日、伯爵邸から届いた緊急の報せを受け取った。
侍女たちの話によれば、ヒルダが王宮に泊まったその夜、ノーマンは「エイデンが寂しがるかもしれないから」と言い、自ら乳児室でエイデンと一緒に眠ることを申し出たらしい。
さらに、最近覚えたばかりの授乳の技術を得意げに披露したため、彼女たちも安心して任せたのだという。
ところが翌朝、使用人たちが仕事の支度を始めるため乳児室を訪れると、そこはもぬけの殻だった。
邸内をくまなく捜索した結果、ノーマンが持ち出したのは、エイデンのお気に入りの玩具、何枚もの清潔なおむつ、束になったタオル、着替え、哺乳瓶、それにヒルダが出発前に用意していた母乳などだった。
どれも乳児を連れて旅をするための必需品ばかりである。
どうやら彼が持ち出した金は、伯爵家に住んでいた間に給金として受け取っていた分だけらしく、それ以外の現金や貴重品には一切手を付けていなかった。
さらに彼の部屋には、ヒルダ宛ての手紙まで残されていた。
それは以前ヒルダが教えた暗号文字で書かれていた。
ヒルダはすぐに解読した。
内容は驚くほど短かった。
―申し訳ありません、奥様。あの手紙を見てしまいました。
本当のご主人様がお戻りになるなら、僕はもうここにいるべきではありません。
奥様が困る姿を見たくありません。
エイデンは僕が連れて行き、きちんと育てます。
僕は本来、存在してはいけない人間です。
この場所で十分すぎるほどの幸せをいただきました。
これ以上を望むべきではありません。
母のように自由な大地で、エイデンを育てたいと思います。
そんな状況の中で、ヒルダの脳裏に最初に浮かんだのは――
『虐げられた奴隷少女は、孤独な大公に溺愛される』をやっているの?
という感想だった。
まあ、あの小説のヒロインは何も残さず姿を消したのだから、ちゃんと置き手紙を残しているノーマンの方がまだずっと親切である。
少し冷静になった後、ヒルダは手紙の最後の一文に意識を向けた。
――母のように自由な大地で、エイデンを育てたいと思います。
それは、かつてナヴァ家の領地であり、今はヘクトール伯爵領に編入されている、国境近くのあの土地のことだろうか。
ヒルダは、自分はノーマンの性格をある程度理解しているつもりだった。
ノーマンは思いついたらすぐ行動する。
待つことが苦手で、秘密を抱え込むことも得意ではない。
この一文は、彼が全力で我慢しながら、「母の一族が昔治めていた土地へ行きます」と直接書かないよう努力した結果にしか見えなかった。
だが、そこまで楽観視するわけにもいかない。
何しろノーマンは、自分が奴隷たちの殺し合い競技で五連覇したことがあると言っていた。
もしかすると、彼なりの慎重さや隠密行動の才能を持っているのかもしれない。
その時、ヒルダはあることを思い出した。
あの国境地帯は、鉄錆冒険者ギルドの新設支部に近い。
三年前、アカハン地方で名高い鉄錆冒険者ギルドは、リタール王国への進出を希望していた。
ジェイソンとその側近たちによる最初の交渉は失敗したが、その後エリカが引き継ぎ、契約書の作成から締結までを主導した。
当時のヒルダは、エリカの随員として交渉団の一員を務めていた。
鉄錆冒険者ギルドのギルドマスター、ロイは、かつて翡翠魔法学院で短期間の特別講師を務めていた。
当時、エリカもヒルダも彼の教え子だった。
もし本当にノーマンが国境へ向かったのなら、生活物資を確保する必要がある。
何より心配なのはエイデンだった。
乳児にはミルクが必要だ。
衣服やおむつも頻繁に交換しなければならない。
ノーマンは必ず補充品を手に入れなければならないだろう。
かつてナヴァ家の領地だった土地は、今では広大な廃墟でしかない。
魔獣も頻繁に出没する。
今なお住み続けている者がいるとしても、せいぜい一、二軒の農家が残っている程度だ。
ノーマンが最も取りそうな行動は、冒険者ギルドへ向かうことだった。
そこで冒険者登録を行い、奴隷時代に身につけた技能を活かしながら報酬を得る。
そして物資を調達し、エイデンを育てる。
ヒルダにできることは、一刻も早く鉄錆冒険者ギルドと連絡を取ることだけだった。
しかし鉄錆冒険者ギルドは、アカハン大陸でも最大級の冒険者組織である。
直接赴くか、仲介人を通すか、あるいは特別な連絡経路でもない限り、個人からの手紙など取り扱わない。
エイデン失踪の事実を隠しながらギルドと接触し、ノーマンとエイデンの所在を探るのは容易なことではなかった。
ギルドからの返事を待つ間、ヒルダは日に日に落ち着きを失っていった。
エイデンは大丈夫だろうか。
まだ生後二か月だ。
大人の手厚い世話が必要な時期である。
ノーマンに本当に面倒が見られるのだろうか。
ノーマンは無事だろうか。
華唐国で奴隷として生き抜いた経験と、ヘクトール伯爵家での一年間の訓練だけで、外の世界を生きていけるのだろうか。
その間、ヒルダは気づけば乳児室や図書館、あるいは訓練場へ足を運んでいた。
どこもノーマンがよく訪れ、時にはエイデンを連れていた場所だった。
これが、ノーマンの好きな小説に出てくるヒロインたちが、なぜ逃亡する展開を挟むのかという理由なのだろうか。
ヒルダは思った。
確かに、自分はノーマンを恋しく思い始めていた。
そして十日後。
ついに鉄錆冒険者ギルドから返事が届いた。
封筒の差出人には、ロイの名前が記されていた。
通常、鉄錆冒険者ギルドから送られる手紙には、差出人としてギルド名だけが書かれる。
多くても支部秘書の署名が添えられる程度で、ギルドマスター本人の名が記されることなどまずない。
つまり、この手紙は間違いなくロイ本人から送られたものだった。
ヒルダは、ロイがこの新設支部を非常に重視していることを知っていた。
完成したのは今年になってからであり、彼自身もしばしば視察に訪れている。
それでも、まさか本人が直接返事を寄越すとは思わなかった。
ヒルダは慎重に封を開いた。
中には簡素な白い便箋が一枚入っていた。
折り畳まれた紙を広げる。
そこには文字が一つも書かれていなかった。
描かれていたのは、金色の毛並みと青い瞳を持つ大型犬だった。
その犬は涙目で地面に座り込み、傍らには巨大な荷物が置かれている。
その隣では、同じ特徴を持つ子犬が地面を転げ回りながら大泣きしていた。
さらにその二匹の後ろには、ロイによく似た小さな人物が腕を組んで仁王立ちしている。
片手には哺乳瓶まで握られていた。




