愛という名の檻
ある日の前伯爵夫人とのお茶会で、ヒルダは貴重な茶酒を用意した。
酒の酔いに後押しされながら、ヒルダは思い切って尋ねてみた。
前伯爵もまた、ハントと同じように、かつて別の女性を愛していたことがあったのか、と。
すると前伯爵夫人は、まるで待っていたかのように口を開いた。
「それこそ私があなたに伝えたかったことなのよ! あなたがずっとハントとあの公爵令嬢との関係を気にしているのは知っているわ。でも心配する必要なんてないの。」
「昔の私の夫もそうだったのよ。あの悪い女に夢中になってしまってね。婚約が正式に破棄された後ですら、その女との関係を断ち切れなかったの。」
「でも最後には、あの女の邪悪な本性に気付いたのよ。夫をたぶらかした挙げ句、お金を持って逃げようとしたんだから。ふふ、本当に卑しい女だったわ。だから罰を受けたの。地下室に閉じ込められて……きっと、もうとっくに死んでいるでしょうね。」
前伯爵夫人は酔いが醒めると、自分が何を口走ったのか思い出し、途端に青ざめた。
ヒルダは遠回しに、自分が実際に地下室でいくつかの痕跡を見つけていることを伝えた。
もっとも、ヘクトール家の名誉もあるため、さらに調査を進めるべきかどうかはまだ迷っている、と。
それを聞いた前伯爵夫人は目に見えて動揺した。
自分は何も知らない、と繰り返し、そのまま慌ただしく帰っていった。
そして、その日を境に彼女が屋敷を訪れることは二度となかった。
しかし、彼女が漏らした情報だけで十分だった。
ヒルダはほどなくして、かつて地下室に囚われていた女性の正体を突き止めた。
先代ヘクトール伯爵の元婚約者―リディア・ナヴァ嬢。
そして、ノーマンの母親である。
ジェイソン国王の父、先代国王の時代。
王家の血を引き、一時は栄華を誇ったナヴァ伯爵家は、任された任務において重大な失敗を犯したことで、すべての爵位と権利を剥奪された。
当時の伯爵夫妻と長男は処刑されている。
本来であれば伯爵令嬢であったリディアは修道院へ送られるはずだった。
だが、修道院へ向かう途中で消息を絶った。
多くの人々は、彼女は誘拐されて闇へ消えたのだろうとか、逃亡の末に山中で遭難し、野獣に食われたのだろうと噂した。
ヒルダもエリカも、長い間、リディア嬢は王家によって密かに処刑されたのだと思っていた。
まさかヘクトール家の屋敷に監禁され、前ヘクトール伯爵の慰み者にされていたなどとは想像もしていなかった。
なにしろ、リディア嬢の兄が関わった王家の醜聞は極めて重大なものだった。
ほとんど国家反逆罪と言ってもよいほどに。
先代ヘクトール伯爵伯爵がリディア嬢を監禁できたのも、先代国王の黙認があったからだろう。
現在、ナヴァ家の領地はヘクトール伯爵家の所有となっている。
それはヘクトール領の最果て、辺境地帯にほど近い土地だった。
長らく放棄されていたため、今では辺境で狩りをする冒険者や、旅の商人たちがわずかに暮らしているだけだという。
ヒルダは長く悩んだ末、これらの事実をノーマンに伝えることにした。
「その土地を見に行ってみたいと思う?」
「将来はエイデンも継ぐことになる場所だし、視察という名目で訪れてもいいと思うのだけれど。」
ノーマンは静かに首を横に振った。
「調べてくださったことには感謝しています。もし奥様が行きたいのであれば、喜んでお供します。」
「ですが、私自身の気持ちを聞かれるなら……あの土地に特別な繋がりは感じません。」
そして少し間を置いて続けた。
「地下室での生活は、私にとっても良い思い出ではありませんから。」
「母はほとんど私を気にかけませんでした。機嫌が良い時だけ、昔どれほど贅沢な暮らしをしていたかを話してくれて、文字を教えてくれました。」
「でも大半の時間は、壁に向かって独り言を呟いていました。部屋の物を壊したり……時には私の頭を壁に打ち付けたりもしました。」
ヒルダは地下室で見つけた日記帳を思い出した。
古い頁には、元の持ち主の人格がまだ残っていた。
整った美しい文字で、日付や時間、家族への心配事が丁寧に綴られている。
しかし後半になるにつれて、紙に大量のインクが滲み始める。
断片的な文章。
乱れた筆跡。
文字を書いた人物の精神状態が、少しずつ崩れていく様子が見て取れた。
そして最後には、乾いて黒褐色になった血痕までこびりついていた。
「それでも、私は母を愛しています。」
「でも……元凶だった前伯爵も、もう死んでいます。今さら私にできることは何もありません。」
そう語るノーマンの表情は終始変わらなかった。
だが最後になって、ようやく涙だけが頬を伝った。
ヒルダは静かに歩み寄り、彼を抱きしめた。
それは二人の関係の中で、ヒルダからノーマンを抱きしめた初めての瞬間だった。
この時ばかりは、言葉など必要なかった。
傍らの揺り籠では、エイデンが床に広げられた地図を興味深そうに見つめながら、きゃっきゃと楽しそうに笑っていた。




