幸福の条件
エリカが帰ったあとも、ヒルダはずっと考え事をしていた。
異世界人、勇者、聖女、女神、そしてディマン王国の不穏で不可解な情勢――。
自分の腹の中にいるこの子を、いったいどんな世界に生まれさせることになるのだろう。
そもそも、この子を身ごもった理由は、ヒルダ自身の好奇心と怒りだった。
そう、怒りだ。
ヒルダは決してハントと結婚しなければならなかったわけではない。彼女は王妃エリカの最も親しい友人であり、現セイレン男爵家において最も高い魔法の才能を持つ娘であり、学園時代には自らの人脈と名声を築き上げていた。
ハントとヴィクトリアの恋愛関係が学園中に知れ渡り、ジェイソン王子までもが友人たちの振る舞いを黙認しているように見えた頃、セイレン家にはいくつもの悪くない縁談が舞い込んでいた。ヒルダの新たな婚約者になりたいという申し出だった。
その中の一人は、セイレン家の隣領を治める家の息子で、幼い頃からの顔なじみだった。
輝くような金髪と空色の瞳を持つ彼は、遠くからヒルダを見つけると、何をしていても手を止めて駆け寄ってくる。まるで人懐っこい大型犬のような少年だった。
無邪気なところのある彼は、ヒルダが「いつか私は宰相になるわ」と口にした時でさえ、本気で信じているようだった。
もしヘクトール伯爵家からの求婚がなければ、両家はすでに婚姻の話を進めており、ヒルダはその金髪の少年に嫁いでいたはずだった。
ヘクトール伯爵夫妻は婚約解消の噂を耳にすると、すぐに再びセイレン家を訪れた。
両家の会談の席で、伯爵夫妻は男爵夫妻にこう説得した。
ハントのヴィクトリアへの想いは一時の熱病に過ぎない。学園を卒業し、ヴィクトリアが異国へ嫁げば、彼は必ずヒルダの良き夫になる、と。
さらにはヘクトール伯爵が長年の友人である国王まで呼び寄せ、この婚約を正式なものとして固めた。
その後まもなく、ヒルダの幼なじみは川で溺死した。
人々は不運な事故だったと言った。
ヒルダとエリカの友人である子爵令嬢ノーラの父親も、同じ頃に川で命を落としている。その事故によって、彼らは一本の運河契約を失った。
新婚初夜の寝室で、ハントが「僕は君を愛さない!」と叫んだ時、彼の目に映ったのはヒルダの穏やかな微笑みだけだった。
その瞳の奥にあった嫌悪と冷酷さには、まったく気づかなかった。
当時のヒルダは、すでに押し潰されそうになっていた。
母と祖母が繰り返し語る神の教え。
子供さえ産めば女は幸せになれると説く大人たちの言葉。
前ヘクトール伯爵夫人による終わりのない子作りへの要求。
そして何よりも、川から引き上げられた幼なじみの膨れ上がった遺体の記憶。
ハントがあの言葉を口にした瞬間、ヒルダは表面上こそ冷静だったが、内心では怒りで今にも叫び出しそうだった。
自分の努力も苦しみも、すべてはこんな男のためだったのか。
自分より遥かに劣る、この男のためだったのか。
だからこそ、ハントが痩せ細った奴隷の少年を連れ帰り、「この少年に夫としての役目を代わりに果たしてもらう」と宣言した時、ヒルダはそれに「従った」。
怒っていたからだ。
物心ついた頃からずっと、「女は子供を産めば幸せになれる」と耳元で囁かれ続けてきたことに、心底うんざりしていた。
そして同時に、それが本当なのか知りたかった。
この数か月で、ヒルダは答えを得ていた。
―明らかに、それは自分を幸せにはしない。
ノーマンがそばにいると面白い。
生まれてくる子供がどんな子になるのかも気になる。
けれど、それはヒルダが幸福になるための道ではなかった。
ヒルダが本当に欲しかったものは、九歳の誕生日に願った、あの願いだけだった。
その時、不意に窓の外で枝が折れる音がした。
ぱきり、と乾いた音に意識を引き戻され、ヒルダは現実へと帰ってくる。
「ねえ」
窓辺へ歩み寄り、一番近くの木を見上げる。
生い茂る枝葉の奥に、黒い影が潜んでいるのが見えた。
「もうその木の上にいないで。今夜は部屋に入りなさい」
「!」
妙な息遣いが聞こえたかと思うと、金髪碧眼の少年は数秒もしないうちに部屋の中へ現れた。
「待って。どうしてベッドの下に潜ろうとしているの?」
「夫人様と未来の若様をお守りするのが俺の役目ですから」
「それなら窓際か扉の前で見張っていれば十分でしょう。どうしてベッドの下なの?」
「狭い場所のほうが安心できます。実力も全部出せますし」
「……そこから出てきなさい。今夜は少し話がしたいの」
「はい! 喜んで! 夫人様!」
「それから、足元で丸くなるのも違うわ。あなたは猫でも犬でもないでしょう?」
「でも夫人様、犬はお好きですよね? 観察しました」
ヒルダは深いため息をついた。
結局、彼女はノーマンの襟首を直接つかみ、自分の隣まで引っ張っていくしかなかった。
二人はベッドの背もたれにもたれながら並んで腰を下ろした。
「今日は色々あったの。隣に座って、一緒に本を読みましょう」
エリカの言葉を思い出しながら、ヒルダはこれからもっとノーマンに時間を使おうと決めていた。
確かに、将来子供が成長した時、父親がずっと飼い犬のような立場にいるのは教育上あまり良くないだろう。
ノーマンはその命令がよほど嬉しかったらしく、すぐに姿勢を整えるとヒルダの隣に横向きで寝転がった。
彼がヒルダを見る時は、いつも目を大きく見開いている。
まるで愛嬌のある犬のようだ。
犬という生き物は悲しい。
人間が与える愛など、その人生のほんの一部に過ぎないのに、彼らはその僅かな愛のために命を懸けて主人を守ろうとする。
ふいにヒルダは、幼い頃の記憶を思い出した。
草原に寝転び、隣で笑う金髪の少年。
その笑顔を見るだけで感じられた、あまりにも当たり前だった安心感。
――ああ……
――私は、ずっと彼のことを……
ヒルダはそこで思考を止めた。
これ以上考えてはいけない。
今、自分の隣にいるのはノーマンだ。
共通する特徴があり、性格にも似た部分はある。
それでもヒルダは、ノーマンと幼なじみの違いをいくつも挙げることができた。
気を紛らわせるため、ヒルダは手元の本へ意識を向ける。
それは去年エリカから贈られた誕生日の贈り物――古代神話を集めた物語集だった。
無尽部族からもたらされたその本は完全な手作りで、表紙には魔物の革が使われている。
そこには巨大な異形の存在が描かれていた。
神々と悪霊が入り混じり、その姿だけでは誰が何者なのか判別できない。
そして、その狭間には小さな人間たちが取り残され、途方に暮れていた。
ノーマンは興味深そうに本を覗き込む。
「ここにもノーマンって人がいる」
「ええ。とても強い神眷者だったそうよ。奴隷として生きていたけれど、自分の力で英雄になった人。あなたがここへ来た頃、ちょうど私がこの物語を読んでいたから、その名前をもらったの」
ノーマンは長い間ためらった末に、ようやく口を開いた。
「その人は……幸せな結末を迎えたんですか?」
ヒルダは小さく微笑んだ。
「とても古い物語だから分からないわ。でも、どうだったとしても――その物語の人たちは、今頃みんな安らかに眠っていると思うの」




