首を裂く獣と、届かぬ恋
危機一髪のその瞬間だった。
窓の外から飛び込んできたノーマンが、刺客の一人へと飛びかかった。
彼は相手の首筋に噛みついた。
次の瞬間、肉が大きく引き裂かれる。
本来なら皮膚の下に隠されているはずの筋肉や血管が露出し、ノーマンがさらに顎に力を込めると、刺客の頸動脈が無残に裂けた。
真っ赤な血が噴水のように勢いよく吹き上がる。
あと一歩でその刺客に斬りつけられるところだったヒルダは、全身を血飛沫で濡らされた。
吐き気を堪えながら、ヒルダは侍女たちを連れて刺客たちから距離を取る。
首を噛み裂かれた刺客は、信じられないというように傷口を押さえた。
しかし血は止まらない。
すぐに呼吸が苦しくなり、そのまま床へ倒れ込んだ。
いかにカンティ公爵家が鍛え上げた刺客であっても、このあまりにも凄惨な光景には反応が遅れた。
一人の刺客が膝をつき、訓練で学んだ通りに圧迫止血を試みる。
だが、噴き出し続ける血はまったく止まらない。
その隙をノーマンは見逃さなかった。
つい先ほどまで眠っていた場所――ヒルダの寝室の外にある木から折ってきた枝を握り締めると、そのまま刺客の胴体を貫く。
枝に串刺しにされた刺客は苦痛で激しく痙攣した。
ノーマンはまるで焼き串でも持ち上げるかのようにその身体を持ち上げ、他の刺客たちへ投げつける。
仲間の身体をどかそうと残りの刺客たちが慌てている間に、ノーマンはすでに彼らの目前まで迫っていた。
彼の手には一冊の本が握られている。
表紙には桃色の花々が描かれていた。
ある刺客は、自分の人生の最後に見たものが、その花柄だとは想像もしなかった。
しかも異様に近い。
彼は表紙に書かれた題名まではっきりと読んでしまった。
『虐げられた奴隷少女は、孤独な大公に溺愛される』
……いったいどんな話なんだ?
奴隷少女と大公って、何歳と何歳なんだ?
そんな心の叫びを最後に、その刺客の人生は終わった。
ノーマンの戦い方は極めて原始的だった。
牙。
爪。
木の枝。
引き千切った人体の一部。
果ては本に至るまで。
手に入るものすべてを武器として利用する。
貴族たちが卑劣だと嫌悪する急所攻撃も、彼はまったく気にしない。
速度魔法の加護を受けたノーマンは、人間の知性を持った獣そのものだった。
自分の痛みや傷など気にも留めない。
目の前の敵を殺せるか。
それだけを考えている。
仮に殺せなくても、短時間で戦闘不能にできれば十分だった。
その凄まじい猛攻を前に、カンティ家が誇る刺客たちでさえ恐怖を覚えた。
気がつけば、周囲には死体が転がっている。
残った者たちは逃走を始めた。
訓練で決められていた退路など忘れ去り、ただ生き延びることだけを願って。
しかし、その頃にはヒルダが護衛たちへ連絡を終えていた。
廊下には防衛線が敷かれ、逃げ場を失った刺客たちは次々と拘束される。
さらに地下通路からは、ヴィクトリアの側近侍女が発見された。
今回の襲撃の指揮役だった女である。
刺客たちが連行される途中、彼らは口々に叫んだ。
ノーマンは人間ではない。
子供を喰らい、その皮を被って人間のふりをする人皮獣だ、と。
それはカンティ家領内に伝わる古い怪談らしかった。
そんな罵声を聞けばノーマンも傷つくだろう。
そう思ったヒルダは、しゃがみ込んでいる少年へ近づいた。
慰めようとしたのだ。
ノーマンは目を輝かせていた。
むしろ興奮しているように見える。
「今回はすごく上手くできたと思うんです!」
彼は嬉しそうに言った。
「ご褒美をもらえませんか? もし許されるなら、ベッドの足元とか、ベッドの下で寝たいです。無理なら、ローストチキンでも大丈夫です!」
結局ヒルダは、その二つとも与えた。
「ハントの初版限定豪華装丁版――『初夜に白い結婚だと言われたのに、今では夫から溺愛されています!?』が、刺客の喉に突き刺さったのよ。あとで弁償しろって言われないといいけど」
「いや、問題はそこじゃないと思うんだけど」
エリカが即座に突っ込む。
「ノーマンのお気に入りだった『虐げられた奴隷少女は、孤独な大公に溺愛される』には脳漿がたくさん付いちゃったから、新しいのを買ってあげたの。作者のサイン入りよ。ほら、今もあそこで読んでるでしょう?」
視線の先。
茂みの向こうでノーマンが夢中になって本を読んでいた。
「というか、あの子はもっと普通の場所で待てないの? 使用人たちの待機所とか、裏門の近くとか。どうして茂みか木の上なのよ」
「狭い場所が好きなんですって。木の上とか茂みの中にいると安心するらしいわ」
「奴隷時代、いったい何をさせられていたの……」
「本人によると、生き残り競技に出ていたみたい。競馬みたいに観客が勝者を賭ける形式で、試合の様子も全部見せるらしいの。五連覇したって言ってたけど、本当かどうかは確認できないわね」
「……ディマン王国の第二側妃とその一族は、その五連覇の殺し合い王者を大金で買って、宴会で嫌味な恋愛小説を朗読させるためだけに使ったの?」
「お金持ちって、お金の使い道がおかしいのかもしれないわね」
「もしかして本当はヴィクトリアを殺させるつもりだったのに、妊娠で計画が狂ったとか?」
エリカは腕を組んだ。
「ヴィクトリアが受け取ったあと、大使を通じてハントに押し付けさせたのも、同じ狙いだった可能性はあるわ」
え?
つまり私、最初に対応を間違えていたら首を噛み千切られていた可能性があるの?
でも部屋へ入れた時はすごく従順だったし……
ヒルダは今さらながらにそう思った。
エリカはそんな彼女の考えを見抜いたようだった。
「まさか今でも木の上とか変な場所で寝かせてないでしょうね?」
ヒルダは不自然に視線を逸らした。
「でも……愛する相手なら、その人らしさを受け入れるべきだって、みんな言うじゃない……」
「お腹の子の父親を、愛玩動物と闘犬が趣味のままにするつもり?」
エリカは額を押さえた。
「格闘術と魔法の教師を送るわ。早急に人間社会へ適応させてちょうだい」
エリカは深くため息をついた。
ヒルダが結婚して以来、ずっと「愛とは何か」に執着していることを彼女は知っている。
セイレン男爵家では、幼い頃の夢を笑われ続けた。
家督を継ぎたい。
宰相になりたい。
そんな願いは身の程知らずだと、家族は何度も彼女を嘲った。
そして繰り返し教え込んだ。
女の幸せは結婚と出産だけだ、と。
ヘクトール伯爵家もまた、何もできないハントを補う優秀な妻を求めていた。
派遣された家庭教師たちも、前伯爵夫人も、その価値観をさらに強めた。
だからヒルダは、ハントの言った
『彼に代わりに夫の役目を果たさせればいい』
という言葉を、そのまま受け入れてしまった。
誰かから教わった愛の形をなぞるように。
ノーマンと共に歪なままごとを続けながら。
『夫との間に子を成し、愛と幸福を得る』
という神話を再現しようとしている。
だが相手のノーマンは、人の姿をした何か別の生き物だった。
彼は明らかにヒルダを愛している。
今も茂みの向こうから熱っぽい眼差しを向けながら、怪しい題名の恋愛小説を抱えている。
けれどヒルダは、同じ感情を返してはいなかった。
「ヒルダ」
エリカが静かに言った。
「ノーマンって、ハントに似ていると思わない?」
「確かに顔は似ているわね」
「違うわ」
エリカは茂みの方を見る。
ノーマンは身体を丸め、小さな隙間へ潜り込み、本を読んでいた。
「二人とも――」
エリカは小さく笑った。
「愛が何なのか分からないくせに、恋愛物語ばかり読んで、その中から答えを探しているのよ」
ヒルダは黙り込んだ。
先代ヘクトール伯爵は人身売買に関わっていた。
古参の侍女によれば、彼は夜になると頻繁に地下室へ通っていたという。
エリカが秘密通路を調査した際、地下には長年使われていない部屋が見つかった。
そこには女性用と子供用らしい衣服がある。
壁には幼い子供の落書きや文字。
そしてノーマンは言っていた。
奴隷商人へ売られる前、自分は母親と狭い部屋で暮らしていたこと。
そこへ時々、一人の男が訪れていたこと。
-すべてが繋がっているのだろうか。
そんな疑問が、ヒルダの胸に静かに残った。




