花咲く庭で語られること
「この新しい花茶、とても良い香りですわね」
ヒルダは湯気の立つ茶杯を両手で包み込みながら微笑んだ。
ラベンダーとレモンが織り成す爽やかな香りが鼻先をくすぐる。
淡い緑色の茶は繊細な磁器のカップに注がれ、見ているだけでも心が安らぐようだった。
「アカハン地方から届いた新しい品種のお茶ですの。お気に召したなら、もう少し持って参りましたわ」
向かいに座る女性が穏やかに答える。
肩口まで伸びた黒褐色の髪。
深い緑の瞳。
簡素でありながら気品に満ちた青いドレス。
リタール王国王妃――エリカだった。
二人はヘクトール伯爵邸の私設庭園で午後の茶会を楽しんでいた。
桌上には、エリカが持参した深紅の薔薇が飾られている。
王立学院時代、ヒルダは学籍番号の関係でエリカの直属の先輩に選ばれた。
本来なら男爵家の令嬢が、将来王家へ嫁ぐ伯爵令嬢の直属となることは珍しい。
しかし、ヒルダの優秀な成績と、ヘクトール伯爵家との婚約、そしてセイレン男爵家の長い歴史が、その縁を結びつけた。
学院の先輩後輩の絆は時に血縁よりも強い。
卒業後も二人は共に翡翠魔法学院へ留学し、友情を育み続けていた。
「それほど美味しいお茶なら、輸入量を増やされるおつもりですか?」
ヒルダは微笑みながら続ける。
「それとも――その薬草師ご本人を王宮へ招くおつもりで?」
エリカは少し考える素振りを見せた。
「それは良い案ですわね」
わざとらしく頷く。
「確か、ヘクトール伯爵家とセイレン男爵家の婚姻契約には茶園開発の共同事業がございましたわね?」
「ええ。予想以上に良い成果が出ております」
「国内で安定して茶葉が栽培できるようになれば、加工品も増やせますわ。いつまでもディマン王国からの輸入に頼る必要はありませんもの」
「それでしたら来月の議会で提案いたしましょう。薬草師の受け入れを拡大し、技術者育成にも力を入れるべきです」
「ええ」
エリカは微笑む。
「遠い土地から持ち込まれた新しい知識が、種子のようにこの国へ根付き、豊かに広がってくれると良いのですが」
そう言ってから、小さくため息を吐いた。
ヒルダは茶杯を置いた。
「……決まったのですね」
「国王夫妻も何人もの医師に診せました」
エリカは肩を竦めた。
「どうしようもありませんわ。ならば最も遠い血を迎えるしかないでしょう。この長年続いた近親婚の問題を解決するためにも」
「確かに……これ以上ないほど遠い血統ですわね」
ヒルダは思わず吹き出した。
エリカも珍しく苦笑する。
「もしかしたら、私たちの子供たちは同じ学院へ通うことになるかもしれませんね」
彼女の視線がヒルダの膨らみ始めた腹部へ向けられる。
「そうなれば素敵ですわ」
ヒルダも静かに頷いた。
「最近の出来事を考えますと、今後一、二年のうちに宮廷組織も大きく変わります」
エリカの声音が少しだけ真面目になる。
「人材不足は深刻です。女性官吏や女性政務官の登用を本格的に進める必要がありますわ」
ヒルダの瞳が輝いた。
学院時代から彼女が密かに夢見ていた世界だった。
王立学院時代、ハントはいつもヴィクトリアの隣にいた。
食堂でも。
講義室でも。
舞踏会でも。
彼はまるで影のように彼女について回り、ヴィクトリアもまた、それを当然のように受け入れていた。
当時すでにヴィクトリアには外国との婚約が決まっていたが、王太子だったジェイソンは二人の親密さを咎めようとしなかった。
むしろ二人を自らの側近として重用し、重要な判断の場にも同席させ続けていた。
そのため学院内では様々な噂が囁かれていた。
ヘクトール伯爵家は王家とカンティ公爵家への配慮から、いずれヒルダとの婚約を解消するのではないか。
そしてハントはヴィクトリア付きの護衛騎士として、彼女と共にディマン王国へ渡るのではないか、と。
後継者問題についても心配はない。
親族から養子を迎えれば済む話だった。
実際、ディマン王国の後宮制度において、王妃や側妃が特別な感情を抱く騎士を伴って嫁ぐことは決して珍しくなかった。
もちろん、その騎士たちは子を成せぬよう処置を受ける。
そうすることで王家の血統を守りながら、妃とその子供にとって最も忠実な護衛として生涯仕えるのである。
噂が日に日に現実味を帯びていく中、ヒルダはむしろその未来を受け入れていた。
婚約が解消されたなら、王宮へ入ろう。
女性官吏はまだ少ない。
だが、だからこそ必要とされている。
申請書も。
履歴書も。
成績証明も。
資格証明書も。
推薦状も。
必要なものはすべて揃えてあった。
あとは婚約破棄の通知を待つだけだった。
長年待ち続けた自由への扉。
それがようやく開かれる――
そう思っていた。
ところが実際に彼女が手にしたのは、婚約解消の通知ではなく。
新婚初夜に、
「俺が愛しているのはヴィクトリア様だけだ!」
と叫ぶ夫だった。
……本当に予想の斜め上だった。
しかも最終的には、その夫をきちんと自分のものにしてしまったのだから。
今思い返しても、少し可笑しい。
「ところで」
エリカが話題を変える。
「ハント様は、あなたのご懐妊をご存じなのですか?」
「確認してみますわ」
ヒルダは庭園へ向かって声を張った。
「ノーマン!」
「はい、奥様! 何か御用でしょうか!」
次の瞬間。
白金色の髪の少年が信じられない速度で植え込みの向こうから飛び出してきた。
手には書きかけの手紙。
その下敷き代わりにしている本の表紙には、大量の花と美男美女が描かれている。
少年はヒルダの足元へ跪き、曇った空色の瞳で彼女を見上げた。
エリカはちらりと本の表紙を読む。
そして一瞬だけ眉を上げた。
先ほど使用人たちが挨拶に来た時から気になっていた。
どう見ても宮廷女官たちの間で流行している恋愛小説だった。
奴隷出身の少年と、その保護者である伯爵夫人。
その組み合わせで読む本としては、なかなか興味深い。
「私の代筆をお願いしている手紙に、妊娠の件は書いてありましたか?」
「もちろんです、奥様!」
ノーマンは胸を張った。
「今月だけで四通書きました! 今書いているのが五通目です!」
そう言って差し出された便箋を見て、ヒルダは少し顔を引きつらせる。
「ご覧になりますか? 奥様と未来のお子様への想いを綴った内容です。少々大胆かもしれませんが、全部本心です!」
「結構です」
ヒルダは即答した。
「書き終わったらアンジェラに確認してもらって、そのまま出してください」
「かしこまりました!」
少年は再び驚異的な速度で植え込みの向こうへ消え去った。
後方ではアンジェラが平然と立っている。
ただし、エリカと目が合うたびに頬を赤くして俯いていた。
エリカは頭痛を覚えた。
あの恋愛小説の題名。
ノーマンがヒルダ名義で書いている手紙。
しかも内容は明らかに本人の恋文。
植え込みから高速で出現して高速で消える謎の行動。
どこから突っ込むべきなのか分からない。
結局、最も重要な点から聞くことにした。
「……今のは速度強化系の魔法ですの?」
「ええ」
ヒルダは頷いた。
「実は一週間前の暗殺未遂で初めて気付きました」
そうして彼女は、ヘクトール伯爵家へ送り込まれた刺客たちの話を語り始めた。
その襲撃は周到に計画されていた。
十日前から茶園付近で不審者が目撃され、小規模な放火騒ぎも発生していた。
誰もが茶園を狙った妨害工作だと思っていた。
だからこそ、誰も気付かなかったのである。
侵入者たちの本当の標的が -ヒルダ本人だったことに。




