表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/40

どこが幸せなのだろう

セイレン男爵家は、リタール王国の中でも長い歴史を持つ家系だった。建国時代の史書を紐解けば、そこには確かに彼らの名が刻まれている。


そもそもリタール王国は、かつてディマン王国から分裂して誕生した国である。


ディマン王国には、かつて「太陽王」と呼ばれた著名な王がいた。天空神の祝福を受けたとされるその王は、九人もの女性たちから深く愛されたという。


その中には妖精族の姫君もいれば、部族長の娘、名高い女戦士、さらには一国を治める女王までも含まれていた。

九人の妃たちはそれぞれ多くの子を産み落とし、王宮では熾烈な後継争いが繰り広げられた。


わずかに生き残った王子たちは王国を分割し、かつて広大だったディマン王国は、最終的に半分以下にまで縮小したのである。

リタール王国を建国した王子と、ディマン王国中枢を支配した王子は同じ母から生まれた兄弟だった。そのため、長い年月にわたり、リタール王国はディマン王国の従属国として存在し続けていた。


史書によれば、セイレン家の祖先はもともと、リタール建国王子に仕える奴隷だったという。

王族同士の争いの中で、彼は〈嘯声魔法〉によって王子の命を救い、その功績を認められて男爵位を授かった。


嘯声魔法の使い手は、魔力を用いて超高周波の音波を口から放ち、周囲の生物の聴覚を一時的に破壊することができる。

軽度であれば激しい耳鳴りや頭痛、強ければ平衡感覚を奪い、相手を昏倒させることすら可能だった。

さらに強大な魔力を持つ者は、周囲の物体を震わせ、砕くことすらできたという。


―だが、現実は残酷だった。


セイレン家の大半の人間が扱える嘯声魔法は極めて弱い。彼らの放つ音の威力は、有名な歌劇女優が全力で張り上げた声にも及ばなかった。


だからこそ、建国当初は王の命を救った忠臣として重用された一族が、数代後には領地の塀の内側で細々と家業を守るだけの存在へと落ちぶれたのである。


強い魔力を持つ後継を生み出そうと、セイレン家は一時期、異常なほど多くの子供を作ったこともあった。

しかし婚姻費用だけで家計は破綻寸前となり、最終的には王家が介入。代理人を派遣し、家産管理と婚姻調整を行ったことで、ようやく没落を免れた。


それ以降のセイレン男爵家は、取り立てて力はないが、姻戚関係だけはやたらと多い家として生き延びることになる。

数世代に一度だけ、かつての祖先に匹敵するほど強力な魔力を持つ者が生まれることもあった。


だが、その才能が家に残ることはなかった。


ある少女は成長してから強大な力を発現したが、既に母方親族の伯爵家に養女として迎えられており、神秘の〈無尽部族〉との婚約まで結ばれていた。王家ですら介入できず、そのまま異国へ嫁いでいった。


ある少年は幼少期から卓越した才能を示したが、当時ディマン王国で勃発した内戦への援軍として徴兵され、そのまま戦死した。


そして――。


ヒルダは、現代のセイレン男爵家において、最も優れた魔法の才能を持つ少女だった。

彼女の嘯声魔法は一日に一度しか使えなかったが、その威力は極めて強力で、周囲二メートル以内の人間を激しい頭痛と眩暈で立っていられなくさせるほどだった。


だから幼い頃のヒルダは、本気で思っていた。

いつか兄に代わって、自分が家督を継ぐのだと。


それは彼女が、「自分もいつか父や兄より背が高くなる」と自然に信じていたのと同じくらい、当たり前の未来だった。


だが両親は、家を継ぐのは兄だと告げ、誕生日の願い事を変えるよう言った。


そして九歳の誕生日。


予想外にも、ヒルダはこう答えた。


「わたくし、宰相になりたいです」


その場にいた親族たちが、一斉に笑い声を上げた。


「可愛いヒルダ、ほんとうにお馬鹿さんだな」


父はそう言って、彼女の髪を乱暴に撫でた。


「女は宰相にはなれない」


ヒルダは、人に頭を触られるのが嫌いだった。


だが九歳の彼女は、すでに“本当の感情を表に出してはいけない”ということを学んでいた。


「まあ、なんて夢見がちなのかしら!」


親戚の老婦人がくすくす笑う。


「ほんとうに可愛いわねぇ」


母はヒルダの手を取り、叔母や祖母と共に彼女を囲みながら微笑んだ。


「将来のことなんて心配しなくていいの。お父様が素敵な旦那様を見つけてくださるわ。あなたはその人を支えて、お屋敷を守って、たくさん子供を産むの。そうすれば王国で一番幸せな女性になれるのよ」


―どこが幸せなのだろう。


ヒルダはそう思った。


表情に出ていたのか、祖母までもが続ける。


「まだ小さいから分からないだけよ。結婚して、子供を産めば理解できるわ」


それ以来、“九歳のヒルダの夢”は、セイレン家における定番の笑い話となった。


親族が集まる大人数の宴席では、決まってその話題が持ち出される。


「昔、ヒルダったら宰相になりたいなんて言っていたのよ」


皆で笑い合い、それを“幼い少女の愛らしい妄想”として消費した。


ハントと婚約した後も、彼女の両親はその話をよくヘクト伯爵夫妻へ披露していた。

彼ら曰く、ヒルダは魔法の才能があったからこそ、王家中枢と強い繋がりを持ち、莫大な資産を持つヘクト伯爵家へ嫁げたのだという。

だからこそ、ヒルダは両親にも嫁ぎ先にも感謝し、慎ましく夫に仕えるべきなのだと。


母と祖母は、神々の教えでは女性は夫に従うべきだと言った。

婚姻の女神は夫の浮気を嫌悪していたにもかかわらず、結局は夫を誘惑した女たちを罰するだけで、自らの夫に逆らったことはなく、婚姻から去ろうとしたこともない、と。



だから――。


新婚初夜、ハントがあの言葉を口にした時も、ヒルダは侮辱されたとは感じなかった。


家督を継げない。

宰相になれない。


そうした否定と嘲笑は、何年も前から彼女の胸の中で静かな炎となって燃え続けていたからだ。


一瞬、ヒルダは考えた。

いっそ嘯声魔法でハントを昏倒させ、そのまま身体を不自由にしてしまおうか、と。


もしハントが本気で“愛”とやらを追い求め、既にディマン王国へ嫁いだヴィクトリアを忘れられず、自分という正式な妻を拒絶するのであれば――。


では、自分はどうやって、皆が語る「愛する夫と結婚し、子供を産み、幸せに暮らす」という幸福を得ればいいのだろう。


ヒルダは、男女の愛というものを知らなかったわけではない。


親友であるエリカ伯爵令嬢は、留学先の翡翠魔法学院で異国の薬草師の青年――空と出会った。

エリカには既にジェイソン王子との婚約があり、空と本当に結ばれることはありえない。

それでも、二人が見つめ合う時の空気は、どこか夢の中のようだった。

並んで座るだけで、誰もその間へ入り込めない。


ヒルダはそれを見ていた。


また、親しくしていたノーラ子爵令嬢――王国危機の際に資金援助を行ったことで平民から一代で子爵へ昇格した家の娘――が、婚約者と別れる時に流した涙も知っていた。


家の港湾航路が封鎖され、資金繰りが悪化したことで、ノーラは婚約破棄を余儀なくされたのだ。


エリカとヒルダは協力して子爵家を立て直し、新たな婚約相手まで見つけた。

それでもノーラの瞳の奥には、消えない悲しみが残っていた。


男女の愛がどのような形を取るのかも、ヒルダは知っていた。

屋敷の片隅で、男女が下着を脱ぎ捨てて絡み合う姿も見たことがある。


扉の隙間から、父と母が抱き合う姿を見たこともあった。

だから幸運なことに、ヒルダは初夜の時点で容易くハントを手に入れることができた。


―それなのに。


彼女は何も感じなかった。


「誠実に愛して待っていれば、いずれ夫は心を動かされるものよ」


母はそう言った。


「うちの愚かな息子は、あの公爵令嬢に一時夢中になっているだけ。あなたがきちんと支えて、後継ぎを産めば、必ず戻ってくるわ」


再婚した元伯爵夫人もそう言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ