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空と草原に眠るもの

屋敷へ戻ると、ヒルダは若い侍女たちに囲まれながら寝室へ向かい、入浴と着替えのため姿を消した。


ハントも後を追おうとしたが、


「奥様はお疲れですので、どうかごゆっくりお休みいただけますよう」


と侍女たちに丁重に遮られ、結局中へ入ることはできなかった。


しばらくして、ヒルダは再び彼の前に姿を現した。

淡い色合いのハイウエストドレスに着替え、柔らかな布地が彼女の身体を優しく包み込んでいる。

洗われた髪には香油が丁寧になじませてあり、艶やかに光を反射していた。

耳元には服に合わせた耳飾りが揺れ、首元には繊細な首飾りが輝いている。


その姿を見て、ハントはふと気づいた。


いつからだろう。


自分の目に映るヒルダが、こんなにも眩しい存在になっていたのは。


顔立ちは昔と変わらない。

決して派手な美人ではない。

体つきも少しふくよかなままだ。


それなのに。

彼女がそこにいるだけで、自分の世界は温かく、明るく照らされるのだった。


ヒルダに招かれ、二人は応接室の柔らかな肘掛け椅子へ向かい合って腰を下ろした。

侍女たちが素早く茶菓子と温かい紅茶を運び、主人夫妻の前へ静かに並べる。

茶を注ぎ終えると、彼女たちは足音ひとつ立てずに部屋を後にした。


ヒルダは一口だけ茶を飲み、ハントへ視線を向けた。


そして――。


ようやく、彼が最も恋しかった微笑みを見せる。


穏やかで。


優しくて。


静かな湖面のような笑顔を。


「私は……」


ハントは口を開く。

だが次の言葉が出てこない。

胸が締め付けられるように痛んだ。

何を聞けばいいのだろう。


エイデンはどうなったのか。

なぜ妊娠や出産のことを知らせてくれなかったのか。


エイデンはどこへ埋葬されたのか。

この数日どこへ行っていたのか。


自分を恨んでいるのか。

まだ待っていてくれるのか。


「エイデンのことを聞きたいのですか?」


ヒルダが先に問いかけた。

ハントは黙って頷く。


ヒルダは目を伏せた。


「エイデンは、もう旅立ちました。」


静かな声だった。


「きっと今頃は、空と草原に抱かれながら、自由で穏やかな時間を過ごしていると思います。」


そう言って、彼女は両手で目元を覆った。

肩がわずかに震える。

声も少しだけ揺れていた。


-ヒルダは泣いているのか。


ハントは思った。

彼女も泣くのだ。

自分たちの息子のために。

セイレン男爵家が始まって以来の才女と呼ばれたヒルダ。

王立学院の教師たちから将来を期待されたヒルダ。

エリカ王妃の最も尊敬する先輩であり、親友だと言われるヒルダ。

翡翠魔法学院から高額の奨学金を提示され、残留を望まれたヒルダ。


そして、自分が初夜に愛さないと宣言し、置き去りにしたにもかかわらず、それでも屋敷を守り続けていたヒルダ。


「私は……本当に……」


謝りたかった。

心から。


だが、その言葉だけがどうしても出てこない。

なぜこうなったのだろう。


自分の人生はもっと上手くいくはずだった。

ディマン王国でヴィクトリアとの縁を活かし、有能な外交官として名声を得る。

父を超える栄誉を手にして領地へ帰る。


その間、ヒルダは屋敷を支え、自分の才能で領地を発展させる。

そして最後には誤解を解き、お互いの愛を確かめ合い、幸せに暮らす。

そうなるはずだった。

少なくとも、彼はそう信じていた。

こんな風に心の距離が生まれたまま。


子供の顔を見ることすらできず。

その存在を知る前に失ってしまうなど。

そんな未来は想像していなかった。


結局、ハントは最後まで謝罪の言葉を口にできなかった。

重苦しい沈黙に耐えられなくなり、彼は話題を変える。


「そういえば……その書類は何なんだ?」


ヒルダの椅子の横に積まれた分厚い書類の束を指差した。


「ああ、これは面接のための資料です。」


「面接?」


「気分転換も兼ねて、新しいことを始めようと思いまして。エリカ王妃殿下から宮廷で官吏として働かないかとお誘いをいただいたのです。私にとって、とても良い機会だと思っています。」


その後もヒルダは何かを説明していた。

だが、ハントの耳にはほとんど入ってこなかった。


官吏。

宮廷。

ヒルダは宮廷で働く。


その言葉だけが頭の中を回り続ける。

先月読んだ人気恋愛小説を思い出した。

冷え切った結婚生活を送っていた主人公の女性が宮廷で働き始め、広い世界を知り、本当の運命の相手と出会う物語。

最後には元の夫と離婚し、新しい人生を歩み始める。


-そんなことは駄目だ。


ヒルダを宮廷へ行かせてはいけない。

しばらく会話が続いた後、侍女が部屋へ入り、ヒルダの耳元で何かを囁いた。


「そうですか……それは急がないといけませんね。」


ヒルダは立ち上がった。


「地下室の改修中に大きなシロアリの巣が見つかったそうです。壁への被害を確認してまいりますので、少しこちらでお待ちください。」


そう言い残し、部屋を後にする。

一人残されたハントは、机の上の書類へ視線を落とした。


そして、ふと思いつく。


――もし。


-この書類のどこかを書き換えたら。


-面接に落ちるのではないだろうか。


夢を壊したいわけではない。


ただ。

ただもう少しだけ、一緒に過ごしたかった。

官吏の募集など、また次がある。


そう自分に言い聞かせながら、彼は資料を手に取った。

表紙には金色の子犬の絵が描かれている。

大きな青い瞳が無邪気にこちらを見つめていた。


中の文字は美しく整っていた。


几帳面な筆跡。

色とりどりの付箋。

そこからは、この仕事に懸ける期待が伝わってくる。


「本当に楽しみにしているんだな……」


ハントは小さく呟いた。

それでも。

彼はペンを手に取る。

そして、書類へ修正を書き込み始めた。

彼は気づいていなかった。


扉の向こう。

薄暗い廊下に、ヒルダと先ほどの侍女が立っていることを。

二人は静かに扉の隙間から中を見ていた。


「止めますか?」


侍女が小声で尋ねる。


ヒルダは答えない。

闇の中に沈んだ横顔からは、何を考えているのか読み取れなかった。

やがて彼女は――

静かに首を横へ振った。


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