帰還した夫は、もう誰にも必要とされていなかった
「伯爵様。本日をもって、私はこの屋敷を離れます。これまで奥様には大変お世話になりました」
ハントに解雇を言い渡されたアンジェラは、旅装束に身を包み、荷物を手にそう告げた。
その時になって初めて、ハントはアンジェラという少女の美しさを意識した。
燃え盛る炎を思わせる鮮やかな紅髪は、白く艶やかな顔立ちを取り囲み、生命力に満ちている。
翡翠色の瞳には、獲物を見つけた獣のような鋭さと狡猾さが宿っており、夜の闇の中では危険な光を放つのではないかと思わせた。
その妖艶さは、彫刻家が最高の技術で削り出したような整った容貌と不思議な調和を見せている。
ハントはようやく理解した。
なぜ前回屋敷へ戻って以来、この少女を見るたびに胸の奥がざわついていたのかを。
―彼は、彼女が怖かった。
アンジェラはまるで野生の獣だった。
美しく、しかし獰猛。
熟練した調教師――たとえばヒルダ――の前では大人しくしていても、それ以外の人間にとっては危険な存在だった。
こんなことはおかしい、とハントは思う。
女性が男性を怖がらせるべきではない。
ましてや、あれほど若い少女が。
それでも彼は考え直していた。
アンジェラの皮肉な物言いも、何ひとつ恐れない態度も気に入らない。
だが、息子を失った悲しみで傷ついたヒルダの心を取り戻したいのなら、彼女を屋敷に残すべきかもしれない。
恋愛小説ではよくある話だ。
契約結婚や白い結婚を宣言した不器用な夫婦は、忠実な使用人たちの助けを借りながら少しずつ距離を縮め、やがて積み重ねた想いによって心の壁を乗り越える。
もしヒルダが帰ってきて、自分の大切な侍女が追い出されたと知ったら。
自分はどうやって彼女と仲直りすればいいのだろう。
「どこへ行くんだ? 考え直したんだが……今の屋敷には女主人がいない。人手は必要だろう」
遠回しにそう言うと、
「ご心配なく」
アンジェラは微笑んだ。
「奥様がエリカ王妃殿下にお取り次ぎくださり、推薦状もいただいております。私は夢を追いかけることにしたのです」
「王立劇場で定期公演を行う劇団と契約いたしました。あとは入団するだけです」
その日の朝、アンジェラはヘクトール伯爵家を去った。
だが彼女がいなくなっても屋敷は何ひとつ困らなかった。
使用人たちは以前と変わらず働き続け、ハントが何度威厳を示そうとしても入り込む余地はなかった。
ヒルダは彼がいない間に、この屋敷と領地を巨大な歯車機構へと変えていた。
誰もが決められた場所で役目を果たすだけで、美しく完璧に回り続ける仕組みへ。
広い屋敷の中を、ハントは落ち着かない足取りで歩き回った。
ヒルダ。
ヒルダ。
ヒルダ。
彼は彼女の優しさを思い出す。
包容力を思い出す。
いたずらをする子供を見るような、あの困ったような微笑みを思い出す。
学院時代、グループ課題でどれほど失敗しても、ヒルダは黙って修正してくれた。
婚約者として会っていた頃も、ヴィクトリアの話を延々と聞かせても、彼女はただ穏やかに耳を傾けていた。
振り返れば。
自分をありのまま受け入れてくれた人間は、ヒルダだけだったのではないか。
父は常に冷たく、彼を否定し、支配した。
母は不安そうな目で彼を見つめ続け、父に似ていないか探り続けた。
ジェイソン王もまた、親友と呼びながら、その友情は彼が機嫌を伺い続けることで成り立っていた。
ヴィクトリアとの関係も、今思えば愛ではなかったのかもしれない。
終わりが決まっているからこその背徳感。
彼女には異国の高位貴族の婚約者がいた。
彼にもまた、長年婚約していた誠実な婚約者がいた。
結局のところ、二人とも本当に愛していた相手を裏切り、その代償を支払ったのだ。
そうして一週間が過ぎた。
ようやくヒルダがヘクトール伯爵領へ帰還した。
ハントは執事や侍女長、見知らぬ使用人たちを連れて門前に立った。
最初、馬車を操る人物の一人がヒルダだとは気づかなかった。
長かった茶髪は肩の上で切りそろえられている。
頬は痩せ、短くなった髪がそれをさらに際立たせていた。
旅用のコートとズボン姿。
服は清潔だったが、深く刻まれた皺が旅路の厳しさを物語っていた。
ハントは慌てて駆け寄り、彼女を馬車から降ろそうと手を差し出した。
ヒルダは彼を見た。
ただ見ただけだった。
その瞳には確かにハントの姿が映っていた。
だが彼は決して彼女の思考の中には存在していなかった。
それは愛する夫の帰還を喜ぶ妻の目ではない。
それでもヒルダは彼の手を借りた。
けれど実際には、自分の力で軽やかに飛び降りた。
彼の手は何の役にも立っていなかった。
―疲れているだけだ。
ハントは自分にそう言い聞かせた。




