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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第四章 要塞都市
22/25

4 隠れ家

 かまどの火がチロチロと燃えている。


 重い頭を振って目を開けたシャールを、かまどの前にいる見知らぬ男女が振り向いた。中年の小柄な男と、同じく中年の女。二人とも人好きのする穏やかな笑みを浮かべている。通りで行き交えば、自然と挨拶を交わしてしまう、そんな笑顔だ。


 天井のはりから垂れる紐の先に、ひづめを結わえた山羊のもも肉が吊るされ、かまどから昇る煙でいぶされていた。かまどの横の古びた調理台には、使い込まれた様子の鍋や食器が並び、土が剥きだしの床には、燃料に使う乾燥した山羊の糞の丸粒が山になっていた。


 裕福ではなさそうだが、リッダでは普通の家の風景だ。


 話しかけようとしたシャールは、自分の体の異変に気付いた。喋れないよう布をまされ、後ろ手に縛られている。

 足は縛られていない。立ち上がろうとすると肩をつかまれ、寝(わら)の上に押し戻された。


「まだ夜明け前だ、寝てていいよ」


 ハーリルの碧眼が見下ろしている。口調は穏やかだが、眼差しは冷たい。


「ハドラムから連れてきた部下を大勢殺された。おかげで、おれ自身がこんなところまで出向くはめになった。あれはいったい何だ?」


(アシュタルテのことか?)


「大声を上げたら即座に首を切る。いいか?」


 シャールの首に短剣シャンビヤの刃を当てて、ハーリルが言った。シャールがうなずくと、ハーリルは指先で彼女の口を塞いだ布を外した。


「なぜ、殺さない?」


 シャールがハーリルをにらむと、彼は薄く笑った。


「サルームで死んだはずの国王の死体が、リッダで見つかってはまずいだろう? おまえをどうするかは思案中だ。殺すつもりだったが、生かしておけばジャーフィルと取り引きできるかもしれない」


「ジャーフィルと? あいつは裏切り者だろう?」

「その通りだが、王を殺す気までは無かったのさ」

「……わたしにはわからない。なぜシェルバを狙う? シェルバとハドラムの関係は良好だったはず」


「先祖の残したダムによって豊かに暮らしているシェルバ人に、ハドラムの貧しさはわかるまい。香料しかないハドラムは、それをシェルバの小麦と交換するしか生きる術がない。命綱を握られた惨めさが」


「取り引きは両者の合意だったはず」


 短剣シャンビヤの先端がわずかに肌に食い込み、小さな血の玉を作った。


「足元を見られて買い叩かれているだけだ! ならば一つの国になればよい。そうすれば、取り引き自体が不要になる」


 ハドラムの乳香や没薬ミルラを幾らで買い付けているか、重要な交易品なので、おおよその相場はシャールも把握している。だが、その値が適正かどうかなど考えたことがなかった。シェルバの繁栄が彼女の役目であり、他国のことは、その国の王が考えればよい。


「話がそれたな。あの女戦士のことを聞こう」


「アシュタルテか……あれは特別に育成された、わたし直属の兵士だ」

「嘘だな、それなら昨夜現れたはず」

「リッダで襲われるとは思わなかったのだろう」


 シャールの首にもう一つ、血の玉が浮かぶ。


「わかった、正直に言う。信じないかもしれないが、あれは魔女神ジーニヤだ。わたしではなく、遊牧の民(ワラフ)の男をまもっている。わたしは遊牧の民(ワラフ)の客として、ついでにまもってもらっただけだ。運が悪かったな」


(しまった、言い過ぎたか?)

 シャールは首を刺されるのを覚悟したが、短剣シャンビヤは動かなかった。


魔女神ジーニヤか……」


「信じるのか?」

「人ならぬ者には馴染みがある。あれの相手は、やはり兄上にお願いするしかない」


 ハーリルが美しい笑顔を浮かべた。今のシャールには、それが気持ち悪くてたまらない。こんな男に一時いっときとはいえ心を許し、体を重ねた自分がいとわしい。


「兄上……?」

「そこにいるだろう」


 シャールはこうべめぐらせて、背後の暗がりを見た。


 誰もいない。人の気配もない。石の壁にハブルが掛けてあるだけだ。そのハブルがフワリと壁を離れ動き出した。


 ハブルは壁に掛けられていたのではなかった。ハブルを頭から被った誰かが、置物のように微塵も動かず、ずっとそこに立っていたのだ。


「顔を見せてやれ」


 その動きは滑らかすぎて、どこか不自然だった。かまどの光が届く所まで流れるように近付くと、シャールへ顔を向ける。強い没薬ミルラの香りが漂った。


 黒ずんだ死者の顔、眼球と鼻が失われ、大きな眼窩と小さな鼻の孔が見えている。乾燥した木乃伊ミイラの顔だ。思わず顔を背けたシャールの頭をハーリルが片手で掴み、無理やり木乃伊ミイラの方へ向けさせる。


「元婚約者同士、感動の再会だ」


 言葉の意味はわかった。面影など欠片かけらもないが、シャールの元婚約者、ハドラムの皇太子マスルだ。無邪気だった少女の頃の淡い思い出が蘇る。誠実そうに見えた皇太子が、実際はどんな男だったかはわからない。だが思い出は美しく、それを汚されたことに恐怖と怒りを感じた。


 シェルバとて王位を争ったシャールの兄たちの仲は悪く、内乱にまで発展した。ハドラムも同様だったのかもしれない。


(だが、ここまでするか!?)


  シャールは、ハドラムの皇太子のなれの果てから目を逸らした。自分の兄をここまで辱めるハーリルの本性が恐ろしかった。


「次兄のヤラルはクズだったが、長兄のマスルは文武に秀で、子供の頃は憧れたものだ。ただ、人が良すぎた」





 チャフィーブの裾をめくり上げられ、露わになった太腿の奥にハーリルの手が触れる。


(やめろ!)


 だが、口を塞ぐ布は戻されており、声を出すことができない。抑えつけられた身体をよじり、僅かな救いを求めて、かまどの傍にいる中年の男女の方へ目をやった。しかし彼らは変わらぬ優しげな笑みを浮かべ、主人の暴行を眺めている。


「シェルバの元女王ともあろう者が、このみすぼらしい小屋の汚れた土間の上で犯されるのだ。彼らが見ている目の前でな」


 激しくかぶりを振るシャールの顎をハーリルの手ががっちりと掴み、唇で彼女の鼻を塞いだ。鼻の孔から唾液と一緒にドロリとしたものが入り込んできた。没薬ミルラと強い麝香じゃこうの匂いに眩暈めまいがする。視界がぐにゃぐにゃと歪み、ハーリルの声が耳の中でボワボワと響いた。


「今夜は手加減しない。明日、逃げる気を起こさぬように」


 高価なチャフィーブを引き裂かれ、全裸になったシャールの肌の上をハーリルの指と舌が這い回る。まるで毒蜘蛛に這い回られるようなおぞましさだった。治りかけた傷口に触れられるように、敏感になった肌がピリピリと痺れ、それは痛みと共に快感でもあった。


 媚薬の効果だとわかっていたが、悔しくて自分が許せなかった。


 突き刺さる感覚に、シャールは声にならない悲鳴を上げた。涙が溢れた。苦痛に混じって、媚薬による震えるような快楽があり、その屈辱による涙だった。


 ぐるぐると天井が回り、つり下げられた山羊のあしも回っていた。


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