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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第四章 要塞都市
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5 橋上の戦い

 ハドラムの内通者の家は、首長の館からさほど離れていないリッダの中心部にあった。中心といっても裕福な者だけが住まうわけではなく、貧しい者も多く住んでいる。そもそもリッダの住民には貧富の差が少ない。傭兵は部隊を組み、放牧の家畜も共同で管理しているせいだろう。


 夜明けと共にシャールは外に連れ出された。空は灰色の雲で覆われ、夜明け前のように暗かった。太陽のある場所だけが、雲を透かして白く見えた。


 シャールは目立たない薄茶色のチャフィーブに着替えさせられていた。布をまされたままの顔はドゥループで覆われ、縛った手は暗い土色のハブルで隠されている。内通者の中年の男が驢馬ロバに乗り、ハーリルとシャールはその横に付き従う。朝の寒さに身を寄せ合うように見せかけて、ハーリルはハブル超しにシャールの腕をつかんでいた。


 しかし腕を掴まれていなくても、シャールは既に逃げる気を失っていた。朝までさいなまれ続け、足元がふらついていた。眩暈めまいが治まらず、真っ直ぐ歩くことさえ覚束なかった。昨夜の恥辱が生々しく、ハーリルに逆らうことが恐ろしかった。


 街の通路には既に人が多かった。多くは水汲みに行く者たちだ。


 内通者の男は、ふもとへ羊の世話しに行くふりを装っていた。実際、それが彼の表の仕事だった。長年リッダに住み暮らし、その仕事をしてきたのだ。疑う者はいない。


 街は平穏に見えた。警戒したり、誰かを探している様子の者はいない。シャールが誘拐されたことはマドカリブもとうに気付いているはずだが、まだ街中にいるとは思っていないのかもしれない。


 隣の岩山へ渡る石橋に差し掛かった。


 山を下りる者たちが集まるので、早朝だが混雑している。


 橋の真ん中に立ち、橋を渡る者たちの顔に目を走らせている男がいる。


(キリク! 帰ったのではなかったのか!?)


 シャールは安堵する、と同時に不安でブルブルと震えた。アシュタルテの姿が見えない。アシュタルテがいなければ、ハーリルに勝てるわけがない。


 キリクの横を通り過ぎようとした時、彼が顔をのぞき込もうとした。シャールは顔を伏せた。


「誰か探しているのかね?」


 驢馬ロバの上から内通者の男が声を掛けると、キリクはそちらへ目を向けた。人の良さそうな笑顔に、キリクの表情も緩む。


「いや、知り合いが通るかと思ってね」


「どんな人かな?」


「どんな? そう言われると困るなあ。高そうな紅いチャフィーブを着て、偉そうな話し方をする、まあ見た目は普通のおばさんだよ」


(国王に向かって何という言いぐさじゃ!)


 カッとなって顔を上げたシャールを、キリクが見下ろしていた。





「止むを得ん、ここで処分だ」


 ハーリルが早口でささやく。シャールは鋭い痛みと共に、胸に刃が刺さるのを感じた。


「うおおおおっ!」


 キリクが短剣シャンビヤを握るハーリルの右腕にしがみ付き、必死に押し返している。


「アッシュ!」


 キリクが叫ぶ。まだ異変に気付かない人波を猫のようにすり抜け、アシュタルテの黒いハブルが駆け寄ってくる。


 だが茶色いハブルが空から降り立ち、アシュタルテの前に立ちはだかった。ハドラムの皇太子マスルの木乃伊ミイラだ。


 剣が打ち合う響きに、人々が騒ぎ出す。女は悲鳴をあげ、男は身近にいた子供を抱えて、橋の両側に逃げた。


 ハーリルの左手がキリクのこめかみを殴りつける。ぐらついたキリクは、それでもハーリルの右腕を離さなかったが、それ以上何もできない。


 ハーリルが、短剣シャンビヤを左手に持ち替える。


(先にキリクを刺す気だ!)


 眩暈めまいが治まらない。シャールは目を閉じて、ふらつきながらハーリルに体当たりした。あわよくば橋から突き落とすつもりだった。


(死ね……わたしと一緒に死ね……!)


 だが、ハーリルとキリクはつかみ合ったまま石橋の欄干に当たり、態勢を崩す。


 後ろにのけ反ったキリクと視線が合う。優しい目。醒めた表情。


 こんな目をする男じゃない。

(もっと下品で、無礼で、がさつで……)


 口が悪くて人をイライラさせるこの男が、何故かシャールは好きだった。

(窮屈な王宮からわたしを連れ出し、本当の世界を見せてくれた……)


 キリクの意図を悟ったシャールだが、叫びは声にならない。


 キリクはハーリルを引きずり込み、一緒に石橋の向こうへ落ちた。





 欄干を超えて渓谷へ飛び込むアシュタルテの姿が見えた。


 後から飛び込んでどうにかなるのかわからないが、その姿にシャールは僅かな望みを抱いた。


 突然、息ができなくなる。誰かに、首を絞められている。逃れようと必死で頭を振り回すと、ぐるりと体が回り、内通者の男と目が合った。男は必死の形相でありながら、笑みを絶やしていない。


 両手を縛られたままのシャールは、首をつかまれ、上体を欄干の向こうへ押し込まれる。逆さになった視界に、滑り落ちるような絶壁が見える。


 息が止まる。片足が浮く。


(もう、だめ……!)


 不意に、首の圧迫が軽くなった。


 男の姿が、引っ手繰たくられるように横に流れる。首を不自然に曲げて。


 その背後から、皇太子マスルの木乃伊ミイラが飛びかかってきた。右手の長剣シャムシェールをシャールの頭上に振り下ろす。


 だが木乃伊ミイラの剣も横に流れ、空を切った。剣を持つ腕に黒い紐が巻き付き、引き留めているのだ。ピンと張った紐は橋のたもとまで続いている。そこにいたのは、まだ幼い少年だった。


(ハキム!?)


 木乃伊ミイラ長剣シャムシェールを左手に持ち替え、逃げようとするシャールの背に切りつける。


 ギュリリィィッ!


 横から差し込まれた別の長剣シャムシェール木乃伊ミイラの剣を受け止め、り上げた。


 がっちりとした幅広の大きな背中が、シャールと木乃伊ミイラの間をさえぎった。


「姫様、ご無事でなにより」


 それはアズラッドの提督アズベハだった。ハブルは身に付けず、薄茶のチャフィーブに黒い幅広の革帯を締めている。


 なぜ彼がここにいるのかわからないが、その隙にシャールはハキムのいる方へ這うように逃げた。木乃伊ミイラも同じ方向へ動き、その右腕に絡まった紐が緩んだ。紐が蛇のようにのたうち、木乃伊ミイラの腕から外れた。先端に小さな黒い刃物が付いている。星の形をした五芒旋ウブ・カース


 アズベハは遅れた。だが再び木乃伊ミイラの動きが止まり、その間に追いついた。今度は木乃伊ミイラの左腕に紐が絡まっている。橋の反対側にはマリヤムがいて、両手で紐を引いていた。そちらへ頭を向けた姿勢で内通者の男が倒れていた。彼女の五芒旋ウブ・カースが内通者の男の首を切ったのだ。


 子供の力で木乃伊ミイラの動きを封じることまではできない。木乃伊ミイラが紐を引っ張り返そうとすると、武器を奪われる前にマリヤムは紐を緩め、五芒旋ウブ・カースを手元に引き戻した。


 アズベハの体の動きは武闘試合の時と同様、やや遅く見える。だが剣先は早いようで、シャールの目では追えなかった。木乃伊ミイラの動きは更に早く、腕の動きそのものが見えなかった。体の動きはフワフワと軽く、時折アズベハが気合を入れて繰り出す刺突を、風に舞う落ち葉のようにかわしていた。





 ハキムが小さな短剣シャンビヤでシャールのいましめを解いてくれた。


(どうしてハキムとマリヤムがここに……?) 


 だが、今は何も考えられない。ハーリルが橋から落ちたのを見ても、まだ恐れは消えていなかった。早く安全な場所へ逃げたかった。早く、早く、早く。


 アズベハは押されている。短時間では互角でも、休むことのない相手に疲れてきていた。


 時々、ハキムとマリヤムが五芒旋ウブ・カースを投げるが、避けられるか、剣で弾かれるかのどちらかだ。


「だめだ、もう筋を読まれている……」


 ハキムがつぶやく。それでもアズベハがたいを入れ替えたり、一呼吸する間を与える助けにはなっているようだ。


 ゴオウ。


 強い風が吹いた。夜明けからずっと曇っていた空が、今は黒い。


 見上げた頬に、ポツリと感触があった。


 ボツボツと、石橋に水の粒が落ちる。すぐにバラバラと音を立てて、雨が降り始めた。


「雨が……!」


 この時期、雨は降らないはず。


 ハキムの投げた五芒旋ウブ・カース木乃伊ミイラが避けた。が、星形の刃が旋回して戻る時、木乃伊ミイラの手首をえぐった。裂けた手首から何か飛び散ったが、血は流れない。


 マリヤムの五芒旋ウブ・カースも、木乃伊ミイラの膝に突き刺さる。


 片膝を折った木乃伊ミイラに、アズベハが剣を打ち込む。今までは軽々とかわしていた攻撃を剣の峰で受け止め、木乃伊ミイラの態勢が沈んだ。


 木乃伊ミイラの動きが明らかに鈍くなっている。


(雨……? 水か!)


 ザーザーと打ち付ける雨で、水煙が立った。


 ハキムの五芒旋ウブ・カース木乃伊ミイラのもう一方の膝を折り、アズベハが、ここぞとばかりに剣を叩き込むと、受け止めた木乃伊ミイラの手首が折れた。最前ハキムがえぐった方の手首だ。


 ヴォォアアッ!


 心など無い死者のはずなのに、その最後の叫びは、シャールには悲痛に聞こえた。かつて自分の婚約者だった青年の姿を覚えているから、そう思うだけかもしれない。


 剣ごと手首を切り落とされ、返す刀で首を落とされた。落ちた木乃伊ミイラの頭を、ぐしゃりと一足ひとあしで踏み潰し、アズベハは大きく息をついた。


「やれやれ、これが噂に聞くハドラムの秘法か」





「おい、笑ってるぞ」


 内通者の男の死体をひっくり返し、マドカリブの部下が言った。


「気の良い親父だと思っていたが、騙されたなあ」

「先代の頃から、ここに住んでいた。真面目で人好きのする男だったが……」


 マドカリブがつぶやく。リッダの住民に長年親しまれ、信頼されていたようだ。ハドラムの密偵として、そう演じ切っていたのだ。


 シャールの両手に、そっと小さな手が触れた。左右にハキムとマリヤムが立っている。兄が死んだかもしれないというのに、二人とも無表情で心配そうな顔はしていない。


「……ありがとう、二人のおかげで助かったよ」


 シャールは両腕で二人を抱きしめた。


 シャールにも、もうわかっていた。ハキムとマリヤムが使う五芒旋ウブ・カースは、スナリスを捕まえる道具ではなく、人を殺すためのものだと。


 近付いてくるアズベハに、ハキムとマリヤムが手を振っている。


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