5 橋上の戦い
ハドラムの内通者の家は、首長の館からさほど離れていないリッダの中心部にあった。中心といっても裕福な者だけが住まうわけではなく、貧しい者も多く住んでいる。そもそもリッダの住民には貧富の差が少ない。傭兵は部隊を組み、放牧の家畜も共同で管理しているせいだろう。
夜明けと共にシャールは外に連れ出された。空は灰色の雲で覆われ、夜明け前のように暗かった。太陽のある場所だけが、雲を透かして白く見えた。
シャールは目立たない薄茶色のチャフィーブに着替えさせられていた。布を噛まされたままの顔はドゥループで覆われ、縛った手は暗い土色のハブルで隠されている。内通者の中年の男が驢馬に乗り、ハーリルとシャールはその横に付き従う。朝の寒さに身を寄せ合うように見せかけて、ハーリルはハブル超しにシャールの腕を掴んでいた。
しかし腕を掴まれていなくても、シャールは既に逃げる気を失っていた。朝まで苛まれ続け、足元がふらついていた。眩暈が治まらず、真っ直ぐ歩くことさえ覚束なかった。昨夜の恥辱が生々しく、ハーリルに逆らうことが恐ろしかった。
街の通路には既に人が多かった。多くは水汲みに行く者たちだ。
内通者の男は、麓へ羊の世話しに行くふりを装っていた。実際、それが彼の表の仕事だった。長年リッダに住み暮らし、その仕事をしてきたのだ。疑う者はいない。
街は平穏に見えた。警戒したり、誰かを探している様子の者はいない。シャールが誘拐されたことはマドカリブもとうに気付いているはずだが、まだ街中にいるとは思っていないのかもしれない。
隣の岩山へ渡る石橋に差し掛かった。
山を下りる者たちが集まるので、早朝だが混雑している。
橋の真ん中に立ち、橋を渡る者たちの顔に目を走らせている男がいる。
(キリク! 帰ったのではなかったのか!?)
シャールは安堵する、と同時に不安でブルブルと震えた。アシュタルテの姿が見えない。アシュタルテがいなければ、ハーリルに勝てるわけがない。
キリクの横を通り過ぎようとした時、彼が顔を覗き込もうとした。シャールは顔を伏せた。
「誰か探しているのかね?」
驢馬の上から内通者の男が声を掛けると、キリクはそちらへ目を向けた。人の良さそうな笑顔に、キリクの表情も緩む。
「いや、知り合いが通るかと思ってね」
「どんな人かな?」
「どんな? そう言われると困るなあ。高そうな紅いチャフィーブを着て、偉そうな話し方をする、まあ見た目は普通のおばさんだよ」
(国王に向かって何という言いぐさじゃ!)
カッとなって顔を上げたシャールを、キリクが見下ろしていた。
「止むを得ん、ここで処分だ」
ハーリルが早口で囁く。シャールは鋭い痛みと共に、胸に刃が刺さるのを感じた。
「うおおおおっ!」
キリクが短剣を握るハーリルの右腕にしがみ付き、必死に押し返している。
「アッシュ!」
キリクが叫ぶ。まだ異変に気付かない人波を猫のようにすり抜け、アシュタルテの黒いハブルが駆け寄ってくる。
だが茶色いハブルが空から降り立ち、アシュタルテの前に立ちはだかった。ハドラムの皇太子マスルの木乃伊だ。
剣が打ち合う響きに、人々が騒ぎ出す。女は悲鳴をあげ、男は身近にいた子供を抱えて、橋の両側に逃げた。
ハーリルの左手がキリクのこめかみを殴りつける。ぐらついたキリクは、それでもハーリルの右腕を離さなかったが、それ以上何もできない。
ハーリルが、短剣を左手に持ち替える。
(先にキリクを刺す気だ!)
眩暈が治まらない。シャールは目を閉じて、ふらつきながらハーリルに体当たりした。あわよくば橋から突き落とすつもりだった。
(死ね……わたしと一緒に死ね……!)
だが、ハーリルとキリクは掴み合ったまま石橋の欄干に当たり、態勢を崩す。
後ろにのけ反ったキリクと視線が合う。優しい目。醒めた表情。
こんな目をする男じゃない。
(もっと下品で、無礼で、がさつで……)
口が悪くて人をイライラさせるこの男が、何故かシャールは好きだった。
(窮屈な王宮からわたしを連れ出し、本当の世界を見せてくれた……)
キリクの意図を悟ったシャールだが、叫びは声にならない。
キリクはハーリルを引きずり込み、一緒に石橋の向こうへ落ちた。
欄干を超えて渓谷へ飛び込むアシュタルテの姿が見えた。
後から飛び込んでどうにかなるのかわからないが、その姿にシャールは僅かな望みを抱いた。
突然、息ができなくなる。誰かに、首を絞められている。逃れようと必死で頭を振り回すと、ぐるりと体が回り、内通者の男と目が合った。男は必死の形相でありながら、笑みを絶やしていない。
両手を縛られたままのシャールは、首を掴まれ、上体を欄干の向こうへ押し込まれる。逆さになった視界に、滑り落ちるような絶壁が見える。
息が止まる。片足が浮く。
(もう、だめ……!)
不意に、首の圧迫が軽くなった。
男の姿が、引っ手繰られるように横に流れる。首を不自然に曲げて。
その背後から、皇太子マスルの木乃伊が飛びかかってきた。右手の長剣をシャールの頭上に振り下ろす。
だが木乃伊の剣も横に流れ、空を切った。剣を持つ腕に黒い紐が巻き付き、引き留めているのだ。ピンと張った紐は橋の袂まで続いている。そこにいたのは、まだ幼い少年だった。
(ハキム!?)
木乃伊は長剣を左手に持ち替え、逃げようとするシャールの背に切りつける。
ギュリリィィッ!
横から差し込まれた別の長剣が木乃伊の剣を受け止め、擦り上げた。
がっちりとした幅広の大きな背中が、シャールと木乃伊の間を遮った。
「姫様、ご無事でなにより」
それはアズラッドの提督アズベハだった。ハブルは身に付けず、薄茶のチャフィーブに黒い幅広の革帯を締めている。
なぜ彼がここにいるのかわからないが、その隙にシャールはハキムのいる方へ這うように逃げた。木乃伊も同じ方向へ動き、その右腕に絡まった紐が緩んだ。紐が蛇のようにのたうち、木乃伊の腕から外れた。先端に小さな黒い刃物が付いている。星の形をした五芒旋。
アズベハは遅れた。だが再び木乃伊の動きが止まり、その間に追いついた。今度は木乃伊の左腕に紐が絡まっている。橋の反対側にはマリヤムがいて、両手で紐を引いていた。そちらへ頭を向けた姿勢で内通者の男が倒れていた。彼女の五芒旋が内通者の男の首を切ったのだ。
子供の力で木乃伊の動きを封じることまではできない。木乃伊が紐を引っ張り返そうとすると、武器を奪われる前にマリヤムは紐を緩め、五芒旋を手元に引き戻した。
アズベハの体の動きは武闘試合の時と同様、やや遅く見える。だが剣先は早いようで、シャールの目では追えなかった。木乃伊の動きは更に早く、腕の動きそのものが見えなかった。体の動きはフワフワと軽く、時折アズベハが気合を入れて繰り出す刺突を、風に舞う落ち葉のようにかわしていた。
ハキムが小さな短剣でシャールの縛めを解いてくれた。
(どうしてハキムとマリヤムがここに……?)
だが、今は何も考えられない。ハーリルが橋から落ちたのを見ても、まだ恐れは消えていなかった。早く安全な場所へ逃げたかった。早く、早く、早く。
アズベハは押されている。短時間では互角でも、休むことのない相手に疲れてきていた。
時々、ハキムとマリヤムが五芒旋を投げるが、避けられるか、剣で弾かれるかのどちらかだ。
「だめだ、もう筋を読まれている……」
ハキムが呟く。それでもアズベハが体を入れ替えたり、一呼吸する間を与える助けにはなっているようだ。
ゴオウ。
強い風が吹いた。夜明けからずっと曇っていた空が、今は黒い。
見上げた頬に、ポツリと感触があった。
ボツボツと、石橋に水の粒が落ちる。すぐにバラバラと音を立てて、雨が降り始めた。
「雨が……!」
この時期、雨は降らないはず。
ハキムの投げた五芒旋を木乃伊が避けた。が、星形の刃が旋回して戻る時、木乃伊の手首を抉った。裂けた手首から何か飛び散ったが、血は流れない。
マリヤムの五芒旋も、木乃伊の膝に突き刺さる。
片膝を折った木乃伊に、アズベハが剣を打ち込む。今までは軽々とかわしていた攻撃を剣の峰で受け止め、木乃伊の態勢が沈んだ。
木乃伊の動きが明らかに鈍くなっている。
(雨……? 水か!)
ザーザーと打ち付ける雨で、水煙が立った。
ハキムの五芒旋が木乃伊のもう一方の膝を折り、アズベハが、ここぞとばかりに剣を叩き込むと、受け止めた木乃伊の手首が折れた。最前ハキムが抉った方の手首だ。
ヴォォアアッ!
心など無い死者のはずなのに、その最後の叫びは、シャールには悲痛に聞こえた。かつて自分の婚約者だった青年の姿を覚えているから、そう思うだけかもしれない。
剣ごと手首を切り落とされ、返す刀で首を落とされた。落ちた木乃伊の頭を、ぐしゃりと一足で踏み潰し、アズベハは大きく息をついた。
「やれやれ、これが噂に聞くハドラムの秘法か」
「おい、笑ってるぞ」
内通者の男の死体をひっくり返し、マドカリブの部下が言った。
「気の良い親父だと思っていたが、騙されたなあ」
「先代の頃から、ここに住んでいた。真面目で人好きのする男だったが……」
マドカリブが呟く。リッダの住民に長年親しまれ、信頼されていたようだ。ハドラムの密偵として、そう演じ切っていたのだ。
シャールの両手に、そっと小さな手が触れた。左右にハキムとマリヤムが立っている。兄が死んだかもしれないというのに、二人とも無表情で心配そうな顔はしていない。
「……ありがとう、二人のおかげで助かったよ」
シャールは両腕で二人を抱きしめた。
シャールにも、もうわかっていた。ハキムとマリヤムが使う五芒旋は、スナリスを捕まえる道具ではなく、人を殺すためのものだと。
近付いてくるアズベハに、ハキムとマリヤムが手を振っている。




