2 リッダ
化粧の仕方がわからない。
王宮に居たころは侍女が勝手にやってくれたし、遊牧の民の天幕にいた時は見かねたナディヤがやってくれた。そもそも化粧道具がないので、昨夜の炭を唾で濡らして目元に塗った。砂で磨いた銅鍋の底が鏡代わりだ。
シャールは薄紅色のチャフィーブに袖を通し、金鎖の首飾りを巻いた。汚れたハブルは羽織らなかった。
「見違えたな」
ドニに跨ったシャールを見上げて、キリクが言った。
「そんなお世辞を言う男だとは思わなかったよ」
だが悪い気はしない。服を変えるだけで、気持ちが切り替わる。
駱駝ではなく竜駝を選んだのは目立つからだ。危険な竜駝は戦う男が乗るもので、身なりの良い女が乗るものではない。大勢に注目されていれば叔父も手を出しにくいだろう。
(だが、その後は? 受け入れられなければ、どこへ行けばいい……?)
悪い考えを振り払い、リッダへ向かう。
灰色の岩山の周囲は、ほとんどが羊の放牧場になっている。少し離れて小さい二つの囲いがあり、そこでは駱駝と竜駝が飼われている。いずれも共同の飼育場だ。久しぶりに大勢の同類を見て興奮したのか、落ち着きなく首を振るドニを宥めつつ、シャールは駱駝と竜駝の囲いの間を抜けた。そこに、リッダへの唯一の登り口がある。
双子のように寄り添う隣の岩山にも、かつては登り口があったが、今は封鎖されている。唯一残された登り口には石積みの簡易な門があり、そこに黒い鉄棒が横に渡されて通行を遮っていた。
黒や臙脂、濃紺など、雑多な色のドゥループを頭に巻いた男たちが、門柱の後ろからばらばらと現れた。腰帯に短剣を差し、背中に長剣を担いでいる。
シャールはドニの上で胸を張り、傲然と男たちを見下ろした。
「シェルバの王シャールじゃ! 我が叔父マドカリブに会いに来た。案内せよ!」
縮れた髭が顔の半分を覆う男たちばかりの中で、中心にいる一人だけ髭が薄い。体格は大人と変わらないが、まだ若い。顔立ちは整っているものの、黒い目が少し垂れていて、柔らかな印象を受ける。その優しげな顔に、どこか見覚えがあった。
「従姉どの、ようこそリッダへ!」
「……アムアナスか?」
首長マドカリブの長男アムアナス。シャールは少年の頃の彼しか覚えていなかったので、今の成人した姿とはすぐには重ならなかった。
(七年ぶりか)
前回リッダに来た時、シャールはまだ国王ではなかった。王位継承のゴタゴタを逃れて、ここに避難していたのだ。
「われが来るのが、よくわかったな?」
「見張りから、すぐに知らせがありました。金持ちそうな女が竜駝に乗って来るって、皆が驚いてましたよ。上で父上がお待ちです」
おそらく十七、八歳であろうアムアナスは、大人びた控えめな笑顔を向けた。
岩山が苦手な駱駝と竜駝を麓の飼育場に預け、シャールはアムアナスが用意してくれた驢馬に乗り換えて山道を進んだ。
従者と見なされたキリクとアシュタルテは歩きだ。驢馬や騾馬に乗っているのはアムアナスを含めた数人だけで、他の男たちも後から、ずらずらと歩いてくる。
アシュタルテの異質さは目を引いたようだが、アムアナスは何も言わなかった。リッダでは傭兵として異国で働く者が多く、西方のどこかの国の者としか思われなかったようだ。
アムアナスが騾馬を寄せて囁いた。
「従姉どの、今はまだ身分は内密に。ここには来ていないとサルームには伝えますから」
(今すぐ殺されることはなさそうだな……)
途上何度も、山羊の群れと、それを追う山羊飼いの少年とすれ違った。麓では羊を飼い、山では山羊を飼っている。岩山でも周囲の荒れ地でも作物は育たず、放牧と傭兵がリッダの生業だった。
そそり立つ二つの岩山の間の道を通る。切り立った断崖が向き合う狭い谷だが、道の上に太い影が落ちていた。
見上げると、双子の山頂近くに、両者を繋ぐ石橋が掛かっていた。
崖に埋め込まれた石積みの橋梁の間に、半円の弧を描いて石が隙間なく並べられ、おそらく漆喰で固められていた。狭い谷とはいえ、到底人が飛び越えられる幅ではなく、崖の壁面にどのように足場を築き、どのように石を詰めたのか。
少しでも石積みの緩みがあれば、あっと間に崩れてしまいそうに見えるが、リッダの人々の話では、この橋は千年も前からあるという。山頂にあった二つの街が一緒になり、リッダとなったその時から。
「どうやって造ったのか、我々にもわかりません」
リッダの住人が、外の人間に橋を自慢する時の常套句だ。
「シェルバ一の名所だな。そう思わないか、キリク?」
シャールは馬上で振り返り、キリクとアシュタルテの姿を探した。
「彼らは帰りましたよ」
アムアナスが怪訝そうな顔をする。
「帰った?」
「出発して直ぐですよ。仕事が終わったから帰る、と言伝をして」
シャールは驢馬の首を回らせようとしたが、アムアナスの言葉で思いとどまった。
「たった二人で、あなたをここまで連れてきた。彼らは良い仕事をした」
リッダの民は遊牧の民と似ている。
(彼らの役目は済んだのに、なぜ引き留める必要がある?)
「仕事か、そうだな……」
だが、突然ハブルを剥ぎ取られたような、不安と寂しさは拭えなかった。
一アム(約二時間)ほど山道を登り、リッダの街に着いた。
山から露出した大岩の間を埋めるように城壁が巡らされているが、それらは住居の外壁を兼ねている。城壁の上に、洗濯物を干す女や、こちらを興味深々で見下ろしている子供の姿が見えた。平時は、そこも住居の屋上に過ぎない。
街中の通りは混雑していた。リッダの人口は多くないが、岩山の上で暮らしているので平地が足りない。元の地形をあまり崩さず、山の形に沿って建物や通路を作っているので、道や階段が入り組んで迷路のようになっている。そのため道幅のある便利な大通りに人が溢れてしまうのだ。
シャールたちの乗る驢馬や騾馬が人波を割って進む。街の人々が好奇に満ちた目で見ている。アズラッドとの国境に近いこの街には、隊商が立ち寄ることも多く、よそ者は珍しくない。どうやら別の理由で、主に女たちから注目されているようだ。買い物中の女たちの囁きから察するに、アムアナスはリッダの女たちの憧れの的らしい。
先ほど谷底から見上げた石橋を渡る。
荷馬車一台なら余裕で通れるが、二台並ぶ幅はない。がっしりした石橋は、当然だが人や驢馬が通ろうがビクともしない。腰の高さ程の欄干は厚みがあり、その向こうにはアズラ砂漠へと続く地平が煙って見えた。
橋を渡った先の山頂に首長の館がある。三階立ての館には、二階まで岩山が食い込んでいるように見える。岩を基礎として利用しつつ、背後の壁にもなっているのだ。館の石積みは岩山と同じ石で、建物の角や窓枠などが白い漆喰で縁取られていた。
「シャール、立派になった!」
館の一室で叔父のマドカリブと再会するや、彼はシャールを抱きしめ、子供に対するように髭を彼女の頬に押し当てた。
髪に白いものが混じっているが、それ以外は以前と変わらない。膨れた頬と丸い目。人好きのする愛嬌のある顔だが、眼力が強く、目の表情だけで陽気にも苛烈にもなれる。周囲と談笑していた次の瞬間、弛んでいる部下を叱り飛ばす。その突然の迫力に、子供の頃のシャールは震えあがったものだ。
「やめてください、もう子供ではありません」
笑顔で押し返したシャールだが、内心は複雑だった。叔父の馴れ馴れしい態度は、あくまで姪としての扱いだ。シャールを国王として遇していない。
「確かに、もう子供ではない。なぜ結婚しないのだ?」
「……いい男がいなくて」
「サルームは大都市だぞ。探せば好みの男ぐらい見つかるだろう?」
「見た目だけで選ぶわけにはいきません」
「そうか? おれは見た目が良ければ、役立たずでもかまわんがなあ。そんなことだから、ハドラムの王子に食い込まれるのだ」
シャールは顔を伏せて黙り込んだ。部屋には、他にアムアナスしかいない。
「叔父上、わたしはどうすれば……」
(だめだ! 弱気になっては……)
しかし堂々とした叔父の姿に、つい頼りたくなってしまう。気力で支えてきたものが崩れそうになる。不安が溢れそうになる。
「こいつと結婚しろ。そうすれば玉座に戻してやる」
「え?」
シャールは思わずアムアナスの顔を見た。
初耳だったのだろう。アムアナスも驚いた表情で、こちらを見ていた。




