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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第三章 砂の行路
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6 涸れ川

 その後は砂嵐にも合わず、シャールたちは順調に旅を続けた。


 順調であっても楽ではない。昼間の仮眠では暑さで疲れが取れず、水を節約するので常に喉が渇いていた。


 バニを失ったので、シャールはキリクと共に駱駝らくだに乗った。夜間の移動中、疲れの溜まったシャールは何度か意識を失った。駱駝らくだの背から転げ落ちそうになり、その度に同乗していたキリクに支えられた。


 星座を頼りに北東へ二日、途中から北西へ進路を変えて四日。いつしか砂漠を抜け出し、れきの多い荒れ地を進んでいた。


 リッダまではあと二日程だが、水が尽きた。


「ぎりぎり死なずに済むか。気を失っても、後はアシュタルテにリッダまで運んでもらえば何とかなるだろう」


 そうは言っても先の辛さを想像すると、シャールは憂鬱ゆううつだった。だがキリクの表情は、そこまで深刻ではない。


「一部の遊牧の民(ワラフ)だけが知っている水場があるが、あまり期待しないでくれ」


 その水場へ行くためだろう。その日は午後早めに歩き出し、夕方に大きな涸れ川(ワディ)に出た。二つの緩い丘に挟まれた涸れ川(ワディ)には、雨季の流水の跡がくっきり残っている。乾季の今は、もちろん水はない。


「川ができるのを待つのか?」


 シャールは皮肉を言った。珍しく空が曇っている。だが雲は薄く白く、雨になるとは思えなかった。乾季に雨が降るなど十年に一度あるかないか。それも地面を湿らせる程度で、川になることはない。


 キリクは駱駝らくだを降り、涸れ川(ワディ)に沿って歩いた。顔を下に向け、何かを探しているようだ。


 シャールは駱駝らくだの上にとどまり、その様子を眺めていた。


「砂狐がいるぞ」


 涸れ川(ワディ)の上流に一匹の砂狐フェネックがいるのを、シャールが見つけた。前足で地面を掘っているようだ。大きな白い砂狐フェネックが地面を掘るのを止め、こちらを振り向いた。ピンと立った大きな耳の中は薄い桃色。黒い目が問いたげに見ている。


「あいつも探しているのか? 悪いが、横取りさせてもらうか」


 キリクが近寄ると、砂狐フェネックはさらに上流へ走って逃げた。


 砂狐フェネックが掘っていたのは、蛇行した涸れ川(ワディ)の大きく曲がった内側の部分だ。キリクは同じ場所を、天幕テントの支柱の棒で掘り始めた。


 雨季には柔らかい川底だったはずだが、今は乾き切って固く、掘り進めるのに苦労している。そこに水があるとは信じられなかったが、シャールが手伝うために駱駝らくだを下りようとした時、


「わたしがやろう」


 アシュタルテはキリクを押し除けると、両手を手刀にして地面に突き刺した。地面をえぐり、土を掻き出す。その動きを倦むことなく高速で繰り返す。勢いに圧倒されて、結局シャールは穴掘りに参加しなかった。





 穴の縁がアシュタルテの肩に届くほど掘り下げられると、穴の脇に積み上がる土が湿り気を帯びてきた。アシュタルテが掘るのを止めると、キリクが手で幾らかの泥を掻き出し、その後穴に顔を突っ込んだ。


 持ち上げたキリクの顔はぬらぬらと濡れ光り、ニッカリと浮かべた笑みが不気味だった。ハブルの裾で顔を拭い、シャールをうながす。


 恐る恐るのぞき込んだ穴の底には、異国のゼリー菓子のようにフルフルとした透明なものが溜まっていた。触るとひんやりしている。緩い弾力があったが、押すと崩れ、指先が濡れた。


「これは何だ? 口にして大丈夫なのか?」


「もちろんだ、美味いぜ!」


 シャールは濡れた指先を嗅いだが、微かにミントのような香りがする。


 半日水を飲んでいなかったので、喉が渇き切っていた。


(あと二日なんて、とても無理)


 シャールは、その透明なものを手ですくい口に含んだ。


(美味しい!)


 味はない。でも冷えた柔らかいものが、口の中でスルリと溶けていく。喉を潤す感覚は水そのものだ。シャールは顔を近づけて夢中で飲んだ。


 透明なものを透かした向こう側で、グルッと何かが動いた。

 皿のような大きな円い目が、こちらを見ている。暗い朱色の目に、黒い虹彩が大きい。


「ぎゃっ!」


 シャールは、慌てて穴から顔を離した。


「目が! 目が!」


 驚き過ぎて言葉が続かない。キリクがクックッと笑う。


大蛙ディフダルだよ」


「カエル!? じゃあ、今飲んだあれは……?」


大蛙ディフダルの粘膜だ。あれで乾燥から身を守り、地面の下で乾季をやり過ごす」


 雨季に涸れ川(ワディ)が本物の川になると外に這い出し、乾季になる前に、また地面の下に戻るという。シャールは軽い吐き気を感じたが、大事な水分を吐き出すわけにはいかない。


「粘膜を取りすぎると死んでしまう。このくらいで止めとこう」


 キリクは、掘り出した土を穴に戻した。


 ひどいものを飲まされた、とシャールは思ったが、しばらく経ってまた喉が渇くと、あれがたまらなく恋しくなった。





 夕闇が迫る中、熾火のような赤い地平線に尖った岩山が見えた。その頂は、斧で断ち割ったように二つに分かれている。


 二つの頂の両方に街があり、それらに灯が点り始めた。古くはそれぞれ別の名を持つ街だったそうだが、今では合わせて『リッダ』と呼ばれている。


「街に入るかい?」


「到着するのは夜中だろう? 街へは入れまい。明日にしよう」


 もう丸一日水を飲んでいない。せめて水だけでも貰いに行きたい。その気持ちを、ぐっと抑える。


 既に新王ジャーフィルの使者が来ているはずだ。死んだことになっている旧王シャールを、首長のマドカリブがどう扱うか。姪のシャールには優しい叔父だったが、情よりもリッダの首長としての立場を優先する人だ。旧王の名をかたる不審者として捕えられるか、あるいは即座に殺されることもあり得る。


(人目のある時に堂々と名乗って行けば、叔父も手を出しづらいかもしれない)


 本当は怖いだけだ。叔父に相手にされず、ただ殺されてしまうのは、あまりにも惨めだ。怖い。できるだけ先延ばしにしたい。


 だが顔には出せない。落ちぶれても、シャールは国王なのだから。


「コーヒーを淹れよう」


「コーヒーだと? どこに水がある?」


大蛙ディフダルが見つからなかった時のために、少しだけ隠しておいた」


 キリクは機嫌が良い。リッダに到着すれば、もう安心だと思っているのだ。


 キリクは火を起こし、銅鍋の底で薄緑の珈琲の生豆を煎った。豆が煎りあがると、短剣シャンビヤの柄頭で細かく砕き、最後の水を入れて煮出す。


 上澄みを注いだ素焼きの手杯に口を寄せると、薄っすらと甘い茉莉花ジャスミンのような香りが鼻をくすぐる。


「これは……クシュロア産だろう? こんな高級品をよく持っていたな」


 クシュロアは紅海を挟んだ西の大陸の東岸を領する大国だ。低地の多いシェルバではコーヒーは栽培できず、普段使われるのは隣国アズラッド産の豆だった。


「ギルヒバが隠していたものを、少しもらってきた」


「ばれたら大事だ」


「そう言われて思い出した」


 キリクは駱駝らくだの荷を少し解き、畳んだ薄紅色のものを差し出した。それはシャールが王宮から出た時に着ていた絹のチャフィーブで、広げると金鎖の首飾りが包まれていた。首飾りは滞在費としてギルヒバに渡したもので、チャフィーブは預けたものだが、どちらも戻ってくるとは思っていなかった。


「ナディヤがギルヒバから預かったそうだ。女王様がその格好ではまずかろう、と」


「そうか……ギルヒバは金に意地汚いなどと、ひどいことを言ってしまったな」


「そりゃ本当だ。金貨(ディナール)は全部取られただろ?」


 二人は顔を見合わせて、くすりと笑い合った。

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