6 涸れ川
その後は砂嵐にも合わず、シャールたちは順調に旅を続けた。
順調であっても楽ではない。昼間の仮眠では暑さで疲れが取れず、水を節約するので常に喉が渇いていた。
バニを失ったので、シャールはキリクと共に駱駝に乗った。夜間の移動中、疲れの溜まったシャールは何度か意識を失った。駱駝の背から転げ落ちそうになり、その度に同乗していたキリクに支えられた。
星座を頼りに北東へ二日、途中から北西へ進路を変えて四日。いつしか砂漠を抜け出し、礫の多い荒れ地を進んでいた。
リッダまではあと二日程だが、水が尽きた。
「ぎりぎり死なずに済むか。気を失っても、後はアシュタルテにリッダまで運んでもらえば何とかなるだろう」
そうは言っても先の辛さを想像すると、シャールは憂鬱だった。だがキリクの表情は、そこまで深刻ではない。
「一部の遊牧の民だけが知っている水場があるが、あまり期待しないでくれ」
その水場へ行くためだろう。その日は午後早めに歩き出し、夕方に大きな涸れ川に出た。二つの緩い丘に挟まれた涸れ川には、雨季の流水の跡がくっきり残っている。乾季の今は、もちろん水はない。
「川ができるのを待つのか?」
シャールは皮肉を言った。珍しく空が曇っている。だが雲は薄く白く、雨になるとは思えなかった。乾季に雨が降るなど十年に一度あるかないか。それも地面を湿らせる程度で、川になることはない。
キリクは駱駝を降り、涸れ川に沿って歩いた。顔を下に向け、何かを探しているようだ。
シャールは駱駝の上に留まり、その様子を眺めていた。
「砂狐がいるぞ」
涸れ川の上流に一匹の砂狐がいるのを、シャールが見つけた。前足で地面を掘っているようだ。大きな白い砂狐が地面を掘るのを止め、こちらを振り向いた。ピンと立った大きな耳の中は薄い桃色。黒い目が問いたげに見ている。
「あいつも探しているのか? 悪いが、横取りさせてもらうか」
キリクが近寄ると、砂狐はさらに上流へ走って逃げた。
砂狐が掘っていたのは、蛇行した涸れ川の大きく曲がった内側の部分だ。キリクは同じ場所を、天幕の支柱の棒で掘り始めた。
雨季には柔らかい川底だったはずだが、今は乾き切って固く、掘り進めるのに苦労している。そこに水があるとは信じられなかったが、シャールが手伝うために駱駝を下りようとした時、
「わたしがやろう」
アシュタルテはキリクを押し除けると、両手を手刀にして地面に突き刺した。地面を抉り、土を掻き出す。その動きを倦むことなく高速で繰り返す。勢いに圧倒されて、結局シャールは穴掘りに参加しなかった。
穴の縁がアシュタルテの肩に届くほど掘り下げられると、穴の脇に積み上がる土が湿り気を帯びてきた。アシュタルテが掘るのを止めると、キリクが手で幾らかの泥を掻き出し、その後穴に顔を突っ込んだ。
持ち上げたキリクの顔はぬらぬらと濡れ光り、ニッカリと浮かべた笑みが不気味だった。ハブルの裾で顔を拭い、シャールを促す。
恐る恐る覗き込んだ穴の底には、異国のゼリー菓子のようにフルフルとした透明なものが溜まっていた。触るとひんやりしている。緩い弾力があったが、押すと崩れ、指先が濡れた。
「これは何だ? 口にして大丈夫なのか?」
「もちろんだ、美味いぜ!」
シャールは濡れた指先を嗅いだが、微かにミントのような香りがする。
半日水を飲んでいなかったので、喉が渇き切っていた。
(あと二日なんて、とても無理)
シャールは、その透明なものを手で掬い口に含んだ。
(美味しい!)
味はない。でも冷えた柔らかいものが、口の中でスルリと溶けていく。喉を潤す感覚は水そのものだ。シャールは顔を近づけて夢中で飲んだ。
透明なものを透かした向こう側で、グルッと何かが動いた。
皿のような大きな円い目が、こちらを見ている。暗い朱色の目に、黒い虹彩が大きい。
「ぎゃっ!」
シャールは、慌てて穴から顔を離した。
「目が! 目が!」
驚き過ぎて言葉が続かない。キリクがクックッと笑う。
「大蛙だよ」
「カエル!? じゃあ、今飲んだあれは……?」
「大蛙の粘膜だ。あれで乾燥から身を守り、地面の下で乾季をやり過ごす」
雨季に涸れ川が本物の川になると外に這い出し、乾季になる前に、また地面の下に戻るという。シャールは軽い吐き気を感じたが、大事な水分を吐き出すわけにはいかない。
「粘膜を取りすぎると死んでしまう。このくらいで止めとこう」
キリクは、掘り出した土を穴に戻した。
ひどいものを飲まされた、とシャールは思ったが、しばらく経ってまた喉が渇くと、あれがたまらなく恋しくなった。
夕闇が迫る中、熾火のような赤い地平線に尖った岩山が見えた。その頂は、斧で断ち割ったように二つに分かれている。
二つの頂の両方に街があり、それらに灯が点り始めた。古くはそれぞれ別の名を持つ街だったそうだが、今では合わせて『リッダ』と呼ばれている。
「街に入るかい?」
「到着するのは夜中だろう? 街へは入れまい。明日にしよう」
もう丸一日水を飲んでいない。せめて水だけでも貰いに行きたい。その気持ちを、ぐっと抑える。
既に新王ジャーフィルの使者が来ているはずだ。死んだことになっている旧王シャールを、首長のマドカリブがどう扱うか。姪のシャールには優しい叔父だったが、情よりもリッダの首長としての立場を優先する人だ。旧王の名を騙る不審者として捕えられるか、あるいは即座に殺されることもあり得る。
(人目のある時に堂々と名乗って行けば、叔父も手を出しづらいかもしれない)
本当は怖いだけだ。叔父に相手にされず、ただ殺されてしまうのは、あまりにも惨めだ。怖い。できるだけ先延ばしにしたい。
だが顔には出せない。落ちぶれても、シャールは国王なのだから。
「コーヒーを淹れよう」
「コーヒーだと? どこに水がある?」
「大蛙が見つからなかった時のために、少しだけ隠しておいた」
キリクは機嫌が良い。リッダに到着すれば、もう安心だと思っているのだ。
キリクは火を起こし、銅鍋の底で薄緑の珈琲の生豆を煎った。豆が煎りあがると、短剣の柄頭で細かく砕き、最後の水を入れて煮出す。
上澄みを注いだ素焼きの手杯に口を寄せると、薄っすらと甘い茉莉花のような香りが鼻をくすぐる。
「これは……クシュロア産だろう? こんな高級品をよく持っていたな」
クシュロアは紅海を挟んだ西の大陸の東岸を領する大国だ。低地の多いシェルバではコーヒーは栽培できず、普段使われるのは隣国アズラッド産の豆だった。
「ギルヒバが隠していたものを、少しもらってきた」
「ばれたら大事だ」
「そう言われて思い出した」
キリクは駱駝の荷を少し解き、畳んだ薄紅色のものを差し出した。それはシャールが王宮から出た時に着ていた絹のチャフィーブで、広げると金鎖の首飾りが包まれていた。首飾りは滞在費としてギルヒバに渡したもので、チャフィーブは預けたものだが、どちらも戻ってくるとは思っていなかった。
「ナディヤがギルヒバから預かったそうだ。女王様がその格好ではまずかろう、と」
「そうか……ギルヒバは金に意地汚いなどと、ひどいことを言ってしまったな」
「そりゃ本当だ。金貨は全部取られただろ?」
二人は顔を見合わせて、くすりと笑い合った。




