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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第三章 砂の行路
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5 水袋

 キリクは砂粒に目を打たれないよう用心して、ゆっくりと目を開けた。


 目の前に黒い大岩がそびえ立っている。風の音がゴウゴウと響いているが、岩を巻き込むように流れる風は幾分弱まっていた。


 一時気を失ったようだが、ドニの手綱とシャールの手は離していなかった。


 ドニとバニは羽毛に頭を埋めて丸まったまま、砂を被って動かない。握ったシャールの手を引っ張ると、砂を散らして力なく持ち上がる。全身が砂に埋まっていた。


 キリクは急いでシャールを砂の中から掘り出し、その体を抱き上げ口元に耳を寄せた。


 気を失っているが息はある。彼女を膝の上にうつ伏せに寝かせ、背中を何度か叩くと、口から砂を吐き出した。


「アッシュ!」


 キリクの呼び声に応えるように、少し離れた背後の砂の中からアシュタルテが立ち上がった。風が砂を舞い上げ、彼女のハブルをめくり上げると、赤銅しゃくどう色の髪と白い顔が露わになった。岩に身を寄せうずくまっていた駱駝らくだも、砂まみれの頭をもたげ、こちらを見た。


「水をくれ!」


 アシュタルテが駱駝らくだを立たせると、駱駝らくだはよろめいた。駱駝らくだの片腹が濡れている。


(怪我をしたか?)


 山羊革の水袋を駱駝の体の左右に五個ずつ振り分けていたが、片側の分がほとんどしぼんでいた。体が岩に当たり、袋が裂けたのだ。駱駝らくだの濡れは血ではなく、水袋が破れたためだった。


 水袋とは別に駱駝らくだの首に掛けられていた携帯用の水筒を、アシュタルテはキリクに投げて渡した。水筒は羊の膀胱で造られていた。


 キリクはシャールの体を起こし、その口に水筒から僅かな水を注いだ。


 きゅうっ、と水を吸い込む。その後、咳きこみながら砂混じりの唾を吐いた。


「もっと……母上……」


 腕の中でシャールが子供がねだるような甘い声を出したので、キリクは驚いた。普段の偉そうな物言いとは大違いだ。目は閉じたままなので、寝ぼけているのかもしれない。


 こうして両手で抱えていると、シャールの体は小さくて柔らかい。ハブルもチャフィーブもナディアからの借り物なので、少し大きい。化粧も髪の手入れもしていないので、疲れが顔ににじみ出ており、小じわやくすみが目立つ。


 王宮に忍び込んだ時は、なんて美しい女だろう、と思った。白桃のような頬と優雅に結いあげた黒髪、さらさらとした絹のチャフィーブからは良い匂いがしていた。


 だが、天幕テントに来てからは、化粧を落とし、遊牧民ワラフの女のように数本の三つ編みを後ろで束ねるだけの簡素な髪型になり、服装も地味なものに変わった。それでも彼女は不満を漏らすどころか、むしろその生活を楽しんでいるように見えた。


 強気で好奇心旺盛で、王族とはそういうものか、と思ったが、今こうして腕の中にいる彼女は、ただの年上の女にしか見えなかった。





 キリクがシャールの顔に付いた砂を払ってやっていると、彼女は目を覚ました。

 起き上がり、ハブルの砂を払っているシャールに水袋を渡す。


「少しずつ飲みな」


「嵐は過ぎたのか?」


 その声は威厳のあるものに戻っていた。


「風は弱まったが、まだ視界が悪い。この岩場でやり過ごそう」


 妙な間があった。


「わたしは……何か言ったか? その……目が覚める前に?」


 キリクに目を合わせず、シャールは水を飲みながら、黒い岩を見上げている。


「いや、夢でも見たか?」


「……母が生きていた頃、何度かリッダへ連れて行ってもらった。その時の夢を見たよ」


 キリクも目の前の岩を見上げた。砂丘を横切りつつ見下ろした時の、何倍もの大きさに見える。近付いたせいもあるだろうが、周囲の砂が飛ばされて、埋まっていた部分が露わになったのだろう。


 遠目に見た印象と異なり、黒い岩の表面は割れ目や溝だらけで、所々に灰色の細い縞模様があり、その部分が刃物を埋め込んだように尖っていた。おそらく長い年月をかけて風と砂に削られ、岩の中の硬い鉱石が露出し、自然に研磨されたのだ。山羊革の水袋は頑丈だが、鋭利なものには弱かった。


「そこまでだ」


 キリクはシャールの手から水筒を奪い、栓をした。シャールが不満そうな顔をする。


「水袋が半分破れた」

「水が足りないのか?」

「足りないが、死ぬことはないさ」


 キリクは水筒を駱駝らくだの首に戻しながら、シャールに聞こえないようアシュタルテに小声で話しかけた。


「……押さえる人手がないと、俺には無理だ。すまねえが頼む」


 キリクは鼻歌を口ずさみながらバニだけを立たせ、腹帯や敷布を手早く外して、駱駝らくだの足元へ放った。それからシャールの傍に戻り、


「下がった下がった」


 笑顔でシャールを駱駝らくだの方へ押しやる。入れ違いに、アシュタルテがバニに近付く。


「何だ? わたしが駱駝らくだに乗るのか?」


 シャールが不思議そうな顔をする。キリクの鼻歌が止まり、砂漠の神への祈りの言葉をつぶやいた。


 構えることなく、アシュタルテは長剣シャムシェールを振るった。キリクには剣が鞘に収まる前の残像が見えただけだ。


 アシュタルテが二、三歩下がったところで、バニの首が落ちた。傾いた首の断面から勢いよく血が噴き出し、シャールとキリクの足元まで飛沫しぶきが飛んだ。


「バニ! なぜだ!?」


 怒りを含んだ声でシャールが言った。だがキリクが予想していたよりは落ち着いている。バニを可愛がっていたので、もっと取り乱すかと思っていた。


「全員に飲ませる水はない。駱駝らくだは飲まなくても耐えるし、荷物も運べる。残すなら、若いドニだ」


 キリクはドニの口輪を外してやった。


 バニの遺体にむしゃぶりつくドニとムシュフシュを、シャールと駱駝らくだが無表情に眺めていた。


「ナディヤに顔向けできないな……」


 シャールがつぶやいた。


「なぜ? あんたの竜駝ティンタムだ。売った先のことなど、ナディヤは気にしないさ」


「わたしの?」


駱駝らくだも含めてドニもバニも、あんたが買ったんだ。ついでに、おれの道案内料とアッシュの護衛代も入っている」


「あの金は、そういうことか」


「しまった! おれらの分の肉を先に取っておくのを忘れた。奴らに胸肉を食われちまう!」


 キリクは短剣シャンビヤを手に、バニの腹にくちばしを突っ込んでいるドニの方へ戻る。


「ということは、その肉もわたしのものだろう? 久しぶりの肉だ。キリク、ドニに負けるな!」


 シャールの声がキリクの背に届く。



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