4 砂嵐
「わたしは魔女神ではない。人々が語る魔神や魔女神は人の能力を超えた存在だが、人と同じような感情に従って行動しているようだ。しかし、わたしには感情がない」
「感情がない? 心がなければ悪魔と同じだが、アッシュは悪魔じゃないぞ!」
「キリク、静かに。わたしは大事な話をしている」
アシュタルテとの会話に割り込んだキリクをシャールは窘めたが、実際は夕方までの退屈しのぎだった。
「感情が全くない、ということはあるまい? 王宮にも感情を表に出さない者がいるが、見せないだけでないわけではない」
「感情がないと判断しているのはわたし自身で、わたしが間違っている可能性もある。わたしは一切の記憶を持たず、この星に落ちてきた。今では人の言葉を学習し、こうして会話をすることができるが、『喜び』『悲しみ』『愛情』『憎しみ』など、人の感情に基づく言葉の意味を正確には理解できない。ただ、どのような状況でこれらの言葉が使われるか、その類型を把握しているだけだ」
「なんだか難しいことを言うな……何だ、その類型というのは?」
「想定より利益が大きければ『喜ぶ』。家族が死ねば『悲しむ』。裏切りによって『悲しみ』が生じると、相手を『憎む』」
シャールは笑った。
「あはは……その類型だと、男女の『愛情』など一番分かり易いだろうな?」
「わたしには分かりにくい。子供を作るために相手を選んでいるようだが、どのような基準で選ぶのか分からない。生殖に適した年齢の異性を、適当に選んでいるように見える。経済力を基準にする場合もあるようだ」
「そのように人の感情を理解しようとする、その理由は何なのだ? 好奇心か? それは感情ではないのか?」
「わたしに死の恐怖はないが、危害を加えようとする者には反射的に体が反応する。生物の本能だろうから、わたしは人ではないが生物ではあるのだろう。自分を守るためには、知識がある方が有利だ。だから知識を得ることには関心がある。それが感情と言えるのかは、わたしにもわからない」
「何を言ってるのか、さっぱりわからねえ……」
キリクは興味が無さそうに、またゴロリと横になった。
シャールに問われるままに、アシュタルテは自らの来歴を語った。
「わたしは〈星界〉で何かの罪を犯し、記憶を消されてこの星に堕とされたそうだ。だが、そう言ったのは信用できない奴なので、本当かどうかはわからない。
言葉を覚える前は、自分に危害を加えようとする者は即座に殺していた。状況や相手の事情を考慮することはなかった。死んだ者は動かないので、殺すことが最も効率が良いと判断していた。だが殺した相手の家族など関係者が集団で襲ってくることが増え、かえって危険が増した」
当時のアシュタルテは、まだ武器や戦闘方法を学習しておらず、人よりも優れた身体能力だけで戦っていたため、時には敗北することもあった。彼女が死なずに済んだのは、人々が彼女の殺し方を知らなかったためと、単なる幸運によるものだった。
復讐を避けて土地から土地へ移動しているうちに言葉を覚え、敵意のない人々との交流によって知識が積み重なった。『アシュタルテ』と呼ばれるようになったのはこの頃で、それまでは土地々々で適当な悪名で呼ばれていた。
そして彼女は『契約』の概念を知った。
「わたしを助けてくれた男が教えてくれた。取引によって人と関係を結べば、人の世界でも生きていけると。常に効果的だったとは言えないが、それ以後の方が危険は減ったようだ」
「その人はどこにいる?」
「死んだ。三万五千四百六十日前だ」
シャールが計算できずにいると、アシュタルテが言い直した。
「約九十七年前だ」
キリクが横になったままズルズルと涙と鼻水を流しているのを見て、シャールはギョッとした。アシュタルテも不思議そうな表情で見ている。
「どうした、キリク?」
「わからない……なんだか、アッシュが可哀そうになっちゃって……」
「そうか? わたしには、たいした理由もなく殺されてしまった者たちの方が哀れに思える。怖くて短剣を向けただけの者もいただろうに。いったいこれまで何人殺してきた? 百人か、二百人か?」
「三千八百九十四人だ」
「三千!? まさか覚えているのか!?」
「全員覚えている。この数には生死が不明な者は含まれていない。それを含めた人数は……」
「いや、いい! 聞きたくない!」
シャールは慌ててアシュタルテの言葉を遮った。とんでもない数字が出てきそうで怖くなった。たぶんアシュタルテは嘘をつかない。きっとその数は正確だ。
同じく数字に驚いたのか、キリクの涙も止まっていた。
いつのまにか眠っていたようだ。砂と熱風が顔に当たっていたが、暑さは和らいでいる。
「風が強くなってきたな」
シャールは体を起こし、顔に貼り付いた砂を袖で拭った。
太陽は西に傾いていたが、夕暮れにはまだ間がある。
「砂嵐になるかもしれない」
キリクが不機嫌そうに言った。
「この灌木の茂みでは防げないか」
「何もないよりはマシだが、できれば岩場がいい」
「わたしは遊牧の民ではない。キリク、おまえの判断に従う」
天幕が飛ばされそうになったので、キリクは手早く畳み、駱駝の背に括り付けた。
「岩場を探そう」
ここに来るまでも、所々で尖った黒い岩が砂地から頭を覗かせていた。大きな岩場は望めなくても、風下に身を隠せるような岩なら見つかるかもしれない。
しばらく竜駝に乗って進んだが、次第に顔に当たる砂粒が痛くなってきた。ドゥループを顔に巻いても目を開けられなくなる。
全員砂上に降り、駱駝と竜駝を風除けにしつつ手綱を引いて進む。
ゲルゲル……身を寄せた腹を通して聞こえてくるバニの低い唸りが、なんだか悲し気だ。
吹きあがった砂塵の幕が太陽を遮り、空が薄暗くなった。
「手を……!」
ドゥループ越しに耳を叩く砂と風の音で、キリクの声が遠くに聞こえる。すぐ目の前を歩いているはずなのに、キリクとドニの姿が霞んでいる。
(はぐれたらまずい!)
「岩があるぞ」
背後からアシュタルテの声。彼女の低い声だけは、何故か風と砂の騒音をすり抜けて、くっきりと耳に届く。
「砂丘の下だ」
視界はだいぶ悪くなっていたが、おおまかな砂丘の形はわかる。左手の斜面の下に、こんもりと盛り上がった大きな黒い塊が見えた。
「キリク!」
目の前にいたはずのキリクとドニがいない。
「ここだ!」
真横にいた。足を止めて待ってくれていたのだ。シャールの空いた手をキリクが握った。
(手を握らせるのは二度目だな……)
この非常時に、そんなことを思い浮かべるとは! ばかばかしい!
「早く岩陰へ!」
キリクに手を引かれて、シャールは黒い岩の方へ走った。もう一方の手でバニの手綱も掴んでいるので、彼らに引きずられるように、足元の砂を崩しながら砂丘の斜面を駆け下りる。
砂丘の下の黒い岩が大きくなったように見えた。だが実際は、岩の背後からモクモクと黒いものが吹き上がっていたのだ。黒雲の塊が迫っていた。
見上げるような黒い壁。砂嵐を、こんな間近で見たことはない。
年に何度か、サルームも砂嵐に襲われる。王宮から眺めるそれは、迫り来る風と砂の大波だった。決して侮れるものではなかったが、石造りのサルームを壊すことはなく、命の危険までは感じなかった。
キリクが何か言ったようだが、もう聞こえない。
ドーンッ……!!
首が、手足が、捻じれる。大きな手に全身を鷲掴みにされ、叩きつけられる……。




