2 殺戮
「痛ぇな、少し刺さってたんだぜ」
シャールに揺さぶられて、キリクの胸から小さな短剣がポロリと落ちた。チャフィーブの血の滲みも小さい。よく見ると、キリクの胸が不自然に盛り上がっている。シャールはキリクの胸に触った。そして自分の胸を触る。
「盗んだのか!?」
「不用心だから預かっただけだ、おかげで助かったよ」
少し体を浮かせたキリクが、胸元からシャールの金袋を引っ張り出す。短剣で空いた穴から、金貨が零れ落ちた。
「何が不用心だ、この……!」
シャールは拳を振り上げたが、不思議と怒りは湧かなかった。キリクが死なずに済んだ安堵の方が大きかった。
「まあ、いい……おまえに預けておこう。わたしは、今宵生き残れるかわからぬ」
「心配すんな、あんたを死なせやしない」
「キリク……」
「何言ってんだい! ここじゃあ一番弱いくせに。客人を守るのはアシュタルテの仕事さ」
いつのまにか傍に這い寄っていたギルヒバが、新しい袋に金を詰め替えながら言った。
太い鉄の輪に体を嵌め込まれたようだった。
アシュタルテのハブルの内側に隠れ、その左腕に抱えられ、シャールは天幕を離れた。
狙われているのはシャールだ。彼女が敵を引きつければ、キリクたちには逃げる機会が生じる。敵が彼らを見逃すかはわからないが、ヤザンの落ち着きを信じるしかない。
アシュタルテは怪我をしており、密着した脇腹や腰が濡れていた。ネトネトした血の感触。だがハブルを満たす臭いに汗や血の生臭さはなく、ほのかな金属臭がするだけだ。体温が感じられない冷んやりとした身体は、人の腕の中とは思えなかった。
足取りは確かで、怪我を微塵も感じさせない。痛みを庇う仕草も、呼吸の乱れもない。いや、そもそも息遣いが聞こえない。
静かに進み、立ち止まれば戦う。
ハブルの隙間から覗き見たそれは、戦いというより殺戮だった。
ほとんどの刺客は長剣を振り下ろす間もなく、頭蓋を一突きにされる。同時に攻撃すれば、誰かが犠牲になる間に残りの者が剣を繰り出せるが、それもギリギリかわされて、胸や脇に金色の細剣を刺し込まれる。命を賭けても、ハブルを切るか、肩や腕を僅かに切りつけるか、戦果はその程度だ。
アシュタルテの剣の腕は、武芸に疎いシャールにはわからない。ただシャールを抱えてもなお、動きの速さが刺客たちを凌駕していることはわかる。
切り合いは分が悪いことを悟ったのか、刺客たちは追いついてもすぐに攻撃に移らず、アシュタルテを遠巻きにして走った。その包囲が徐々に狭まってくる。
(一斉に襲われたら、いくらアシュタルテでも……)
「ここまでのようだ。しばらく自分で身を守れ。その間に全員倒す」
アシュタルテは急に立ち止まると、反転して眼前に迫った敵の先頭、長剣を突き入れてきた刺客の、その握り手を切り叩いた。
散らばる指と共に、長剣が落ちる。
「拾え」
(ええっ!?)
急に体が自由になったシャールは、反射的にアシュタルテの言葉に従い、地面の長剣を拾った。重いうえに握りに付着した血が滑る。チャフィーブで血を拭い、一応構えてみるが、使える自信はない。
その間にも一人の刺客が目の前に迫り、シャールを突き刺そうと剣を伸ばす。
かろうじて目は見開いていたが、体は動かない。
(だめだ……ここで終わり……)
死を覚悟した時、構えた剣の上を金色の光が走った。
悲鳴を上げて、眼前の刺客が仰け反る。顔に巻いたドゥループから覗いた片目に、金色の蛇が震えながら潜り込んでいくのが見えた。
硬直した刺客の体が倒れかけた時、今度は反対の眼を突き破り、蛇が外に飛び出してくる。スルスルと地面からシャールの足を這い上り、首にだらりと巻き付く。血と脂に濡れた皮の感触が気持ち悪い。
(わたしを守ってくれている……?)
「ム、ムシュフシュ……ありがとう」
ようやく声が出た。
「餌が欲しいだけだ。次々に食わせないと、最後はおまえを襲うかもしれない」
アシュタルテの手には、いつのまに敵から奪ったのか、シャールが手にしているものと同じ長剣があった。
ギザギザの背びれの生えたムシュフシュの背中を、恐る恐る撫でてみる。
ムシュフシュはピクリと鎌首をもたげた。次の獲物が目の前に迫っていた。
簡単に人が死んでいく。
相手が多いので自らも傷を負うが、それに構うことなくアシュタルテの剣は相手の首や喉を切り、あるいは頭蓋や鳩尾を突き刺す。
刺客たちは発作のように体を歪ませて倒れる。暗さのため、うめきと血の臭いを除けば、その光景は生々しさに欠ける。月光に捧げられた生贄のようだ。
(どうか、シェルバの者ではないように……)
哀れなことに変わりはないが、シャールは死んでいく者たちが、ハーリルが連れてきたハドラムの兵であることを願った。
刺客の攻撃が止んだ。包囲は維持されている。
(短剣で一斉に攻撃されたら……)
天幕での攻撃で使い果たしていることを祈るしかない。
跳ねるような、聞き覚えがある足音が近付いてくる。
音はあっという間に大きくなり、刺客の一部はそちらへ向き直り、剣を構える。
ウゴルゲーッ!
布を裂くような高い声で叫び、二頭の竜駝が飛んだ。
たいして高くない。短い羽根を激しくバタつかせているが、ようやく人の頭を超える程度だ。
「ドニとバニが!」
(あの高さでは剣が届いてしまう!)
先を飛ぶドニが、クイッと顎を引いたかと思うと、
ウグゲーッ!
嘴が槍のように突き出され、口から放たれた大量の唾液が、剣を振り上げた刺客の顔に貼り付いた。
視界を奪われた刺客の顔を、ドニの嘴がドゥループごと啄み、肉を引きちぎる。
シャールの前に着地したドニにはナディヤが乗っており、差し出された手を掴んで、シャールはドニの背に這い上った。上りきるのを待たず、ナディヤはドニを走らせる。
ウグゴゴゴゴルゲーッ!!
ドニは天を仰ぎ、嘴を大きく開いて咆哮を上げた。
その声は鋭く大きくビリビリと響き渡り、竜のような迫力で、刺客たちの動きを束の間止めた。そのあいだに竜駝たちは包囲の隙間を駆け抜ける。
振り返ると、後ろのバニにはキリクとアシュタルテが乗っていた。
「ナディヤ……助かった」
シャールは、背後で手綱を握るナディヤに声を掛けたが、
「気を抜かないで、口輪を外しているのよ! あなたを拾う時どんなに危険だったか」
ナディヤがピシャリと言った。その視線は、ずっとドニの顔に向けられている。確かに口輪に繋がるはずの手綱が、今はドニの胸元から伸びている。口輪を嵌めるまでは、自分たちがドニの嘴の的になるかもしれないのだ。
沈黙のまま、しばらく走る。
「伏せて」
ナディヤに言われるまま、シャールは顔をドニの首の羽毛に押し付けた。
ナディヤは腰を浮かせ、手にした手綱をふわりとドニの頭の前に投げ、反射的にドニが伸ばした嘴を、手綱を交差させた輪で縛った。
嘴を縛った手綱を片手で握ったまま、ナディヤはシャールを押し潰すように身を乗り出し、もう一方の手でドニの首にぶら下がった口輪を掴んだ。少しだけ嘴の縛めを緩めて、口輪を嘴の中へ押し込む。首の後ろの留め具を締め、嘴から手綱を外し後ろに強く引っ張ると、口輪の装着が完了した。
ナディヤが、ほっと息をつくのが聞こえた。騎乗中に口輪を嵌めるなんて、シャールにはとても真似のできない手業だ。
「口輪のない竜駝の強さがわかったでしょう?」
ナディヤがいつもの笑顔を見せた。
「襲撃の時、天幕にいなかったな……?」
「父に言われて出立の支度をしていました。天幕に戻る途中、キリクに会って」
「ヤザンは襲撃を知っていたのか?」
「まさか! でも、そろそろここを離れないと危ない、と言ってました」
事情があるとはいえ、ただの侍女が刺客に襲われるとは思わないだろう。
(ヤザンはわたしの正体を知っているのか?)




