引き寄せの法則は恋を知らない
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
引き寄せの法則は恋を知らない
水野美咲、三十歳。
恋をしていた。
……と言っても、毎朝駅で待ち伏せするとか、相手のSNSを片っ端から遡るとか、そういう切迫したものではない。
相手は、同じ会社の営業企画部にいる二歳年上の篠崎蓮。
仕事ができる。愛想も悪くない。誰に対しても、だいたい同じ温度で接する。
そして、その「誰に対しても」の中に、美咲もきれいに収まっていた。
「水野さん、これ今日中いけそう?」
「いけます」
「助かる」
「篠崎さん」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
だいたい、こんな感じだった。
話しかける理由ならいくらでもある。でも、仕事が終わればそれまで。
美咲は何度か食事に誘おうとした。
そのたびに、
――今日は忙しそう。
――今誘ったら変かな。
――もう少し仲良くなってから。
そうやって理由をつけて、やめた。
要するに、きっかけが欲しかった。
自分から一歩踏み出す代わりになる、何かが。
金曜日の夕方。
駅前広場は、待ち合わせの人で混雑していた。
大きな時計の下では、スマートフォンを見ながら誰かを待つ人がいる。改札から走ってきた恋人に、嬉しそうに手を振る人もいる。
「ごめん、待った?」
「今来たとこ」
そんなやり取りを横目に、美咲は一人で歩いていた。
「いいなあ」
思わず声が出た。
「何が?」
すぐ横から返事がした。
「うわっ」
振り向くと、時計の柱にもたれて一人の青年が立っていた。
銀色がかった髪。透き通るような瞳。季節感の薄い白いシャツ。
雑踏の中にいるのに、その人の周囲だけ空気が少し静かだった。
「……誰ですか?」
「ノア」
「知らない人ですね」
「うん。初対面だからね」
平然と言われ、美咲は一歩離れた。
ノアは気にする様子もなく、待ち合わせをする人々を眺めている。
「人間って、待つの好きだね」
「好きで待ってるわけじゃないと思いますけど」
「でも、待つでしょう?」
「会いたい人が来るなら」
美咲はそう答えてから、少し恥ずかしくなった。
ノアがこちらを見る。
「会いたい人がいるんだ」
「……いますけど」
「会えばいいじゃない」
「それができたら苦労しないんです」
「どうして?」
「どうしてって……」
美咲は思わず笑った。
「会いたいです、って言って会えるくらいなら、世の中の片想い半分くらい消滅しますよ」
ノアはしばらく考えた。
本気で考えている顔だった。
「面倒なんだね。恋愛って」
「その言い方、経験ゼロっぽいですね」
「ゼロだよ」
即答だった。
美咲は吹き出した。
「何なんですか、あなた」
「ノア」
「それは聞きました」
ノアはポケットへ手を入れ、一枚の古いコインを取り出した。
真鍮色のコインで、表面には向かい合う二本の道のような模様が刻まれている。中央には、一本の細い線。
ノアが指先で押す。
カチリ。
コインが、きれいに二つへ分かれた。
「……マジック?」
「違う」
「じゃあ何です?」
ノアは半分ずつを両手に乗せた。
「待ち合わせコイン」
美咲の目が止まった。
「待ち合わせ?」
「二人で半分ずつ持つ。その二人が、今、会って話す必要があるときだけ、少しだけ道が重なる」
「道が?」
「電車を一本逃したり、普段行かない店に入ったり、曲がる道を間違えたり」
「それって……」
美咲の顔が明るくなった。
「運命の人と会えるってこと?」
「違うよ」
即答だった。
「……早いな否定が」
「相手は自分で決める。しかも、会わせるだけ」
ノアは念を押した。
「好きにさせたり、気持ちを変えたりはしない」
「でも会えるんですよね?」
「必要があれば」
「二人きりで?」
「そこまでは知らない」
「何回でも?」
「必要があれば」
美咲はコインを見つめた。
ノアが少し眉をひそめる。
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてます」
たぶん、半分くらい。
美咲は片方を受け取った。
「これ、ください」
「もう一回言うけど――」
「会わせるだけ」
「そう」
「心は操らない」
「そう」
「十分です」
ノアは、どうにも納得していない顔をした。
「人間って、本当に説明を都合よく聞くね」
月曜日。
問題は、もう半分をどうやって篠崎に渡すかだった。
さすがに、
《これ持ってると私と運命的に遭遇するらしいですよ》
とは言えない。
昼休み、美咲は何度もコインをポケットから出しては戻した。
そして結局、
「あ、篠崎さん」
「ん?」
「これ、いります?」
渡した。
雑だった。
篠崎は半分のコインを見る。
「何これ?」
「えっと……縁起物?」
「疑問形なんだ」
「駅前で……もらって」
「なんで半分?」
「ペアだから」
言ってから、ペアという言葉の破壊力に気づいた。
美咲の耳が熱くなる。
篠崎は特に気にした様子もなく、コインを裏返した。
「もう片方は?」
「私が持ってます」
「へえ」
数秒、美咲の心臓だけがうるさかった。
「じゃあ、もらっとく」
篠崎はそれを財布へ入れた。
「こういう変なの、嫌いじゃないし」
「変なの……」
「悪い意味じゃないよ」
それだけだった。
その日は、何も起きなかった。
翌日の仕事帰り、美咲は夕食を買おうとして、いつものスーパーへ向かった。
ところが駅前には、
《本日臨時休業》
の貼り紙。
「うそでしょ」
仕方なく、十分ほど離れた別のスーパーへ行く。
総菜売り場を曲がったところで、
「……水野さん?」
立っていた。
篠崎。
手には、女性向けのハンドクリームが二種類。
美咲は固まった。
「篠崎さん?」
「何してんの、こんなとこで」
「それ私のセリフです」
胸の奥で何かが跳ねた。
――きた。
運命。
きた。
「これ、どっちがいいと思う?」
篠崎がハンドクリームを見せた。
「え?」
「妹の誕生日。頼まれたんだけど、全然分からなくて」
「ああ」
運命ではなく、妹だった。
だが美咲は真剣に選んだ。
匂いを確認し、パッケージを見比べる。
「こっちじゃないですか?」
「なんで?」
「篠崎さんが選びそうじゃないから」
「どういう基準?」
「妹さんなら、お兄ちゃんっぽさより自分好みの方が嬉しいでしょう」
篠崎は笑った。
「なるほど」
会計を終え、二人はそのまま駅まで歩いた。
仕事以外の話をしたのは、たぶん初めてだった。
その三日後、残業帰りのコンビニで、また篠崎に会った。
翌週の日曜日には、大型書店の旅行コーナー。
その次は、乗っていた電車が車両点検で止まり、仕方なく入った喫茶店。
そこにも篠崎がいた。
四回目には、美咲もさすがに笑った。
「偶然にしては、会いすぎじゃないですか?」
篠崎も笑う。
「水野さん、俺のこと尾行してる?」
「逆です。篠崎さんが私を」
「じゃあ警察行く?」
「二人とも捕まりますね」
そこから話は自然に続いた。
好きなパン。嫌いな家事。学生時代に入っていた部活。上司には絶対言えない愚痴。
知れば知るほど、美咲は篠崎を好きになった。
そして会うたびに思った。
――コイン、すごい。
休日の午後、美咲は駅前広場へ向かった。
同じ時計の下に、ノアはいた。
待ち合わせ相手でもないのに、当然のように。
「いた!」
「何?」
「すごい!」
美咲は駆け寄った。
「四回!」
「何が?」
「篠崎さんと!」
ノアは瞬きをする。
「そう」
「そう、じゃなくて。これ、本当に効いてる」
美咲は半分のコインを取り出した。
「話すようになったし、笑ってくれるし。この前なんて一時間くらい喫茶店で――」
「よかったね」
「軽い!」
ノアは首を傾げた。
「僕には関係ないから」
「ありますよ。これのおかげなんだから」
「会ったのはね」
「え?」
「話が弾んだのは、コインと関係ないよ」
美咲が止まる。
ノアは続けた。
「会わせるだけだって言ったでしょう」
「……好きにさせる力とかは」
「ない」
「ちょっとくらい」
「ない」
「雰囲気をよくするとか」
「しない」
「好感度プラス五くらい」
「ゲームじゃないんだから」
美咲はコインを見た。
「じゃあ何で最近、あんなに話してくれるの?」
ノアが少し困った顔をする。
「僕に訊かれても」
「作った人でしょ?」
「コインのことなら分かるよ」
そして、本当に理解できないという顔で言った。
「恋愛は知らない」
美咲はしばらく黙った。
「役に立たないですね」
「僕、恋愛相談を受けるって言った?」
「言ってませんけど」
ノアは時計の下を離れた。
「じゃあ、問題ないね」
「逃げた」
「帰るだけ」
そう言って、人混みの中へ消えた。
次の遭遇は、笑えなかった。
病院だった。
朝から少し腹の調子が悪かった美咲は、取引先へ向かう途中で痛みが強くなり、近くの総合病院へ寄った。
幸い、大したことはなかった。
待合室で会計を待っていると、少し離れた椅子に篠崎がいた。
「……篠崎さん?」
振り向いた顔は、いつもの会社で見るものとは違っていた。
疲れていた。
「あれ。水野さん」
「どうしたんですか?」
篠崎は一瞬、迷ったようだった。
「親父」
診察室の方を見る。
「去年からちょっと病気してて。今日は検査」
「そうだったんだ」
「会社じゃ言ってないけどね」
篠崎は苦笑した。
「変に心配されるのも面倒だし」
美咲は「大丈夫ですよ」と言いかけて、やめた。
何が大丈夫なのか分からない。
だから、
「待つの、長いですか?」
とだけ訊いた。
「あと一時間くらい」
「じゃあ私も、会計終わるまでいます」
「いや、帰っていいよ」
「私も待ち時間ですから」
結局、二人で自動販売機のコーヒーを飲んだ。
ほとんど話さなかった。
それでも帰り際、篠崎が言った。
「水野さん」
「はい」
「今日、いてくれてよかった」
美咲は胸の中で、半分のコインを握った。
温かかった。
それから少しして、今度は美咲の方が沈んだ。
担当していた企画が、大きくひっくり返った。
自分のミスではない。でも、何週間もかけた仕事が消えた。
上司は「また次いこう」と言い、周囲も「しょうがないよ」と慰めた。
それが余計につらかった。
誰とも話したくなかった。
仕事を終えた美咲は、いつもとは違う静かな道を、わざと遠回りして歩いた。
一人になりたかった。
ポケットの中で、コインが少し温かくなった。
美咲は立ち止まる。
「……今日はいいよ」
思わず呟いた。
会いたくない。
誰にも。
それでも角を曲がった先、自動販売機の前に篠崎がいた。
「水野さん?」
美咲は思わず笑った。
「また?」
「それ俺が言いたい」
篠崎は少し近づき、美咲の顔を見る。
「……大丈夫?」
それだけで、張っていたものが少し緩んだ。
二人は近くの公園へ行った。
美咲は初めて、仕事の愚痴を全部話した。
悔しかったこと。
自分の仕事に意味がなかった気がしたこと。
篠崎は余計な慰めをしなかった。
最後に、
「悔しいってことは、それだけちゃんとやってたってことでしょ」
と言った。
美咲は鼻をすすった。
「そういう正論、今ずるいです」
「ごめん」
二人で笑った。
帰宅してから、美咲はふと思った。
あの夜、自分は篠崎に会いたいと思っていなかった。
むしろ、会いたくなかった。
では、なぜコインは二人を会わせたのだろう。
答えが分からないまま、季節が少し進んだ。
そして、篠崎の異動が決まった。
東京。
少なくとも二年。
美咲がそれを知ったのは、本人からではなかった。
同僚同士の会話。
「篠崎さん、来月から東京らしいよ」
胸が沈んだ。
その日、美咲はコインを強く握った。
――会わせて。
仕事が終わると、いつものコンビニへ行った。
いない。
書店にも、一度会った喫茶店にも寄った。それでも篠崎はいなかった。
駅のホームで二本の電車を見送っても、現れない。
美咲は焦った。
「何でよ」
コインは冷たい。
「今まであんなに会わせたくせに」
駅を出て、遠回りをした。裏道にも入り、意味もなく別の店まで覗いた。
それでも会えない。
気づけば、あの駅前時計の下にいた。
ノアがいた。
「壊れた!」
美咲は開口一番そう言った。
ノアがコインを見る。
「壊れてないよ」
「じゃあ何で会えないの?」
「今は、これを使って会う必要がないから」
「ある!」
美咲の声が大きくなり、周囲の人が振り返った。
少し声を落とす。
「異動するんです。もうすぐ東京行っちゃうの」
「そう」
「だから会わなきゃ」
「どうして?」
「どうしてって……」
言葉が詰まった。
ノアは静かに待っている。
「会いたいから」
やっと言った。
ノアは、ごく普通のことのように答えた。
「じゃあ、会えばいいじゃない」
美咲は睨む。
「だから、コインが――」
「コインが会わせないと会えないの?」
その言葉で、止まった。
ノアは美咲の手の中を見る。
「これは、二人が話す必要のあるときに道を重ねるだけ」
「……うん」
「でも今、君はもう分かってるでしょう」
美咲は俯いた。
会いたい。
伝えたい。
それはもう、魔法に教えてもらう必要のないことだった。
美咲は手を開いた。
半分のコイン。
何度もお守りのように握ったもの。
少し迷って、バッグの内ポケットへしまった。簡単には取り出せない、奥へ。
そしてスマートフォンを出し、篠崎の名前を開く。
指が震えた。
短い文章。
《今日、会えない?》
送信。
五秒。
十秒。
返事。
《会えるよ。どこ行けばいい?》
美咲は画面を見つめた。
顔を上げる。
ノアはもういなかった。
時計だけが、いつも通り時を刻んでいた。
美咲が指定したのは、駅前の小さな広場だった。
待ち合わせ場所は、自分で決めた。
篠崎が来る。
少し息を切らしていた。
「ごめん、待った?」
その言葉に、美咲は思わず笑った。
「今来たとこ」
言ってみたかった。
篠崎も笑う。
「それ、本当に言う人いるんだ」
「今、初めて言いました」
二人でベンチへ座った。
美咲は逃げずに話した。
異動を聞いたこと。
寂しいと思ったこと。
もっと話したいと思っていること。
そして、
「篠崎さんのこと、好きです」
言った。
思っていたより、普通の声だった。
世界は止まらなかった。
雷も鳴らない。
コインも光らない。
篠崎は黙った。
美咲の心臓だけが速い。
やがて篠崎が、
「そっか」
と言った。
美咲は顔を覆いたくなった。
「その返事、一番困るんですけど」
「いや、違う」
篠崎が慌てる。
美咲は一度息を吸った。
「来月から東京行くって聞いて……それで、今言わなきゃって思ったんです」
篠崎が少し驚いた顔をする。
「それ、誰から聞いた?」
「内緒です」
「そっか」
篠崎は少し笑った。
「俺から言おうと思ってた」
「異動のこと?」
「うん。それもだけど」
一度、言葉を選ぶ。
「東京行く前に、ちゃんと水野さんと話したかった」
美咲は篠崎を見た。
篠崎は財布を取り出し、中から半分のコインを見せた。
「これ」
「……持ってたんだ」
「もらったから」
「捨てたと思ってました」
「そんなことしないよ」
篠崎は指先でコインを転がした。
「最近さ、たまにこれ、温かくなるんだよね」
美咲が顔を上げる。
「……いつ?」
「水野さんに会う少し前」
胸が鳴った。
篠崎は少し照れくさそうに笑う。
「最初は何だこれって思ってた。でも、そのうち、また会えるのかなって思うようになった」
美咲は息を止めた。
「この前、水野さんが仕事でへこんでた日」
「あの日?」
「会社でずっと元気なかっただろ」
「……見てたんですか」
「見てた」
少し間があった。
「帰ったあとも気になってた」
美咲の胸の奥で、何かがほどけていく。
「あの日さ」
篠崎は言った。
「ちょっと話したいなって思ってたんだよね」
美咲は、ようやく理解した。
あの夜、自分が篠崎を求めていたのではない。
篠崎もまた、自分を気にしていた。
二人とも知らないところで、コインはそれを拾っていた。
「……ずるい」
美咲が呟く。
「何が?」
「今それ言うの」
篠崎が笑った。
そして、半分のコインを掌へ乗せる。
「でも今日、これ」
「うん」
「一回も温かくならなかった」
美咲もバッグの奥から、自分の半分を取り出した。
冷たい。
ただの金属。
篠崎が言った。
「それでも来た」
美咲は頷く。
「私が呼んだから」
「うん」
篠崎は少しだけ美咲に近づいた。
「俺も、会いたかったから」
コインは何も起こさなかった。
光らない。
熱くならない。
二人を近づけもしない。
だから二人は、自分たちで少し距離を縮めた。
しばらくして、篠崎は掌の半分のコインを美咲へ差し出した。
「これ、返す」
「え、いいの?」
「うん」
篠崎は少し考えてから笑った。
「次からは、普通に連絡するし」
美咲も笑った。
「……私もします」
二つの半円が、美咲の掌の上で並んだ。
まだ一枚には戻らなかった。
数日後。
駅前広場のいつもの時計の下に、ノアはいた。
美咲がやって来る。
その掌には、二つの欠片が重ねて置かれていた。
「これ、返します」
ノアが見る。
「いいの?」
「はい」
美咲は少し笑った。
「もう必要ないから」
ノアが二つの欠片を受け取る。
指先で重ねた瞬間、
カチリ。
真鍮色のコインは、何事もなかったように一枚へ戻った。
美咲はそれを見て、ほんの少しだけ名残惜しそうな顔をした。
けれど、手を伸ばすことはなかった。
「じゃあ」
「うん」
「ありがとうございました」
美咲は頭を下げ、駅の方へ歩いていった。
少し進んだところで、スマートフォンが鳴る。
画面を見た美咲が笑った。
誰からなのか、ノアには見えなかった。
けれど美咲は、もう振り返らなかった。
ノアは掌の上で、一枚に戻った真鍮色のコインを指先で回した。
もともとは、言いそびれたことがある者、謝らなければならない者、別れを告げる者、あるいは最後にもう一度だけ話さなければならない者。
そんな二人の道を、ほんの少し重ねるためのものだった。
恋を叶える道具ではない。
「使い方は間違ってたのに」
ノアは呟いた。
コインを掌へ落とす。
カチン。
乾いた音。
「……結果は、間違ってないんだ」
時計の下を、待ち合わせの男女が走っていく。
少し離れたところでは、喧嘩をしていたらしい二人が、ぎこちなく笑っている。
ノアはそれらを見た。
以前なら、ただ観察していた。
人が何を欲し、何を選び、その結果どうなるのか。
それだけを。
けれど今夜は、もう少しだけ長く、人々の背中を眺めていた。
「会いたいなら、会えばいい……か」
自分で言った言葉を、もう一度口の中で転がす。
それがなぜ、少しだけ面白く感じるのか。
ノアには、まだ分からなかった。




