苺としらぬいと、後悔のパフェ
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
午前一時十三分。
幹線道路沿いのファミリーレストランは、眠らない街からこぼれ落ちた人間たちの避難所になっていた。
参考書を広げた大学生。制服の上からカーディガンを羽織った、夜勤明けらしい女性。窓際では、若い男女が小さな声で何かを話している。
店の奥には、幼い男の子と母親がいた。母親はひどく疲れているようで、時折スマートフォンを確認しながら、冷めかけたポテトを子どもの皿へ移している。
その全部を眺めながら、ノアは一人でコーヒーを飲んでいた。
別に誰かを待っているわけではない。
奇妙なアイテムを渡す予定もないし、誰かの欲望を観察するために来たわけですらない。
ただ、何となくここにいた。
窓の外では、トラックのライトが時折流れていく。
ノアがカップを持ち上げた、そのとき。
向かいの椅子が、音もなく引かれた。
「見つけた」
ノアは顔を上げる。
座っていたのは、一人の男だった。
銀色の髪。光を吸い込むような冷たい瞳。身体に沿った漆黒のスーツ。
その顔には舞台俳優を思わせる艶やかな化粧が施され、唇だけが鮮烈な赤に染められている。
名前を知らなくても、普通の人間ではないことだけは分かる。
道化師と呼ぶには美しすぎる。
貴族と呼ぶには禍々しい。
高級ブランドの広告から、悪魔だけが抜け出してきたような男だった。
男の名は――クラウン。
人の欲望が膨らみ、壊れ、取り返しのつかない形へ変わっていく瞬間を愛する存在。
そして今、そのクラウンは、
「へえ。苺としらぬいのパフェあるじゃん」
タッチパネルを触っていた。
ノアは少しだけ眉を寄せる。
「何しに来たの?」
「パフェ食べに」
クラウンは画面から目も上げない。
「ここ、僕の席なんだけど」
「空いてたから」
ノアは向かいの椅子を見る。
そこには当然、クラウンが座っている。
「向かいに僕がいるでしょう」
「細かいなあ」
クラウンは気にせず注文ボタンを押した。
《ご注文ありがとうございます》
機械音声が明るく告げる。
ノアはコーヒーを一口飲んだ。
「それで?」
「何が?」
「僕を探してたんでしょう」
「まあね」
ようやくタッチパネルから顔を上げ、クラウンは肘をついた。しばらくノアを眺めてから、唐突に言う。
「最近、お前、あんまり見ないな」
「僕ならここにいるけど」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
クラウンが笑う。
「前はもっといたじゃん」
「どこに?」
「人間のそば」
ノアは黙った。
クラウンは指を一本立てる。
「道具渡して」
二本。
「ちょっと意味深なこと言って」
三本。
「最後に出てきて、妙に格好つけた台詞を残して消える」
「格好つけてないよ」
「最近はそれすら減った」
クラウンは楽しそうだった。
「世界が勝手に話を進めるようになってさ。お前、出番減らされて寂しくしてるのかと思った」
ノアが数秒、真顔でクラウンを見る。
「……誰に減らされるの?」
「さあ?」
クラウンは肩をすくめた。
「知らない」
「意味が分からない」
「いいんだよ。分からなくて」
ちょうどそのとき、店員がパフェを運んできた。
「苺としらぬいのパフェでございます」
背の高いグラスには、苺と淡い橙色の果肉、生クリーム、バニラアイスが重なり、赤いソースがかかっていた。
クラウンの目が、ほんの少しだけ輝く。
「写真と同じだ」
ノアはグラスを眺めた。
「……しらぬい?」
クラウンの手が止まる。
「知らないの?」
「何、それ」
「柑橘」
「みかん?」
「一緒にしないでよ」
クラウンは呆れたようにスプーンを置いた。
「不知火はね、甘みが強いのにちゃんと酸味が残るんだよ。香りも濃いし、少し柑橘らしい苦みもある」
「……へえ」
「そのまま食べてもいいけど、洋菓子にするともっと面白い。生クリームみたいに脂肪分のあるものと合わせると香りが立つし、バニラアイスにもカスタードにも合う。チョコなら、甘いやつより少し苦い方がいい」
急に饒舌になったクラウンを、ノアは黙って見ていた。
クラウンは不知火の果肉をスプーンですくい上げる。その目は、人が破滅していく瞬間を眺めるときより、いくらか真剣に見えた。
「苺って酸味が先に来るでしょう。不知火は甘さと香りがあとから広がる。だから同じパフェに入れても、お互いに消えないんだよ」
「詳しいね」
「柑橘、好きだから」
ノアが少し意外そうな顔をした。
「君、柑橘好きなの?」
「好きだよ。文旦も八朔も甘夏も好き。金柑もいい。レモンはそのままより菓子にした方が好きかな」
「知らなかった」
クラウンは不知火を口へ入れ、満足そうに目を細める。
「お前、僕のこと何だと思ってるの?」
ノアは少しも迷わなかった。
「人が壊れるところを見るのが好きな存在」
クラウンの眉がわずかに上がる。
「それと柑橘が好きなことは両立するだろ」
「するんだ」
「するよ」
クラウンはもう一口食べた。
「これ、当たりだな」
ノアは呆れたように言う。
「君、本当にそれ食べに来たんじゃない?」
「だから最初からそう言ってるじゃん」
「僕を探してたんでしょう」
「それはついで」
「さっきと話が違うよ」
「細かいなあ」
クラウンは次の一口をすくった。
「で?」
「何」
「最近、いない理由」
ノアは窓の外を見る。
「僕がいなくても、人間は勝手に選ぶから」
クラウンのスプーンが、ほんの一瞬止まった。
「へえ」
「何?」
「いや。前のお前なら、そんなこと言ったかなと思って」
「言ってたと思うけど」
「言ってないよ」
「君が全部覚えてるわけじゃないでしょう」
クラウンは赤い唇を歪めた。
「覚えてるよ」
スプーンの先でアイスクリームを崩しながら、ノアを見る。
「お前のことは、わりと見てるから」
ノアは少し嫌そうな顔をした。
しばらくして、クラウンが生クリームをすくいながら口を開いた。
「そういえば、この前、恋愛相談まで始めたらしいじゃん」
ノアの手が止まる。
「してない」
「したでしょ」
「してない」
クラウンはわざとらしく声色を変えた。
「『会いたいなら会えばいいじゃない』」
ノアがクラウンを見る。
「……どこで聞いたの?」
「さあ?」
「それ、便利な言葉だね」
「お前が言う?」
クラウンは喉の奥で笑った。
「昔のお前ならさ。女がコイン握って駅前ぐるぐるしてても、朝まで観察してたんじゃない?」
「意味がないでしょう」
「何が?」
ノアはカップをソーサーへ戻した。
「会いたいって分かってるのに、会わないで歩き続けるの」
クラウンの笑みが少し深くなる。
「ほら」
「何?」
「進んでほしかったんじゃん」
「違うよ」
「じゃあ、放っておけばよかった」
「聞かれたから答えただけ」
「へえ」
クラウンは、最後まで残しておこうと決めたらしい不知火をグラスの端へ丁寧に避けた。
「便利だなあ、その言い方」
ノアは答えなかった。
少し離れた窓際から、若い男女の声がかすかに聞こえていた。
二十代半ばくらいだろうか。
女は両手でグラスを包み、俯いている。男は腕を組んでいた。
「嫌いになったわけじゃないの。でも……もう、一緒にいるのが苦しい」
男は何も答えない。
「ごめん」
「……何が?」
「こういう言い方しかできなくて」
沈黙が落ちる。
クラウンがそちらを見た。
「お」
ノアは気にしない。
クラウンの瞳だけが、楽しそうに細くなる。
「いいね」
「何が?」
「もうちょっとだ」
ノアがようやく視線を向ける。
「何がもうちょっとなの?」
クラウンはスプーンの先で、パフェグラスを軽く叩いた。
チン。
澄んだ音がした。
ノアの目が細くなる。
「放っておきなよ」
「何もしないって」
「もうしたでしょう」
「ちょっと見ただけ」
「嘘」
クラウンは笑った。
男の前のグラスで、
カチン。
氷が鳴った。
男の指がわずかに動く。
「……嫌いじゃないってさ」
女が顔を上げた。
「え?」
男の口元が歪む。
「便利な言葉だよな」
「どういう意味?」
「俺のことは捨てる。でも自分は悪者になりたくないってことだろ?」
女の顔が固まった。
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ何だよ」
男の声が少し大きくなる。
「俺が悪いって言えばいいじゃん。嫌いになったって言えばいいじゃん」
クラウンは嬉しそうに頬杖をついた。
ノアが静かに訊く。
「君、何をした?」
「ちょっと濃くしただけ」
「何を?」
「怒り」
クラウンは窓際の男を見た。
「元からあったよ。悲しい。寂しい。捨てられたくない。傷つけられた」
スプーンで生クリームを崩す。
「その中に、ひとつだけあった」
赤い口元が吊り上がる。
「――傷つけ返したい」
ノアの目が細くなった。
クラウンは肩をすくめる。
「作ったわけじゃない。少し前へ出してあげただけ」
男はさらに身を乗り出していた。
「お前、昔からそうだよな」
「やめて」
「都合が悪くなると逃げて――」
女が唇を噛む。
「だからお前は誰とも――」
クラウンが身を乗り出した。
「ほら。ここからいいところ」
ノアは何も言わず、自分のコーヒーカップへ人差し指を触れた。
コン。
小さな音。
店の照明が、一度だけわずかに瞬いた。
男のグラスの底で、誰にも見えない黒い靄のようなものが揺れ、消えた。
男の口が止まる。
「……誰とも?」
女が訊く。
男は答えなかった。
怒りは消えていない。顔はまだ強張っているし、悲しみも悔しさも残っている。
ただ、一番痛いところへ刃物を突き立てたいという衝動だけが、ほんの少し遠のいていた。
男は顔を伏せた。
長い沈黙のあと、
「……ごめん」
と言った。
女の目が揺れる。
「何が?」
「今」
男は唇を噛んだ。
「お前が一番傷つくこと、言おうとした」
女は黙っている。
「言えば俺も少し楽になる気がした」
男は自嘲するように笑った。
「最低だな」
女はすぐには否定しなかった。
やがて、小さく口を開く。
「私も」
男が顔を上げる。
「何?」
「ちゃんと別れたいって言うのが怖くて、『嫌いじゃない』って逃げた」
女の目には涙が溜まっていた。
「ごめん」
二人は、元には戻らなかった。
しばらく静かに話し、やがて別々に立ち上がった。
出口で一度だけ振り返る。
何かを言いたそうにして、結局何も言わず、それぞれ違う方向へ歩いていった。
クラウンは不満そうにスプーンを置いた。
「つまんない」
ノアはコーヒーを飲む。
「君が混ぜたら、観察にならないでしょう」
「観察?」
クラウンが笑う。
「今の、助けたんじゃないの?」
「違う」
「何が」
ノアはカップ越しにクラウンを見る。
「君が足した分を戻しただけ」
「でも、あのままだったら言ってたよ」
「それは君が押したから」
「押しただけ。歩いたのは本人」
ノアは答えなかった。
クラウンはしばらくその顔を眺めていたが、やがてゆっくり笑った。
「最近、お前、人間のこと好きになってきたんじゃない?」
ノアが眉を寄せる。
「好き?」
「そう」
「観察対象として面白いとは思うよ」
クラウンの笑みが深くなった。
「それ」
「何が?」
「前のお前、“面白い”なんて言わなかった」
ノアは少し考える。
「そうだった?」
「そうだったよ」
「覚えてない」
「僕は覚えてる」
クラウンは空になりかけたパフェグラスを指先で回した。
「前のお前にとって、人間はただの結果だった」
欲しがる。
選ぶ。
使う。
壊れる。
そこまで。
クラウンはノアを見た。
「でも最近のお前、その後まで見てる」
ノアは何も言わなかった。
そのとき、少し離れた席で大きな音がした。
ガタン。
幼い男の子が、ジュースのグラスを倒していた。
オレンジ色の液体がテーブルいっぱいに広がり、床へ滴る。
「あっ」
母親が立ち上がる。
バッグを押さえ、スマートフォンを避け、紙ナプキンを取ろうとして、手がもつれた。
「もう! いい加減にして!」
声が響いた。
子どもの身体がびくっと震え、店内が一瞬静かになる。
男の子の顔が歪んだ。
「ごめ……」
泣き出す。
母親はそこで、はっとした。
自分が何を言ったのか、今初めて聞いたような顔だった。
「……ごめん」
すぐにしゃがむ。
「ごめんね。そんなに怒ることじゃなかった。ごめん」
子どもの服についたジュースを拭く。
男の子は泣きながら母親へ抱きついた。
母親も、何度も背中を撫でた。
ノアがクラウンを見る。
クラウンはすぐに両手を上げた。
「僕じゃないよ」
「本当に?」
「本当」
少し楽しそうに笑う。
「今のは天然」
ノアは再び母親へ視線を戻した。
「その瞬間には、本当に怒りたかったんでしょう?」
「たぶんね」
「自分で選んで言った。それなのに、すぐ取り消したくなる」
クラウンは、ふっと笑った。
「後悔だよ」
ノアの目が、ほんの少しだけ止まる。
「後悔?」
その言葉を、初めて聞いた名前のように繰り返した。
クラウンが頷く。
「そう」
「選ばなかった方が欲しくなること?」
クラウンは一瞬きょとんとして、それから堪えきれないように笑った。
「全然違う」
ノアの眉が寄る。
「じゃあ何?」
「難しいなあ」
「君が言い出したんでしょう」
クラウンは、最後まで残していた不知火をスプーンですくった。
すぐには食べず、しばらく眺める。
それから口へ運び、ゆっくり味わってから言った。
「選択って、一瞬で終わるだろ」
「うん」
「でも人間は、その選択のあとも、生きるんだよ」
ノアは黙っている。
クラウンは空になったスプーンを指先で弄びながら、さっきの母親を見る。
「言った言葉のあとも」
次に、もう誰も座っていない窓際の席へ目を移す。
「別れたあとも」
そして、ノアへ視線を戻した。
「誰かを傷つけたあとも。ずっとね」
ノアはしばらく考えた。
「だから苦しむ?」
「そういうこともある」
「じゃあ、選ばなければいい」
クラウンは笑った。
「それができないから面白いんだろ」
赤い唇に、いつもの悪戯っぽさが戻る。
「お前、人間の欲望はずいぶん見てきたくせに、後悔は分からないんだな」
ノアは否定しなかった。
「……たぶん」
その答えに、クラウンは妙に嬉しそうな顔をした。
「へえ」
「何?」
クラウンは椅子の背にもたれ、満足そうにノアを眺めた。
「弱点見つけた」
「違うよ」
「いいや」
そう言って、クラウンは立ち上がった。
「そのうち分かるよ」
「何を?」
「後悔」
ノアは顔を上げる。
「いつ?」
クラウンはスーツの裾を整えた。
「自分で何か選んだら」
クラウンが店の出口へ向かおうとする。
ノアはその背中を見た。
「もう帰るの?」
クラウンが振り返る。
「何?」
「いや」
一瞬の間のあと、クラウンの口元がにやりと歪んだ。
「寂しい?」
「違う」
「ほら。やっぱり人間っぽくなってきた」
「帰れば」
「冷たいなあ」
二歩、三歩。
クラウンは再び出口へ向かう。
そして、不意に止まった。
「ノア」
声の温度が変わった。
ノアが顔を上げる。
「何?」
クラウンは振り返らない。
「人間を好きになるのは勝手だけどさ」
ゆっくり顔だけをこちらへ向ける。
赤い唇は笑っている。
でも、目は笑っていなかった。
「好きになったものを失くしたときが」
少し間を置く。
「一番面白いんだよ」
ノアは黙った。
クラウンはその表情を確かめるように続ける。
「そのとき、お前も分かるかもね」
「何が?」
赤い口元が、もっと深く吊り上がった。
「後悔」
自動ドアが開く。
夜の冷たい空気の向こうへ、クラウンの姿が消えた。
ドアが閉じる。
ノアはしばらく何も言わなかった。
やがて視線をテーブルへ落とす。
空になった、苺としらぬいのパフェの巨大なグラス。
自分のコーヒーカップ。
そして、伝票。
ノアが見る。
自分のコーヒー。
クラウンのパフェ。
追加アイス。
数秒、止まった。
「……払わないの?」
返事はない。
もちろん、もういない。
ノアは伝票を持ち上げた。
「こういうところ、本当に嫌いだな」
小さく呟く。
会計へ向かおうとして、床に白い紙ナプキンが落ちていることに気づいた。
さっきの子どもが、クレヨンで絵を描いていたらしい。
大きな人と、小さな人が手をつないでいる。
その上には太陽。隣には家と、何本かの花。
上手とは言えない。
何の力もないし、欲望を叶えもしない。未来を変えることもない。
ただの、子どもの絵だった。
ノアはそれを拾った。
捨てればいい。
何の価値もない。
そう思ったのに、母子が座っていたテーブルの端へ、そっと戻した。
「……後悔」
まだ、よく分からない。
ノアは店を出た。
午前二時を過ぎた街の中で、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが今も何かを選んでいる。
ノアは一度だけ、明かりのついたファミリーレストランを振り返った。
以前より、少しだけ長く。
それから、夜の中へ歩き出した。




