鈴の音は壁の中から
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
鈴の音は壁の中から
最初に電話をかけてきたのは、三〇二号室の老婆だった。
「壁ん中に、猫がおるんです」
管理人の坂口は、受話器を耳に当てたまま時計を見た。午後十一時四十八分。日中ならまだしも、こんな時間に建物の異常を訴えられるのは勘弁してほしかった。
築五十二年。五棟あった市営団地のうち、四棟はすでに無人になっている。最後に残った三号棟も、三か月後には取り壊される予定だった。
住んでいるのは、あと十四世帯。
水道管は鳴る。風が強ければ窓枠も震える。雨の日には、どこからか水滴の落ちる音まで聞こえてくる。
古い建物というのは、夜になると勝手にしゃべるものだ。
「ネズミじゃないですか?」
坂口がそう言うと、老婆は間を置かずに否定した。
「違います。猫です」
「でも、壁の中でしょう?」
「鳴いてますから」
翌朝、坂口は三〇二号室を訪ねた。
問題の壁を拳で叩く。
コン、コン。
乾いた音が返ってくるだけだった。黄ばんだ壁紙にも穴はなく、外側を確認しても、猫が入り込めそうな隙間など見つからない。
「ほら。何もいないでしょう」
「昨夜はいたんです」
老婆は納得しなかった。
坂口は仕方なく尋ねる。
「どんな声でした?」
「猫ですよ」
「ニャーって?」
老婆は少し考えてから、壁へ視線を戻した。
「……最初は」
坂口の手が止まった。
「最初は?」
老婆はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、薄い壁の向こうに誰かがいるような目で、じっと見つめていた。
やがて、小さく言った。
「途中から、しゃべってました」
数日後、今度は四〇五号室の母親から連絡が入った。
「娘が、変なこと言うんです」
六歳になる芽衣は、居間の壁の前に座っていた。
壁に向かって、小さな声で何かを話している。
母親の沙織は、最初は人形遊びでもしているのだと思った。けれど人形はどこにもない。娘は両膝を抱え、古い壁紙に耳を寄せながら、ときどき楽しそうに頷いている。
「芽衣、誰としゃべってるの?」
「猫ちゃん」
「猫?」
芽衣は当たり前のように頷いた。
沙織は部屋を見回した。猫など飼っていない。窓も閉まっている。
「どこにいるの?」
芽衣は一本の指を伸ばした。
「ここ」
指の先にあるのは、壁だった。
「……壁の中?」
「うん」
芽衣はもう一度耳を近づけ、しばらく黙っていた。
そして、
「お腹すいたって」
と言った。
その日の夕食。
芽衣は好きなはずの焼き鮭に、ほとんど箸をつけなかった。
「食べないの?」
「うん」
「鮭、好きでしょ?」
芽衣は皿を見つめたあと、壁へ顔を向けた。
「この子にあげていい?」
沙織は笑って答えようとした。
けれど、なぜか声が出なかった。
鈴の音が聞こえ始めたのは、それからだった。
夜中の二時頃。
三〇三号室の住人が、廊下を誰かが歩いているような気配で目を覚ました。
シャラ……。
小さな鈴だった。
シャラ、シャラ……。
猫でも歩いているのだろうと思った。けれど翌朝、防犯カメラを確認しても、廊下を通った猫など一匹も映っていなかった。
次の夜は五階。
その翌日は一階。
ある日は階段の踊り場。
鈴の音だけが、三号棟の中を少しずつ移動しているようだった。
管理人の坂口も、巡回中に聞いた。
誰もいない二階と三階の間。
シャララ……。
懐中電灯を向ける。
古びた手すり。薄汚れた壁。消火器。
それだけだった。
「……猫か?」
自分で口にして、馬鹿らしくなった。
ところが翌朝、ゴミ置き場が荒らされていた。
すべてではない。
魚の骨が入った袋だけが、爪で引き裂かれたように破れている。
床には泥の跡が残っていた。
小さな肉球。
坂口は眉をひそめながら跡を追った。
ゴミ置き場を出て、廊下へ。そこから階段を上がっていく。
一段。
二段。
三段。
そこで、坂口の足が止まった。
泥の形が変わっていた。
丸い肉球が、少しずつ細長くなっている。
五本の指。
土踏まず。
踵。
最後に残っていたのは、
裸足の人間の足跡だった。
坂口は、その先を追わなかった。
それから三号棟では、説明のつかない小さな異変が続いた。
三〇四号室の男は、巡回中の坂口を呼び止めて笑った。
「最近、耳良くなったんかな。あんた、昨日の夜二時くらいに階段上がったやろ」
坂口は足を止めた。
「昨日は十一時で帰りましたけど」
「そうなん?」
男は不思議そうな顔をした。
「じゃあ誰やろ。靴の底が擦れる音まで聞こえたんやけど」
その部屋を出る時、坂口の腕時計が秒を刻む小さな音に、男がふと顔を向けた。
「ええ時計してるな。ちょっと遅れてるで」
坂口は何も答えなかった。
一〇二号室の女性は、昼間から共用廊下の陽だまりに座り込んでいた。
「そんなところで何してるんです?」
坂口が訊くと、女性は目を細めたまま笑った。
「ここ、あったかいんです」
「部屋で寝た方がいいですよ」
「分かってるんですけどねえ」
そう言いながら、立とうとはしない。
数日後も、同じ場所にいた。
まるで日向を追いかけるように、少しだけ位置を変えて。
坂口自身にも、おかしなことが起きていた。
爪を切った。
二日後、また白い部分が伸びていた。
「こんな早かったか?」
今度は深めに切った。
翌日の夜、指を見ると、やはり伸びている。
坂口は老眼鏡を外し、しばらく自分の指先を見つめたあと、
「栄養ええんかな」
と笑った。
笑っていないと、少し怖かった。
そして沙織は。
スーパーの鮮魚売場で、突然足を止めた。
刺身用のアジ。
銀色の皮。
透明なパックの底に、うっすら溜まった赤い汁。
いつもなら顔をしかめる生臭さが、その日に限って妙に甘く感じた。
喉の奥から唾液が湧く。
空腹でもないのに、腹の奥がきゅう、と縮んだ。
手が勝手に伸びる。
パックを掴みかけたところで、沙織は我に返った。
何をしているんだろう。
自分の指先を見る。
震えている。
疲れている。
きっと、それだけだ。
沙織は何も買わずに鮮魚売場を離れた。
その夜。
午前二時十四分。
沙織は突然、目を覚ました。
何か音がしたわけではない。
むしろ、静かすぎた。
隣を見る。
芽衣がいない。
「……芽衣?」
返事はなかった。
子ども部屋。トイレ。台所。
どこにもいない。
玄関へ向かうと、鍵が開いていた。
ドアが、ほんの少しだけ開いている。
背中に冷たいものが流れた。
「芽衣?」
裸足のまま廊下へ出る。
非常灯の青白い光が、長い廊下をぼんやり照らしていた。
誰もいない。
そう思った。
だが、ずっと先。
四〇一号室の前に、小さな影があった。
「……芽衣?」
娘だった。
四つん這いになっている。
両手と両膝を床につき、壁へ顔を向けている。
「何してるの!」
沙織の声が廊下に響いた。
芽衣がゆっくり振り返った。
顔は普通だった。
眠そうな目。寝癖のついた髪。パジャマ姿の、いつもの娘。
ただ、口元へ人差し指を立てた。
「しーっ」
「こっち来なさい」
「静かにして」
芽衣は笑った。
「いま、出てくるから」
沙織の足が止まる。
「……何が?」
芽衣は答えず、壁へ顔を戻した。
その時。
ザリ。
乾いた音がした。
沙織は息を止めた。
壁の向こう側を、何か硬いものがゆっくり引っ掻いている。
ザリ。
もう一度。
今度はさっきより近い。
石膏ボード一枚の向こうを、見えない爪が這っている。その動きを想像した途端、首筋の産毛が一斉に逆立った。
「芽衣……」
娘は怖がっていなかった。
むしろ、嬉しそうだった。
「来た」
ザリ。
シャラ……。
壁の向こうで、小さな鈴が鳴った。
そして。
声。
「……ユミコ」
女の声だった。
若いのか、老いているのか分からない。
低くも高くもない。
けれど確かに、人の声だった。
沙織は動けなかった。
芽衣が振り返る。
目を輝かせている。
「ほら」
その一言で、身体が動いた。
沙織は走った。
娘の腕を掴む。
「痛い!」
「帰るよ!」
「まだ出てない!」
「いいから!」
芽衣を抱き上げ、部屋へ向かう。
その背後で、壁の中を何かが走った。
タタタタタタタッ。
猫にしては重い。
人間にしては速すぎる。
壁の奥から細かな足音が追いかけてくる。
シャラ。
シャララ。
シャララララ……。
沙織は部屋へ飛び込み、ドアを閉めた。
鍵。
チェーン。
背中を扉へ押しつける。
芽衣が泣いている。
「猫ちゃん来るのに!」
「そんなのいない!」
沙織が叫んだ。
その直後。
ドアの外から、
カリ。
何かが扉を引っ掻いた。
カリ。
もう一度。
沙織は口を押さえた。
芽衣も泣き止んだ。
数秒の沈黙。
そして。
「お腹すいた」
小さな声がした。
朝になるのを、沙織はほとんど眠らずに待った。
空が白み始めるとすぐ、最低限の荷物をバッグへ詰めた。着替え。通帳。保険証。芽衣の学校用品。
何を持ち出せばいいのか、途中から分からなくなった。
とにかく、ここから出る。
それだけしか考えられなかった。
芽衣は昨夜のことをあまり覚えていないようだった。
「今日、学校は?」
「休むの」
「どこ行くん?」
「しばらく、おばちゃんの家」
沙織の姉は、市内から電車で一時間ほどの場所に住んでいる。
芽衣は不満そうな顔をしたが、抵抗はしなかった。
玄関を開けた時、沙織は廊下を見た。
四〇一号室前の壁。
そこに、五本の傷が残っていた。
高さは、大人の腰ほど。
壁紙が裂け、白い下地が覗いている。
沙織は近づかなかった。
管理人室へ電話をかけた。
「坂口さん」
声が震えた。
「私、今日出ます」
「今日?」
「もう無理です」
坂口は何か訊こうとしたが、沙織は先に言った。
「四階の廊下、見てください」
「廊下?」
「壁です」
沙織は芽衣の手を強く握った。
「壁を……見てください」
一時間後。
坂口は四階に立っていた。
問題の壁を見て、言葉を失った。
五本の傷。
表面を外から引っ掻いた傷には見えない。
壁紙の裂け方が妙だった。
内側から何か硬いものを押しつけ、そのまま横へ滑らせたように盛り上がっている。
坂口は指先で触れかけ、やめた。
管理会社へ連絡した。
昼過ぎには業者が来た。
「ここですか?」
若い作業員が壁を叩く。
コン、コン。
空洞のある音。
工具で壁の一部を切り取り、内側へライトを向ける。
狭い空間。
古い配線。
断熱材。
埃。
それだけだった。
猫はいない。
人もいない。
毛一本、落ちていない。
「配管か何かの音ちゃいます?」
作業員が言った。
坂口は、壁に残った五本傷を見た。
「配管って、爪あるんか?」
作業員は笑わなかった。
それを境に、住民たちは次々と三号棟を離れていった。
もともと取り壊しの決まっていた建物だ。「あと三か月くらいなら」と残っていた人々も、夜になると聞こえる音や、説明のつかない出来事に耐えられなくなっていった。
眠れない。
子どもが怖がる。
変な匂いがする。
壁の中から音がする。
理由は人によって違った。
坂口が退去の確認に回るたび、三号棟は静かになっていった。
表札が減る。
郵便受けが空になる。
夜になっても灯りのつかない窓が増えていく。
それなのに。
誰も住んでいないはずの階から、ときどき生活音がした。
何かが廊下を走る音。
壁を擦る音。
そして、
シャラ……。
小さな鈴。
最後まで残ったのは、最初に猫の声を訴えた三〇二号室の老婆だった。
引っ越しの日。
家具のなくなった部屋は、驚くほど広く見えた。
夏の湿った空気が開け放した窓から入り込み、古い畳と壁紙の匂いをゆっくり掻き混ぜている。
老婆は小さな鞄を手に玄関へ向かった。
そして、例の壁の前で足を止めた。
耳を寄せる。
何も聞こえない。
しばらく待った。
それでも何もない。
老婆は少しだけ笑った。
「もう行きますよ」
返事はなかった。
「あなたも、どっか行きなさいね」
そう言って、部屋を出た。
その夜から。
三号棟で鈴の音を聞く者はいなくなった。
「やっぱり、人が住んでたからでしょうね」
管理会社の担当者は、そう結論づけた。
建物が古い。
配管が古い。
風が抜ける。
金属同士が擦れる。
複数の条件が重なれば、鈴のような音が出てもおかしくはない。
猫の足跡は野良猫。
人間の足跡は住民。
壁の傷は経年劣化。
子どもの話は想像力。
住人たちの妙な行動も、環境の変化や疲労で説明できる。
ひとつずつ取り出してしまえば、どれも説明できなくはなかった。
坂口も、それ以上は何も言わなかった。
自分の爪が伸びる速度だけは、最後まで誰にも話さなかった。
三週間後。
解体工事が始まった。
真夏の日差しの下、巨大な重機がコンクリートの壁へアームを食い込ませる。窓枠が歪み、鉄筋が露出し、五十年以上も人の暮らしを抱えてきた建物が、乾いた音を立てながら少しずつ崩れていった。
午後。
作業員の西村は、崩れた壁のそばで足を止めた。
灰色の破片の間で、小さなものが陽の光を反射している。
「ん?」
軍手で拾う。
銀色の鈴だった。
古びている。
表面には細かな傷があり、輪の部分には黒っぽい毛が数本絡みついていた。
「なんやこれ」
近くにいた同僚が覗き込む。
「猫の首輪ちゃう?」
「鈴だけや」
「壁ん中に入ってたん?」
「知らん」
西村は何気なく振った。
シャララ……。
澄んだ音だった。
古い鈴とは思えないほど、きれいな音。
妙に遠くまで響いた。
その瞬間。
「おかえり」
西村が振り返った。
誰もいない。
同僚が怪訝な顔をする。
「どうした?」
「……今、なんか言うた?」
「何を?」
西村は首を振った。
崩れた部屋。
剥き出しの鉄筋。
割れた浴槽。
ちぎれた電線。
畳だったもの。
人が隠れられるような場所はない。
その奥。
瓦礫の上に、一匹の黒猫が座っていた。
西村を見る。
艶のある黒い毛。
大きな瞳。
首には、何もついていない。
「おい」
西村が声をかけた。
猫は逃げなかった。
ただ一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
そして身を翻し、崩れた壁の向こうへ消えていった。
西村は手の中の鈴を見る。
シャラ……。
風は吹いていなかった。
それなのに、銀色の鈴はもう一度だけ鳴った。
その日の工事日報には、
《特に異常なし》
とだけ記された。
【関連エピソード】
第37話『猫鈴』
あわせて読むと少し違って見えるかもしれない物語です。
※同作品の目次からお読みいただけます




