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六人の容疑者と銀の消失点

世界のどこかに、ノアという存在がいる。

人にも、妖精にも見える、不思議な存在。


そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。


それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。


ノアは救い手なのか。

悪魔なのか。


それとも、まったく別の何かなのか。

まだ、誰も知らない。


これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。



六人の容疑者と銀の消失点



「靴下が、片方ないんですけど」


高梨悠斗がそう言った時、最初に笑ったのは柴田だった。


「靴下くらい、どこかに落ちたんじゃないですか」


山間に建つ、古い研修施設。


三十年以上にわたり、新入社員研修や泊まり込みの合宿に使われてきた建物だったが、老朽化のため翌週から閉鎖準備に入ることになっていた。


この日は、残った備品の整理と最終確認のため、六人が施設に集まっていた。


総務部の高梨悠斗、三十二歳。


長年この施設を管理してきた川瀬慎吾、四十八歳。


解体前の現地調査を担当する柴田徹、三十九歳。


保存資料の仕分けに来ている芦田美紀、四十一歳。


施設の記録映像を撮影する外部スタッフ、三浦真帆、二十七歳。


そして人材開発部の大森浩平、三十五歳。


大森は新人時代、この施設で研修を受けたこともあるという。


昼過ぎから降り始めた雨は、夕方になる頃にはかなり強くなっていた。


倉庫から備品を運ぶ途中で足元を濡らした悠斗は、午後五時前、替えの靴下に履き替えた。濡れた方は、一階の乾燥室へ干した。


乾燥室の中央には、天井から四本のワイヤーで吊られた長方形の金属製物干しラックがある。本来は壁のスイッチで上下する電動式だったらしいが、スイッチの横には《故障中》と書かれた古い札が貼られていた。


今ではラックは、人の手が届く高さで止まったまま、普通の物干しとして使われている。


白や青のプラスチック製の洗濯バサミがいくつもぶら下がっていた。


悠斗は左端の二つを使って、濡れた靴下を一枚ずつ挟んだ。


二枚。


確かにあった。



午後五時四十二分。


建物の照明が突然消えた。


「うわっ」


廊下のどこかで声が上がる。


数秒後に非常灯が点き、その直後、通常の照明も戻った。


「瞬停ですね」


川瀬が天井を見上げる。


「この辺、雷が近いとたまにあるんです」


それから十分もしないうちだった。


乾燥室へ戻った悠斗が、首を傾げた。


「……あれ?」


左端にあったはずの靴下が、片方しかない。


「靴下が、片方ないんですけど」


そうして最初の騒ぎが始まった。



「洗濯機の中じゃないんですか?」


芦田が訊いた。


「洗ってないんですよ。濡れたから、ここへ直接干しただけです」


柴田がラックの下を覗き込む。


「落ちてもないですね」


棚の裏。乾燥機の隙間。排水口の周り。


見える範囲は全部探したが、どこにもない。


川瀬は少し困ったように笑った。


「靴下って、不思議と片方だけなくなりますからね」


「だからって、ここで?」


悠斗も笑う。


「家の洗濯機でもないんですよ」


全員が少し笑った。


その時は、それで終わる話だと思っていた。



午後六時前。


六人のスマートフォンに、ほぼ同時に道路情報が届いた。


山を下る唯一の県道で、小規模な土砂崩れ。復旧は早くても翌朝になるという。


柴田が窓の外を見る。


「今日は帰れそうにないですね」


雨はまだ激しく降り続いていた。


幸い、ここは元宿泊研修施設だ。水も非常食もあり、寝具も残っている。


六人は、そのまま施設で一夜を過ごすことになった。



二つ目の消失が発覚したのは、午後六時四十五分だった。


三浦は午後六時二十分頃、外観撮影で雨に濡れた手袋を乾燥室のラックへ掛けていた。


「絶対、二つありました」


三浦の声が少し強くなる。


ラックの左端に残っているのは、右手の手袋だけだった。


「また片方ですね」


悠斗が言う。


今度は、誰もすぐには笑わなかった。


「どこに掛けました?」


芦田が訊く。


三浦が指差す。


「ここです。左側」


悠斗はラックを見た。


自分の靴下も、三浦の手袋も、なくなったのは左側に掛けたものだった。



「……銀色じゃなかったですか」


後ろから声がした。


大森だった。


全員が振り返る。


「何が?」


柴田が訊く。


大森は、自分でも妙なことを言ったと思ったのか、少し困った顔をした。


「洗濯バサミです」


「洗濯バサミ?」


「昔、ここで新人研修を受けた時、先輩から聞いた話があって」


大森はラックを見る。


「銀色の洗濯バサミで靴下を挟むと、なくなるって」


数秒、誰も何も言わなかった。


柴田が眉を寄せる。


「どういう意味です?」


「そのままです。靴下を挟むと、黒い穴みたいなのが開いて……吸い込まれるって」


三浦がゆっくり大森を見る。


「それ、ここの怪談なんですか?」


「いや……そこまでは分かりません」


大森は首を振った。


「研修の夜に先輩から聞いただけです。靴下が片方なくなる理由を大げさにした、くだらない話だと思ってました」


芦田がラックを確認する。


白。青。黄色。


並んでいるのは、どれもプラスチック製の洗濯バサミだった。


「銀色のものはないですね」


「ですよね」


大森自身も、そう言って笑おうとした。


だが、靴下も手袋も片方だけ消えている。


誰も笑えなかった。



その時、柴田が言った。


「もし、その話を知ってる誰かが、悪ふざけしてるんだとしたら?」


空気が変わった。


建物にいるのは六人だけだった。


夕方以降、正面玄関は施錠されている。裏口も川瀬が確認している。


道路は土砂崩れで塞がれていた。


仮に、本当にそんな洗濯バサミがあるとして。


誰かがそれを持ち込んでいるとしたら。


ここにいる六人の誰か。


「俺は持ってませんよ」


悠斗が先に言った。


芦田も頷く。


「私もです」


三浦は大森を見る。


「その話を知ってたの、大森さんだけですよね」


大森の顔が険しくなった。


「だから、聞いただけです」


柴田が腕を組む。


「でも一番怪しいのは確かですよ」


「柴田さんだって、今日ずっと建物の中を調べてたでしょう」


「仕事ですよ」


川瀬が二人の間へ入った。


「やめましょう」


だが、一度生まれた疑いは簡単には消えなかった。


三浦は撮影のため、一人で館内を歩いていた。柴田は解体調査で天井や壁の内部を見ている。川瀬は全室の鍵を持っている。芦田も備品確認で乾燥室へ何度か出入りしていた。


大森は銀色の洗濯バサミの話を知っていた。


そして悠斗自身も、最初に靴下を干したのは自分だった。


考えれば、誰でも怪しく見えた。



「だったら、確認しませんか」


芦田が言った。


「何を?」


「全員の荷物」


一瞬、誰も答えなかった。


芦田は続ける。


「強制じゃありません。でも、このまま一晩中疑い合うよりはいいでしょう」


結局、六人は自分から鞄や上着の中身をテーブルへ出した。


財布。充電器。鍵。化粧ポーチ。予備バッテリー。薬。菓子。工具。


柴田の工具箱から銀色の金属クリップが出てきた時だけ、一瞬、全員の視線が止まった。


柴田が顔をしかめる。


「配線を留める金具です。洗濯バサミじゃない」


確かに、形はまったく違った。


大森の鞄にもない。川瀬の鍵束にもない。


乾燥室も、もう一度全員で調べた。


棚。床。乾燥機の裏。ラック。見上げられる範囲の天井。


それらしいものは、どこにもなかった。



午後八時三十七分。


三度目の瞬間停電が起きた。


一瞬の暗闇のあと非常灯が点き、やがて通常照明が戻る。


川瀬が時計を見る。


「またですね」


悠斗は、その言葉で何かが引っかかった。


「川瀬さん」


「はい?」


「今日、停電した時間って記録残ってます?」


「設備盤に残りますよ」


六人で管理室へ向かった。


川瀬が画面を確認する。


「最初が五時四十二分」


悠斗の靴下が消える少し前だ。


「次は?」


川瀬が操作する。


「六時三十六分」


三浦が顔を上げた。


「私、手袋を掛けたの六時二十分くらいです。なくなってるのに気づいたのが六時四十五分」


誰も喋らない。


「で、今が八時三十七分」


悠斗は乾燥室を思い出す。


現在、ラックの左端には何も掛かっていない。


「……今は、何もなくなってない」


芦田が言った。


悠斗は頷く。


停電したから、必ず何かが消えるわけではない。


だが、最初の二回で消えた物は、どちらもラックの左端にあった。


「試してみませんか」


悠斗が言った。



廃棄予定の古い白いタオルを一枚用意した。


乾燥室の問題のラック。その左端に、普通の白いプラスチック製洗濯バサミでタオルを掛ける。


三浦がカメラを三脚に固定した。入口とラック全体、そして左端までが画面に入る位置だった。


「録画、始めます」


六人全員が部屋を出た。


川瀬が施錠し、さらに悠斗が扉と枠をまたぐように紙テープを貼った。誰かが扉を開けば、必ず破れる。


六人は食堂へ移動した。


誰も席を立たなかった。


外では雨と風が窓を叩き、ときどき雷が響く。


時計の秒針だけが、妙に大きく聞こえた。



午後九時四十三分。


照明が落ちた。


「あ」


誰かが小さく声を上げる。


非常灯が点く。


二秒。


三秒。


そして電気が戻った。


六人は顔を見合わせた。


誰も動かなかった。



五分後、全員で乾燥室へ向かった。


紙テープは切れていない。


川瀬が鍵を開ける。


扉の向こうに、白いタオルはなかった。


ラックには、タオルを留めていた白い洗濯バサミだけが残り、空のまま小さく揺れていた。



食堂へ戻り、映像を再生する。


午後九時四十三分。


照明が消え、画面が暗くなる。


非常灯が点く。


誰も入ってこない。


三浦が再生速度を落とした。


「ここです」


電気が戻った瞬間、ラックがガクッと上へ動いた。


ほんの数センチ。


ワイヤーが張り、すぐに少し位置が戻る。


キィ……。


その時、ラックの左端で小さな光が走った。


「止めて」


芦田が言う。


三浦が映像を停止した。


画面の隅。


何か銀色のものが見える。


「これ……何?」


もう一度、ゆっくり再生する。


ラックが跳ね上がる。


銀色の何かが動く。


その振動で白いタオルの端が大きく横へ揺れた。


銀色の何かが、一瞬だけ口を開く。


揺れた布端が、その間へ入る。


カチン。


金属音。


次の瞬間、空気に髪の毛ほどの細い黒い線が走った。


それが、ゆっくりと裂けていく。


向こう側には何も見えない。


ただの黒。


タオルが引っ張られた。


白い洗濯バサミから布が抜け、全体が黒い裂け目へ吸い込まれていく。


一秒もかからなかった。


裂け目が閉じる。


画面には、空になったラックだけが残った。



誰も喋らなかった。


やがて大森が呟く。


「……同じだ」


「何が?」


悠斗が訊く。


大森は画面を見たまま答えた。


「昔聞いた話と」


黒い穴。


物が消える。


銀色の洗濯バサミ。


三浦が映像を巻き戻す。


「でも、人は入ってません」


芦田が頷く。


「紙テープも切れてない」


柴田は何度も同じ数秒を見ていた。


停電。復電。ラックが動く。銀色の反射。カチン。消失。


やがて柴田が言った。


「犯人探しは、もうやめていいかもしれません」


大森が顔を上げる。


「どういうことです?」


柴田は画面を指した。


「少なくとも、このタオルを消したのは人じゃない」


「じゃあ、このラック?」


三浦が訊く。


柴田は首を振る。


「それも違う」


「どういうこと?」


「まだ分からない。でも……ラックが動いたことには意味がある」


全員が乾燥室の方を見た。



脚立を持ち込んだ。


これまでラックは、下から見える範囲しか確認していない。


柴田が上り、ラック左端の外側へ懐中電灯を向けた。床から見上げただけでは、金属フレームの陰になって見えない場所だ。


「……あった」


悠斗が下から訊く。


「何が?」


柴田は答えず、さらに顔を近づけた。


ラック左端のフレームに、小さな銀色の洗濯バサミが横向きで引っ掛かっていた。


ごく普通の形。


手のひらに収まるほど小さく、百円ショップの商品に紛れていても誰も気に留めないような金属製の洗濯バサミだった。


ただし、その口は斜め下を向き、すぐそばに洗濯物が垂れる位置にある。


さらに上には、昇降用ワイヤーを案内する古い固定金具が残っていた。


大森が息を呑む。


「……それです」


「見たことあるんですか?」


「ない。でも、たぶん……それです」


柴田は触れず、ライトだけを動かした。


ラックと固定金具の位置を何度も見比べる。


「ちょっと待ってください」


やがて表情が変わった。


「……そういうことか」


「分かったんですか?」


悠斗が訊く。


柴田は脚立を降りた。


「図面あります?」


川瀬が頷く。


「管理室に古いのが残ってます」



設備図面と修繕記録を、管理室の机に広げた。


川瀬が一枚の記録を見つける。


十年前。


《乾燥室 電動昇降ラック制御不良》


「これです」


修理はされていなかった。


利用頻度が減っていたため、壁スイッチを使用停止にしただけで、天井のモーターもワイヤーも制御系統も撤去されずに残っている。


柴田は図面と管理盤を見比べながら言った。


「たぶん、復電した瞬間だけ制御がおかしくなって、モーターが一瞬動いてるんだと思います」


「だからラックが数センチ上がる?」


川瀬が訊く。


「映像を見る限りは」


三浦がモニターを確認する。


確かに、ラックはほんの数センチだけ動いている。


柴田は紙に簡単な図を描いた。


「ラックが上へ跳ねる。すると、左端に引っ掛かってる銀の洗濯バサミの持ち手が、上の固定金具に当たる」


指を滑らせる。


「押されて、口が開く」


悠斗は白いタオルの映像を思い出した。


「その時、ラックが急に動くから、横に垂れてる布も揺れる」


「そうです。位置が合えば、開いた口の間に布端が入る」


柴田がペンを止める。


「ラックが元の位置へ戻れば、金具から持ち手が外れる」


カチン。


全員が同じ音を思い出した。


芦田が言う。


「……閉じる」


柴田は頷いた。


「銀の洗濯バサミが、布を挟む」


その瞬間、黒い穴が開く。



悠斗は、しばらく何も言えなかった。


人が仕掛けたわけではない。


誰かが手で使ったわけでもない。


古い機械の偶然の動きが、人間の代わりに銀の洗濯バサミを使っていた。



「つまり」


三浦が言った。


「犯人、誰もいなかったってことですか?」


柴田は少し考えた。


「犯人って呼ぶなら……建物でしょうね」


乾燥室の方を見る。


大森が小さく言った。


「……機械が、洗濯バサミを使ってた」


誰も笑わなかった。



仕組みが分かったからといって、そのまま放置するわけにはいかない。


「電源を完全に切ってから外しましょう」


川瀬が言った。


柴田も頷く。


「布には絶対触れさせない方がいい」


川瀬と芦田が分電盤へ向かった。


柴田は脚立へ上り、悠斗と大森が下からライトを照らす。三浦は少し離れた位置からカメラを向けていた。


「まだ触らないでくださいよ」


悠斗が言う。


「分かってます」


柴田は長いペンチを手に、銀の洗濯バサミの位置だけを確認する。


その時だった。



轟音。


近くで雷が落ちた。


建物全体が震え、照明が消えた。


「柴田さん!」


非常灯が点く。


柴田はまだ脚立の上にいる。


「動くな!」


廊下から川瀬の声が飛んだ。


次の瞬間、電気が戻った。



ウィン――。


古いモーターが、一瞬だけ唸った。


ラックが跳ねるように上がる。


「うわっ」


柴田が体勢を崩した。


作業着の右袖が銀色の洗濯バサミの開いた口へ入り込む。


カチン。


「……え?」


空気が裂けた。



黒い線が、一気に口を開いた。


「柴田さん!」


袖の先が穴へ吸い込まれる。


布が引かれ、その力で柴田の右腕ごと前へ持っていかれた。


「ちょっ……待て!」


柴田が左手でラックを掴む。


悠斗が脚立へ飛びつき、大森も柴田の腰を掴んだ。


「引いて!」


「引いてます!」


だが、穴の方が強い。


作業着の袖が少しずつ消えていく。


黒い裂け目が、柴田の手首まであと数センチというところまで迫った。


「カッター!」


柴田が叫ぶ。


悠斗は柴田の工具ベルトからカッターナイフを抜いた。


「動かないで!」


「早く!」


袖へ刃を入れる。


一度目は滑った。


二度目。


厚い作業着の布が裂ける。


ビリッ。


切れた。



柴田の身体が、一気にこちら側へ弾き飛ばされた。


悠斗、大森、柴田の三人がまとめて床へ倒れる。


切り離された袖だけが黒い穴へ吸い込まれ、消えた。


裂け目も、何事もなかったように閉じる。



静寂。



柴田は荒い呼吸をしながら、自分の右手を見た。


ある。


指も手首も、全部ある。


黒い穴へ身体が入る、ほんの数センチ手前だった。


大森が青ざめた顔で銀色の洗濯バサミを見る。


「……人間も」


その先は、誰も言わなかった。



今度こそ、施設の主電源を切った。


柴田は検電器を使い、対象の設備に通電していないことまで確認した。


その上で、銀色の洗濯バサミを長いペンチで慎重に取り外す。


布には触れさせない。


硬い透明樹脂のケースへ入れ、蓋を閉め、テープを何重にも巻いた。


食堂のテーブル中央に置かれた透明ケースの中で、銀色の洗濯バサミは何事もなかったように横たわっていた。


誰も近づこうとはしなかった。



大森が、ぽつりと言った。


「結局……誰だったんでしょうね」


柴田が顔を上げる。


「何が?」


「犯人」


しばらく、誰も喋らなかった。


悠斗は透明ケースを見る。


「誰でもなかったんじゃないですか」


三浦が訊く。


「じゃあ、何だったんです?」


悠斗はすぐには答えなかった。


正確には、答えられることと答えられないことがあった。


なぜ消失が瞬間停電のあとに起きたのか。


分かった。


なぜ左側に干した物ばかりなくなったのか。


分かった。


人が入っていないのに、どうして洗濯バサミが使われたのか。


それも分かった。


古い電動ラックが、復電の瞬間に一度だけ動いたからだ。


けれど。


小さな銀色の洗濯バサミが、なぜ空間に黒い穴を開けるのか。


その穴の向こう側に何があるのか。


それだけは、何一つ分かっていなかった。



翌朝、雨は止んでいた。


土砂の撤去も進み、午前十時過ぎには片側通行が可能になった。


六人は荷物を車へ積んだ。


乾燥室には、悠斗の片方だけ残った靴下と、三浦の右手の手袋。そして、右袖を失った柴田の作業着が残されている。


消えたものは、一つも戻ってこなかった。



「これ、どうするんです?」


三浦が透明ケースを指差す。


悠斗は少し考えた。


「会社へ持ち帰ります」


「何て報告するんですか?」


「……そこが一番難しいですね」


柴田が苦笑した。


「『洗濯バサミが異次元につながりました』でいいんじゃないですか」


「絶対に通りませんよ」


ようやく、少しだけ笑いが戻った。



車へ乗り込む直前、大森が振り返った。


閉鎖を待つ古い研修施設。雨に濡れた窓。その奥には、もう誰もいない乾燥室がある。


「昔の噂って」


大森が言った。


「誰かが適当に作った話だと思ってました」


悠斗も建物を見る。


「ほとんどは、そうなんでしょうね」


「じゃあ、これは?」


悠斗は手にした透明ケースへ視線を落とした。


中には、小さな銀色の洗濯バサミが一つ。


何の変哲もない形をしている。


蝶番の部分には、柴田の作業着からちぎれた黒い糸が一本だけ絡んでいた。


悠斗は少し考え、ケースを持ち直した。


「これは……適当じゃなかったんでしょうね」



六人を乗せた車が、山道を下っていく。


研修施設は少しずつ遠ざかっていった。


後部座席の透明なケースの中で、銀色の洗濯バサミは口を閉じたまま、静かに横たわっている。


六人の誰かが犯人だった方が、


たぶん、ずっと分かりやすかった。


【関連エピソード】

第26話『靴下紛失の5大要因』

同じように靴下の片方が消えてしまった主婦の物語。

※同作品の目次からお読みいただけます

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