完全犯罪と一枚の葉
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
高瀬真琴が自宅へ帰ったのは、午後十時を少し回った頃だった。
夏の夜だった。駅から住宅街まで歩いただけで、ブラウスの背中には汗が滲んでいる。スーパーの袋を片手に門扉を開けたところで、真琴はふと足を止めた。
土の匂いがした。
雨は降っていない。それなのに庭から、掘り返したばかりの土を思わせる湿った匂いが濃く漂っている。
「……ハル?」
小さく呼んだ。
返事はない。
もともと、言葉で返事をするような存在ではなかった。それでも真琴は、帰宅するといつもその名前を呼んでいた。
庭の奥へ目を凝らす。
植え込みの手前に、何かが倒れていた。
最初は、大きなゴミ袋かと思った。
一歩近づく。
革靴が見えた。
もう一歩。
ズボンを穿いた、人間の脚だった。
「……え?」
手から買い物袋が落ちた。
中で卵が割れ、牛乳パックが土の上へ転がる。けれど真琴には、その音さえ遠く聞こえた。
倒れている男の顔を見た瞬間、喉の奥から短い悲鳴が漏れた。
「黒川……?」
黒川亮介、三十九歳。
三年前に別れた男だった。
翌朝。
黄色い規制線の向こうで、蝉が鳴いていた。
真琴の家は、ごく普通の二階建て住宅だった。小さな庭に鉢植えや低木が並び、塀の向こうから見れば、少し植物の好きな住人が暮らしている家にしか見えない。
捜査一課の相馬圭介は、遺体が倒れていた場所の前で腰を落とした。
四十四歳。背広にはいつも少し皺が寄っていて、髪にも靴にもこれといったこだわりはない。その代わり、一度「おかしい」と感じたものを、なかなか忘れない男だった。
「相馬さん」
背後から木戸アヤが近づいてきた。
二十九歳。相馬より十五歳若い。
手袋をしたまま鑑識員のいる方へ顎を向ける。
「現時点では、頸部を圧迫されたことによる窒息の疑いが強いそうです」
「首を絞められた?」
「たぶん。ただ、ちょっと変なんですよ」
相馬はシートの隙間から遺体の首元を確認した。
首から胸にかけて、赤黒い圧迫痕が何本も走っている。一本の縄で締めた跡ではない。細い筋が途中で二股、三股へ分かれ、また交差していた。
縄というより、根。
相馬の頭に浮かんだのは、そんな形だった。
「これも見てください」
木戸が透明な証拠袋を示した。
中には茶色がかった細い繊維のようなものが入っている。
「圧迫痕と衣服から採れた微細片です。今のところ植物性らしいと」
「植物?」
「はい」
相馬は改めて庭を見回した。
鉢。
葉。
枝。
蔓。
ここには、植物ならいくらでもある。
「高瀬真琴は?」
「署で事情を聞いてます。司法解剖待ちですけど、死亡は昨夜八時半から九時頃の可能性が高いそうです」
「その時間、高瀬は?」
「会社です。入退館記録あり、防犯カメラあり。同僚も複数います。途中で抜けた形跡は今のところありません」
「元交際相手が自宅の庭で死んでるのに、家主にはアリバイがある」
木戸が頷いた。
「しかも、門扉の防犯カメラには黒川さんが一人で入っていくところが映ってます。裏手は隣家との塀、側面も別のカメラで確認中ですけど、少なくとも人が出入りした形跡はまだないです」
相馬は立ち上がった。
湿った土の匂いが、鼻の奥に残った。
黒川と真琴の関係を調べるのに、時間はかからなかった。
三年前まで交際し、そのうち二年ほど同居していた。別れた後も、残された私物や共同で購入した家電をめぐって揉めていたらしい。
数か月前には、黒川が真琴の家を訪れ、玄関先で口論になっている。近所の住人が怒鳴り声を聞いていた。
その数日後、真琴の腕には指の形をした痣が残っていたという。
署内の事情聴取室で、相馬は向かいに座る真琴へ訊いた。
「黒川さんに、死んでほしいと思ったことはありますか」
真琴はしばらく黙っていた。
三十六歳。
一晩ほとんど眠っていないのだろう。化粧は薄く、目の下には疲労が滲んでいる。
「……消えてくれればいい、と思ったことはあります」
隣に座る木戸が視線を上げる。
相馬は表情を変えなかった。
「本人にそう言ったことは?」
「ありません」
「昨夜、黒川さんが家へ来ることは知っていましたか」
「知りません」
「遺体の所持品から、あなたの家の鍵が見つかっています」
真琴の顔色が変わった。
「……鍵?」
「心当たりは」
「返してもらいました。別れた時に」
「合鍵をもう一本作っていた可能性は?」
真琴は唇を噛んだ。
「分かりません。でも……やりそうです」
声に怒りが混じった。
「最後まで、そういう人だったんだ」
相馬は、その一言だけを手帳へ書いた。
事件から二日目。
周辺の防犯カメラ映像が集まり始めた。
午後八時十二分。
黒川が真琴宅の前へ現れる。
一人だった。
周囲を一度見回し、門扉を開けて敷地へ入る。その後、死亡推定時刻と見られる時間帯を過ぎても、人間が出入りする様子はない。
家の側面。
裏手。
隣家側。
使えそうな映像はすべて確認した。
少なくとも、成人が人知れず出入りしたと考えられる痕跡は見つからなかった。
木戸は三台目のモニターの前で、ぬるくなった紙コップのコーヒーをすすった。
「共犯者が最初から家の中にいたとか」
「なら、誰だ」
「それを今から――」
言いかけた木戸の指が止まった。
「……相馬さん」
「何だ」
「これ」
映像を少し戻す。
午後八時三十一分。
庭の一角に、背の高い植物が映っている。
「ここです」
再生。
何も起きない。
「何だよ」
「待ってください」
木戸が数分進め、再び止めた。
午後八時三十七分。
「この鉢……位置、違いません?」
相馬が画面へ顔を寄せる。
確かに。
庭の隅にあった植物が、先ほどより少し左へ寄っている。
「風じゃないのか」
「この時間、ほぼ無風です」
「鉢が傾いたとか」
「倒れてません」
さらに進める。
午後八時四十一分。
植物の影が、ゆっくり膨らんだ。
相馬は最初、映像のノイズだと思った。
細長い何かが、地面から立ち上がる。
小学校低学年くらいの背丈。
頭部らしき部分から、細長い何かが何本も垂れている。
一歩。
ぎこちなく前へ出る。
二歩。
細い腕のようなものが揺れる。
そして三歩目。
それは別の植え込みの陰へ入り、そのまま見えなくなった。
木戸が映像を止めた。
室内の空調音だけが聞こえていた。
「人物検知は?」
相馬が訊く。
「反応してません」
「故障?」
「黒川さんには、ちゃんと反応してます」
木戸が画像を拡大する。
荒い。
人影にも見える。
ただ、腕が妙に細い。
頭から垂れているものも、髪にしては形がおかしかった。
木戸が呟く。
「人は、映ってないですよね」
相馬は画面を見たまま答えた。
「……そうだな」
少し間を置く。
「でも、何かは映ってる」
三日目。
司法解剖と鑑定の結果が揃い始めた。
黒川の死因は、頸部圧迫による窒息死。
首に残された複数の痕は、一般的なロープやコードとは一致しない。
衣服と皮膚表面から採取された微細片は植物由来だった。
さらに、遺体のすぐそばから小さな葉が一枚見つかっていた。
先端の欠けた、濃い緑色の葉。
現場周辺の一般的な園芸植物とは、特徴が一致しない。
木戸は鑑定資料を机へ置いた。
「人間を探してるのに、出てくる証拠が全部植物なんですけど」
「そうだな」
「笑うところです?」
「笑えるうちに笑っとけ」
聞き込みでも、妙な話が出てきた。
近所に住む七十代の女性は言った。
「高瀬さん、よく庭で喋ってたわよ」
「電話ではなく?」
「違う違う。庭にいる子と」
「子?」
「名前、なんだったかしら……ハルちゃん、だったかな」
別の住人も、首を傾げながら話した。
「小さい人なら、見たことある気がします」
「どんな人物でした?」
「人物っていうか……緑色だったような。遠かったから、よく分からないけど」
真琴に子どもはいない。
同居人もいない。
親族の出入りでもない。
その日の午後、相馬と木戸は再び真琴宅を訪れた。
庭には様々な植物が並んでいる。
モンステラ。
ポトス。
オリーブ。
名前の分からない鉢もいくつかあった。
その中に一つ、不自然なほど枝葉の密集した大きめの鉢があった。
相馬は立ち止まる。
「高瀬さん」
「はい」
「ハルって、誰です?」
真琴の目が、一瞬だけ揺れた。
本当に一瞬だった。
だが相馬は見逃さない。
「……植物です」
「植物?」
「名前をつけてるだけです」
庭の奥で、かさりと葉擦れの音がした。
風はほとんどない。
相馬が振り向く。
例の鉢。
密集した葉の一枚だけが、真琴の方へ少し傾いていた。
古い記録が見つかったのは、その日の夕方だった。
真琴の家から数百メートル離れた場所に、数年前まで山田トミという老女が暮らしていた。
死亡後、その平屋では異常な植物繁茂が起きている。
資料に添付された写真を見て、木戸は言葉を失った。
屋根を突き破るほどの枝。
窓を覆う蔓。
壁を飲み込むように広がる緑。
行政の記録には、
《異常繁茂植物撤去》
とだけ残されていた。
「……これ、普通の植物ですか」
木戸が写真から目を離さない。
相馬は別の資料を見る。
大量の枝は伐採され、回収業者によって処分されている。
「高瀬との接点は?」
「当時から近所に住んでます」
相馬は小さく息を吐いた。
「もう一度、話を聞こう」
真琴は、思ったよりあっさり認めた。
「あの家、知っています」
「入ったことは?」
「ありません」
「撤去された植物を持ち帰ったことは?」
その質問だけ、真琴はすぐに答えなかった。
窓の外から、蝉の声が聞こえている。
やがて彼女は、小さく頷いた。
「……一本だけ」
数年前の春。
山田トミの家を覆っていた巨大な植物は、作業員によって切り落とされ、道路脇へ積まれていた。
真琴は仕事帰り、その横を通った。
細い枝が一本、山のように積まれた枝から外れ、歩道へ転がっている。
切断されてから時間が経っているはずなのに、その枝だけは妙に瑞々しかった。
先端には、小さな芽があった。
誰かに踏まれそうだった。
理由は、それだけだった。
真琴は枝を拾い、家へ持ち帰った。
コップの水へ挿した。
翌朝。
切り口から、白い根が何本も伸びていた。
「……早すぎない?」
笑いながら、真琴は鉢へ植え替えた。
成長は異様だった。
一週間で葉が増え、一か月で枝が伸び、やがて真琴が首を傾けると、葉が同じ方向へ傾くようになった。
「……何それ」
真琴が笑う。
葉が、ふるりと震えた。
手を振る。
枝が揺れる。
もう一度。
また、同じ動き。
「真似してるの?」
葉が擦れ、小さな音を立てた。
春に拾ったから。
そんな単純な理由で、真琴はその植物を「ハル」と呼ぶようになった。
夏には、茎が腕のように伸びた。
秋には、太くなった幹が腰のように曲がった。
そして冬。
仕事から帰宅した真琴は、庭の隅に小さな人影が立っているのを見つけた。
葉を髪のように垂らし、枝を腕のように下げ、二本の太い根で地面に立っている。
普通なら、悲鳴を上げるのかもしれない。
真琴はしばらく呆然と見つめていた。
湿った土の匂いがする。
「……ハル?」
呼ぶと。
頭の葉が、嬉しそうに揺れた。
それから、二人で暮らすようになった。
真琴が庭へ水を撒けば、ハルはじっと見ている。
真琴が落ち葉を箒で集めれば、翌日にはハルが細い枝を使って、庭の隅へ葉を寄せている。
テレビの前で真琴が伸びをすると、窓の外で幹を反らす。
洗濯物を取り込めば、次の日にはハンガーへ枝を伸ばそうとして絡まり、真琴に笑われた。
「それはやらなくていいから」
葉が、少ししょんぼりしたように下がる。
帰宅すれば、ハルがいる。
それはいつの間にか、特別なことではなくなっていた。
ある晩。
夕食の支度中、真琴は包丁で指を切った。
「痛っ」
血が滲む。
すぐそばにいたハルが近づき、冷たい葉先で真琴の指へ触れた。
「大丈夫、大丈夫」
真琴は笑いながら、葉を撫でた。
「これくらいじゃ死なないよ」
ハルは、その言葉の意味までは、たぶん理解していなかった。
数週間後。
黒川が家へ来た。
「いつまで避けてるんだよ」
「避けてるんじゃなくて、もう終わったの」
「俺の物、まだあるだろ」
「だから連絡してから来てって言ってるでしょう」
黒川が真琴の腕を掴んだ。
「痛い!」
真琴が強く振り払う。
「触らないで!」
黒川は舌打ちをし、そのまま門扉を乱暴に閉めて帰った。
腕には、赤黒い指の跡が残った。脈打つような痛みを押さえながら庭を見ると、薄暗い植え込みの中で、ハルがじっとこちらを見ていた。
その夜、縁側に座っていた真琴の手首へ、冷たい葉が伸びてきた。
ちょうど、黒川につけられた痣の上へ。
「大丈夫」
真琴はハルの葉を撫でた。
「ハルは、何もしなくていいから」
葉が、一度だけ揺れた。
事件の夜。
真琴が会社にいる頃、黒川は複製していた鍵を使って家へ入った。
自分が置いていった私物を探し、室内の引き出しや段ボールを勝手に開けていく。
目当ての箱を見つけた後、庭で物音がした。
黒川は窓を開けた。
そこに、ハルがいた。
最初は、子どもかと思ったのかもしれない。
「……誰だ?」
ハルは動かない。
黒川が庭へ出る。
「おい」
近づいて、ようやくそれが人間ではないことに気づく。
「何だ、これ」
枝を掴んだ。
固い。植物のはずなのに、その内側で何かがゆっくり脈打っている。
黒川は顔をしかめた。
「気持ち悪っ」
乱暴に枝を払いのける。
ハルが一歩下がった。
「高瀬、こんなもん育ててんのかよ」
黒川は足元の鉢を蹴った。
土が飛び散る。
乾いた音が庭へ響く。
ハルの葉が、細かく震えた。
黒川が、もう一度足を上げる。
その瞬間。
枝が伸びた。
手首へ巻きつく。
「うわっ!」
黒川が振り払う。
別の枝が肩へ。
もう一本が胸へ。
「何だよ、これ! 離せ!」
暴れる。
ハルは押さえる。
さらに暴れる。
もっと強く押さえる。
首へ、一本。
もう一本。
危険なものが動く。
だから押さえる。
まだ動く。
もっと押さえる。
黒川の声が掠れた。
「や……め……」
ハルには、止めるという意味が分からなかった。
守るという行動は覚えた。危険なものを遠ざけることも覚えた。けれど、どこまで力を加えれば人間が壊れるのか、それを誰も教えていなかった。
やがて、黒川の身体が動かなくなった。
庭に静けさが戻る。
枝の隙間から、力の抜けた顔が見えている。
ハルはしばらく黒川を見ていた。
細い根が、ゆっくり皮膚から離れる。
湿った音。
身体が土の上へ落ちた。
ハルはその場に立ち尽くし、やがて植え込みの暗がりへ戻っていった。
事件から三日目の夜。
現場の確認を終え、警察が引き上げたあと。
真琴は一人で庭へ出た。
「ハル」
返事はない。
湿った土の匂いだけが漂っている。
「……ハル?」
植え込みの奥で、葉が揺れた。
小さな緑の人影が、ゆっくり立ち上がる。
枝が一本、途中から折れている。
葉の先には、黒く乾いたものが付いていた。
真琴は息を呑んだ。
警察に見せられた写真。
黒川の首。
傷。
植物片。
すべてが頭の中でつながっていく。
「……あなたなの?」
ハルは動かない。
「黒川を……?」
一歩。
ハルが近づく。
真琴は後ろへ下がらなかった。
冷たい葉が伸びる。
手首へ触れる。
そこは、かつて黒川につけられた痣の場所だった。
真琴の顔が歪んだ。
「……私を守ったの?」
葉が、かすかに揺れた。
真琴は口元を押さえた。
泣き声を堪えようとした。
できなかった。
「だめだよ」
涙が頬を伝う。
「人を殺したら……だめなんだよ」
ハルは何も言わない。ただ、そこに立っている。
真琴はしばらく泣いた。
そして、緑の身体を抱きしめた。
青臭い匂い。
湿った土。
ひんやりした葉が頬へ触れる。
「……でも」
真琴は目を閉じた。
「守ってくれて、ありがとう」
ハルの枝が、真琴の背中へ回った。
優しく、抱きしめるように。
けれど次の瞬間、
ぎゅっ。
真琴の肺から息が漏れた。
「……ハル」
枝の力が止まる。
少しずつ緩む。
真琴は目を開けた。
やっぱり、この子は人間ではない。
翌日。
相馬と木戸は、再び真琴宅を訪れた。
庭の鉢を前に、相馬はしゃがみ込む。
「ハルは、人間ですか」
真琴は即座に答えた。
「違います」
相馬の眉がわずかに動いた。
「事件の夜、ここにいましたか」
「……分かりません」
「昨日は、植物だと言いましたね」
「植物です」
相馬は鉢へ目を落とした。
枝葉が密集している。
その中に、一枚だけ先端の欠けた葉があった。
鑑識から回ってきた写真が頭に浮かぶ。
現場で拾われた、一枚の葉。
相馬は手を伸ばした。
その瞬間。
枝が、ほんの数センチ動いた。
真琴の前へ。
相馬の指が止まる。
木戸も見ていた。
誰も喋らない。
相馬はゆっくり手を下ろした。
「……今日は帰ります」
真琴が顔を上げる。
「調べないんですか」
「調べます」
相馬は答えた。
「だから、今日は帰るんです」
それ以上、鉢には触れなかった。
その夜。
真琴は庭に座っていた。
目の前に、ハルが立っている。
「ハル」
葉が揺れる。
「ここにいたら……たぶん、あなたは捕まる」
ハルが首を傾けるように幹を傾けた。
「行って」
動かない。
「お願い」
まだ動かない。
真琴は笑おうとして、失敗した。
涙が出た。
「私を守ってくれたんでしょう?」
ハルの枝が、ゆっくり伸びてくる。
「だったら」
真琴は緑の身体を抱いた。
「最後にもう一回だけ、守って」
声が震えた。
「自分を」
長い間、二人は動かなかった。
やがて、ハルの葉が真琴の頬へ触れた。
人間の手を真似るように、優しく。
「逃げて」
真琴は囁いた。
翌朝。
庭へ続く窓が開いていた。
白いカーテンが風を受けて揺れている。
真琴が外へ出る。
鉢の中には、土しかなかった。
土の表面に、太い根が引き抜かれた跡が残っている。
「……ハル」
返事はなかった。
真琴は空になった鉢の前へしゃがみ込んだ。
泣かなかった。
しばらくして、
「ちゃんと水のあるところ行きなよ」
とだけ言った。
午後。
相馬と木戸が来た。
空の鉢を見る。
相馬が訊く。
「ハルは?」
「知りません」
それは、半分だけ本当だった。
どこへ行ったのかは、本当に知らない。
ただ、自分が逃げろと言ったことだけは話さなかった。
帰りの車。
木戸が助手席で資料を閉じた。
「相馬さん」
「何だ」
「これ、どうするんです?」
「捜査は続ける」
「被疑者は?」
相馬はフロントガラスの向こうを見る。
住宅街。
街路樹。
生け垣。
公園。
どこにでも、緑がある。
「現時点では被疑者不詳」
「……ですよね」
「第三者が関与した可能性は排除できない。そう書く」
木戸は窓の外へ目をやった。
「人間じゃない第三者でも?」
相馬は答えなかった。
証拠はあった。
頸部に残った圧迫痕。
植物性の組織。
防犯カメラに映った影。
現場に落ちていた、一枚の葉。
完全犯罪とは程遠い。
証拠なら、むしろ残りすぎている。
それなのに、人間の犯人だけがどこにも存在しなかった。
四日後。
木戸が相馬の机へスマートフォンを置いた。
「これ、見てください」
午前四時十七分。
河川敷に設置された防犯カメラ。
画面の端。
何かが歩いている。
子どもほどの背丈。
細い身体。
頭部から、葉のようなものが揺れている。
相馬は立ち上がった。
「場所は?」
「車で十五分です」
「行くぞ」
木戸もすぐに立った。
「はい」
河川敷には、誰もいなかった。
朝露を含んだ草が靴へまとわりつく。川から吹く風はまだ少し冷たく、草と泥の匂いを運んでいた。
「映像だと、この辺です」
木戸が周囲を見回す。
相馬は草をかき分けて進んだ。
足元に、一枚の葉が落ちている。
拾い上げる。
先端が、欠けていた。
「相馬さん」
木戸の声。
少し先の茂みが揺れた。
二人が走る。
草をかき分ける。
緑。
緑。
緑。
どこを見ても、植物しかない。
その奥。
ほんの一瞬だけ、細い影が立っていた。
相馬は足を止めた。
子どもほどの大きさ。
葉を髪のように揺らし、こちらを見ているように見えた。
影が、細い腕を少しだけ上げた。
別れを告げるように。
次の瞬間。
「待て!」
相馬が走る。
茂みへ踏み込む。
枝を払い、さらに奥へ進む。
だが、もういなかった。
どこまでが草で、どこからが木で、どこに“それ”がいるのか。
見分けがつかない。
木戸も追いついてきた。
「……いました?」
相馬は周囲を見回す。
風が吹く。
無数の葉が、いっせいに揺れた。
「確証はない」
相馬は答えた。
少なくとも、刑事としては嘘ではなかった。
手の中には、先端の欠けた一枚の葉。
朝の風が、もう一度河川敷を渡った。
草が揺れる。
木々がざわめく。
その音の中に、ほんの一瞬だけ。
誰かが笑ったような葉擦れが、混じった気がした。
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第29話『愛しの観葉植物』
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