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死んだ妻から「帰りに牛乳」頼まれた

世界のどこかに、ノアという存在がいる。

人にも、妖精にも見える、不思議な存在。


そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。


それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。


ノアは救い手なのか。

悪魔なのか。


それとも、まったく別の何かなのか。

まだ、誰も知らない。


これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。



野本修一、七十二歳。


妻の和子が死んで、三年になる。


最初の一年は、何をしても和子のことを思い出した。


朝、目を覚まして隣を見る。


誰もいない。


味噌汁を作ろうとして、二人分の水を鍋に入れる。


洗濯物を取り込んでから、女物の服が一枚もないことに気づく。


そういう小さな間違いを、何度も繰り返した。


三年も経つと、それも減った。


今では飯も一人分だけ作れる。


洗濯も週に二回。


スーパーへ行けば、必要な量だけ買う。


テレビに向かって独り言を言うことは増えたが、それ以外は、まあ普通だった。


悲しみというものは、消えるわけではないらしい。


ただ、少しずつ生活の邪魔をしなくなる。


修一は、そう思っていた。



その日、修一は押し入れの整理をしていた。


衣替えには少し早かったが、暇だった。


和子が残した服は、三年前に娘と一緒にかなり処分した。


それでも押し入れの奥には、どうしても捨てられなかった物がいくつか残っている。


古いアルバム。


旅行先で買った土産。


いつ使ったのか分からない電気毛布。


そのさらに奥。


段ボール箱の中から、黒い固定電話が出てきた。


「ああ……これか」


留守番電話機能のついた、古い電話だった。


まだ携帯電話が今ほど当たり前ではなかった頃、長い間使っていたものだ。


和子は機械に弱かった。


留守番電話の録音を消す方法も何度説明しても覚えず、結局いつも修一がまとめて消していた。


そう思ったところで、修一は手を止めた。


電話の側面に、小さなランプがある。


試しにコンセントへ差してみる。


少し間を置いて、


ピッ。


機械音が鳴った。


「まだ動くのか、お前」


もちろん、電話回線にはつながっていない。


ただ電気が入っただけだ。


液晶画面に数字が浮かんだ。


《録音 7件》


修一は眉を上げた。


「残ってたのか」


再生ボタンを押した。


少しノイズ。


そして。


『もしもし、私。着いたよ』


修一の指が止まった。


和子だった。


三年以上聞いていない声。


いや。


動画の中なら、何度か聞いている。


それでも、こうして突然すぐそばから話しかけられると、まるで違った。


『部屋、思ってたより広いの。温泉もすごくいいって。あなたも来ればよかったのに』


ピッ。


次の録音。


『まだ帰ってないの? ちゃんとご飯食べてる? 冷凍庫に魚入ってるからね』


修一は少し笑った。


思い出した。


和子が友人二人と、二泊三日の温泉旅行へ行った時のものだ。


旅行先から、毎日のように家へ電話をかけてきた。


せっかく自分だけの旅行に出たというのに、話すのは家のことばかりだった。


次。


『明日の朝、ゴミの日だからね。忘れないでよ』


修一は鼻で笑う。


「旅行に行ってまで、こっちの心配かよ」


次。


少し長い呼び出し音のあと、和子の声が流れた。


『まだ帰ってないの?』


一拍。


『ちゃんとご飯食べてね。それと、冷蔵庫の牛乳もうなかったでしょう』


そして。


『明日、帰りに一本買ってきてね』


ピッ。


修一は思わず笑った。


「もっとましなこと残しておけよ」


愛してる、とか。


ありがとう、とか。


そういう言葉が一つくらいあってもいいものだ。


残っていたのは、


ご飯。


ゴミの日。


そして牛乳。


いかにも和子らしかった。



牛乳については、よく揉めた。


和子には、いつも買う銘柄があった。


スーパーの乳製品売場にある、ごく普通の青いパック。


特別高くもない。


濃厚でもない。


低脂肪でもない。


和子は何十年も、それを買っていた。


ところが修一に頼むと、なぜか違うものを買ってくる。


「牛乳買ってきてって言ったでしょう」


「買ってきただろ」


「これ違うじゃない」


「何が違うんだよ」


「いつものじゃないでしょう」


「こっちの方が高かったぞ」


「だから、なんで高い方を買うのよ」


修一には意味が分からなかった。


同じ牛乳なら、高い方がうまいだろう。


わざわざ自分が買いに行ったのだから、少しくらいいい物を買って帰った方が喜ぶだろう。


そう説明すると、和子は毎回、


「本当に何にも分かってないんだから」


と言った。


結局、その牛乳も飲む。


飲むくせに文句を言う。


それが何十年も続いた。


修一は電話機を見ながら、少し笑った。


「牛乳くらい、何でもいいだろ」


返事はない。


当たり前だった。



その夜。


十一時を少し過ぎた頃だった。


修一は寝室でテレビを見ていた。


ニュース番組が終わり、知らない芸能人が出てくる番組に変わったので、リモコンへ手を伸ばした。


その時。


居間から音がした。


ジリリリリ……。


修一の手が止まる。


もう一度。


ジリリリリ……。


電話。


黒い固定電話が鳴っている。


修一はしばらく動かなかった。


回線にはつないでいない。


そもそも、この家の固定電話契約自体、とっくに解約している。


三度目。


ジリリリリ……。


「……何だよ」


修一は立ち上がった。


居間へ行く。


電話は、昼間置いたままテーブルの端にある。


もう鳴っていない。


修一は受話器を見つめた。


馬鹿馬鹿しい。


古い機械だ。


どこか故障しているのだろう。


そう思った時。


ジリリリリ……。


目の前で鳴った。


修一は、ゆっくり受話器を取った。


「……もしもし」


ノイズ。


ザーッという小さな音。


誰も話さない。


「もしもし?」


しばらくして。


声がした。


『まだ起きてたの?』


修一の手から、受話器が落ちそうになった。


喉が鳴る。


「……和子?」


少し間があった。


『何よ』


修一は何も言えなかった。



最初の夜。


会話は五分も続かなかった。


修一が「和子なのか」と何度聞いても、向こうは面倒そうに、


『そうだけど』


と答えるだけだった。


夢かと思った。


電話を切ったあと、自分の頬を叩いた。


痛かった。


翌朝。


黒い電話は、何事もなかったように置かれていた。


修一は電話線を確認した。


やはり、どこにもつながっていない。


その日の夜。


十一時二分。


電話が鳴った。


修一は今度は、一回目で取った。


「もしもし」


『早いね』


「待ってたからな」


自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。


向こうで和子が笑った。


その笑い方まで、記憶の中と同じだった。



修一は確かめることにした。


「新婚旅行、どこ行った?」


『北海道』


「三日目、俺、何て言った?」


少し間がある。


『帰りたい』


修一は吹き出した。


「言ったなあ」


『せっかく来たのに、もう家の布団で寝たいって言い出して』


「ホテルの枕が合わなかったんだよ」


『結婚して三日で、この人とは旅行しちゃいけないって分かった』


「ひどいな」


『本当のことでしょう』


別の日。


「結婚記念日、一回忘れたよな」


『一回?』


「……二回?」


『四回』


「そんなに忘れたか?」


『あなたの中では、忘れたことも忘れてるのね』


全部。


修一が知っている和子だった。


喧嘩した翌朝、何も言わず味噌汁を作ったこと。


娘が初めて家を出た夜、和子が台所で一人泣いていたこと。


修一が定年退職した日に、二人で寿司を食べたこと。


思い出せば、いくらでも話が出てきた。


ただ。


どれも修一自身が知っている話だった。


電話の向こうの和子は、修一が知らないことを一つも話さなかった。


そのことに気づいたのは、


ずっと後だった。



電話は毎晩鳴った。


最初のうち、修一は特別な話をしようとした。


病気のこと。


最後の入院のこと。


死んだ日のこと。


「あの時、苦しかったのか?」


『どうして今さらそんなこと聞くの』


「気になるからだよ」


『もう終わったことでしょう』


「死んだら、どこ行くんだ?」


『知らない』


「知らないって、お前死んでるんだろ」


『知らないものは知らないわよ』


「本当に和子なのか?」


『またそれ?』


肝心なことには答えない。


そのうち修一も、聞かなくなった。


代わりに。


「今日、鯖が安かったぞ」


『また塩鯖?』


「楽だからな」


『野菜も食べなさいよ』


「食べてる」


『トマト二切れは、野菜を食べたことにならないからね』


「何で知ってるんだよ」


『あなたのことだから』


別の日。


「佐々木さん、腰悪くしたらしい」


『前から悪かったでしょう』


「今度、手術だって」


『奥さん大変ね』


また別の日。


「最近のテレビ、知らない人ばっかりだ」


『それはあなたが歳を取ったからよ』


「お前もだろ」


『私は歳取らないもの』


そこで二人とも黙った。


一瞬だけ。


修一の胸に、冷たいものが入った。


けれど和子はすぐ、


『七十二にもなって夜更かししてる方が問題よ』


と言った。


「うるさいな」


死んだ妻との会話。


奇跡と言えば、奇跡だった。


なのに話しているのは、


鯖。


トマト。


近所の腰痛。


テレビ。


そんなことばかりだった。


修一は、それが嫌ではなかった。


むしろ。


それがよかった。



「なあ」


ある夜。


修一は訊いた。


「お前、俺のこと好きだった?」


電話の向こうが静かになった。


修一は受話器を持ち直す。


『七十二にもなって何言ってるの』


「別にいいだろ」


『気持ち悪い』


「そこまで言うか」


『そんなこと聞く人じゃなかったでしょう』


「今は聞けるからな」


『聞けるからって、何でも聞けばいいわけじゃないのよ』


修一は笑った。


和子も、小さく笑った。


それで、その話は終わった。



ある午後。


修一はスーパーへ出かけようとしていた。


電話は昼間には鳴らない。


そう思っていた。


玄関で靴を履いた時。


ジリリリリ……。


修一は振り返った。


「昼間も鳴るのか」


電話を取る。


「もしもし」


『出かけるの?』


「ああ。スーパー」


一拍。


『牛乳なくなってるから、帰りに一本買ってきて』


修一の身体が止まった。


あの声。


あの言い方。


押し入れから電話を出した日に聞いた、


旅行中の和子の留守電。


『明日、帰りに一本買ってきてね』


ほとんど同じだった。


「……牛乳?」


『うん』


修一は電話機を見つめた。


「分かった」


電話が切れた。



スーパーの乳製品売場。


修一は牛乳の前に立っていた。


青いパック。


和子がいつも買っていたもの。


三年前まで、


冷蔵庫には必ずこれが入っていた。


修一は手を伸ばした。


途中で止めた。


隣を見る。


少し高い牛乳。


北海道産。


濃厚。


値段は百円ほど高い。


昔なら、迷わずこちらを買った。


「こっちの方がいいだろ」


そう言って。


和子に怒られた。


修一はしばらく二本を見比べた。


そして。


高い方を取った。


自分でも、


なぜそうしたのか分かっていた。


試してみたかった。



夜。


電話が鳴った。


「もしもし」


『はいはい』


「買ってきたぞ」


『何を?』


「牛乳」


少し沈黙。


修一はテーブルの上のパックを見る。


「頼んだだろ」


『ああ。ありがとう』


それだけだった。


修一の指が、受話器のコードを強く握った。


「……それだけか?」


『何が?』


「いや」


『どうしたの?』


「何でもない」


修一は電話を切った。


部屋が急に広く感じた。


目の前には、


和子がいつも買っていたものとは違う牛乳。


本物の和子なら。


絶対に言う。


なんでそれなの。


いつもの買ってきてって言ってるでしょう。


高ければいいってものじゃないのよ。


あの声が、


返ってくると思っていた。


でも。


返ってこなかった。


修一は黒い電話を見る。


その夜は、


もう鳴らなかった。



翌晩。


十一時。


修一は電話の前に座っていた。


鳴らない。


十一時半。


鳴らない。


十二時。


鳴らない。


「……何だよ」


次の日も。


電話は鳴らなかった。


修一は、初めて自分から受話器を取った。


当然。


無音。


「和子?」


返事はない。


「いるのか?」


何も聞こえない。


受話器を置く。


修一は腹が立った。


偽物だったのなら、


それでいい。


得体の知れない何かだったのなら、


なおさらいい。


これで終わりだ。


そう思った。


ところが。


夜になると、また電話の前へ座った。


三日目。


修一はようやく認めた。


本物かどうかなんて、


もう、どうでもよかった。


和子の声が聞きたかった。


それだけだった。



その夜。


十一時四十分。


ジリリリリ……。


修一はすぐには取らなかった。


二度。


三度。


四度。


ようやく受話器を上げる。


「……もしもし」


『遅い』


和子だった。


修一は目を閉じた。


「お前さ」


『何?』


「本当に和子か?」


少し沈黙。


『修一はどう思うの?』


「それを聞いてるんだよ」


『私は答えたくない』


「何だよそれ」


『あなた、昔から答えを出してから人に聞くでしょう』


修一は言葉に詰まった。


それも。


和子がよく言っていたことだった。


「……あの世ってあるのか?」


『知らない』


「死ぬ時、怖かったか?」


『覚えてない』


「お前しか知らないようなこと、言ってみろよ」


電話の向こうで、


和子は小さく息を吐いた。


『そんなこと言いたくて電話してるの?』


修一は黙った。


確かに。


違った。


三年間。


ずっと聞きたかったことがあった。


怖くて。


聞けなかったこと。


修一は受話器を両手で持った。


「なあ、和子」


『何?』


「俺と結婚して」


声が少し震えた。


「……幸せだったか?」


長い沈黙。


外を車が一台通った。


遠くで犬が吠えた。


電話の向こうからは、


何も聞こえない。


修一は笑った。


「そんな難しい質問か」


やがて。


和子の声。


『私はあなたじゃないんだから』


「何だよ、それ」


『幸せだったかどうかなんて、あなたが決めることじゃないでしょう』


「俺が決めようとしてるんじゃない。聞いてるんだよ」


『嫌だったら、四十年も一緒にいないでしょう』


修一は黙った。


胸の奥が、


ゆっくり熱くなった。


「……じゃあ、幸せだったんだな」


『さあね』


「おい」


和子が笑った。


修一も笑った。


目から何かが落ちた。


手の甲で拭う。


「もっと旅行に連れていけばよかったな」


『あなた、旅行に行くと三日目には帰りたいって言うでしょう』


「もう言わないよ」


『今さら遅い』


「もっと家のこともやればよかった」


『それも今さら』


「もっと優しくすればよかった」


『急に優しくされたら気持ち悪いわ』


修一は声を上げて笑った。


泣きながら。


しばらく。


二人とも何も言わなかった。


それから。


和子が、


本当にどうでもいいことのように言った。


『それより』


「ん?」


『また高い牛乳買ってきたでしょう』


修一の笑顔が止まった。


テーブルを見る。


あの日買った牛乳は、


まだ半分ほど冷蔵庫に残っている。


電話で。


銘柄の話はしていない。


値段も。


何も。


修一はゆっくり受話器を握り直した。


「……分かるのか?」


和子は少し笑った。


『あなたって、本当に変わらないね』


修一は返事ができなかった。


『全然分かってないんだから』


懐かしい言い方だった。


何十回も聞いた。


うんざりするほど聞いた。


もう二度と聞けないと思っていた。


修一は目を閉じた。


本当に和子なのか。


自分の記憶から作られた何かなのか。


それとも。


もっと別の何かなのか。


そんなことは、


やっぱり分からなかった。


「和子」


『何?』


「……もう、いいや」


『何が?』


「いや」


修一は笑った。


「ありがとう」


少しだけ、


ノイズが走った。


和子は何も言わなかった。


そして。


電話は切れた。



翌朝。


修一は黒い電話のコードを丁寧にまとめた。


捨てようとは思わなかった。


かといって、


テーブルに置いておく気にもならなかった。


押し入れの奥。


最初に見つけた段ボールへ戻す。


蓋は閉めなかった。


それだけだった。



昼過ぎ。


修一はスーパーへ出かけた。


牛乳売場。


いつもの場所。


青いパック。


和子が何十年も買い続けた牛乳。


修一は一本取った。


籠へ入れる。


そのまま歩きかけた。


三歩。


戻った。


隣に並ぶ、


少し高い牛乳。


それも一本取る。


「……どっちでもいいか」


誰に言うでもなく呟いた。


レジへ向かう。



家に帰る。


冷蔵庫を開ける。


青い牛乳。


高い牛乳。


二本並べて入れた。


「これで文句ないだろ」


静かな台所。


もちろん、


返事はない。


修一は冷蔵庫を閉めようとした。


その時。


押し入れの奥から。


ジリッ。


ほんの一度だけ。


電話のベルが鳴った。


修一の手が止まる。


振り返る。


押し入れは閉じたまま。


もう鳴らない。


数秒。


修一はそのまま見ていた。


やがて。


小さく笑った。


「……はいはい」


冷蔵庫を閉める。



窓の外。


午後の日差しの中を、一人の青年が歩いていた。


ノアだった。


修一の家の前で、


ふと足を止める。


二階の窓を見上げた。


ほんのわずかに、眉を寄せる。


「……電話?」


しばらく耳を澄ますように立っていた。


けれど。


もう何も鳴らない。


ノアは小さく首を傾げる。


それ以上、確かめようとはしなかった。


ただ、


いつもより少しだけゆっくりと、


その場を歩き去った。


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