本音は半額対象外?!
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
「卵、今日どこが安い?」
山下久美子、六十四歳。
その日の彼女にとって、世界で最も重要な問題はそれだった。
「駅前のマルヨシ。百十八円」
村井美代子、六十六歳が、スマートフォンも見ずに即答する。
「高い」
「百十八円で高い言う?」
「先週九十八円やったやん」
「先週は先週やろ」
二人の横で、藤原悦子、六十二歳がスマートフォンを操作していた。
三人の中では、いちばん上品に見える。
淡い色のストールを巻き、髪もきちんと整えている。
だが、ポイント還元の話になると別だった。
「待って」
悦子の指が止まる。
二人が同時に振り向いた。
「何?」
「ドラッグストア。今日、卵買ったらポイント五倍」
久美子の目つきが変わった。
「実質いくら?」
「今計算してる」
「はよして」
大阪の、とある商店街。
三人は近所に住む昔からの知り合いだった。
毎日会うわけではない。わざわざ約束して集まるわけでもない。
それでもスーパー、病院、商店街、喫茶店。
気づけば週の半分くらいは一緒にいる。
三人とも、別に生活に困っているわけではなかった。
それでも。
同じ卵なら、九十八円で買いたい。
それはもはや節約ではなく、ひとつの思想だった。
その日、商店街では小さなフリーマーケットが開かれていた。
古着に食器、古本、使わなくなった家電。
手作りのポーチに、誰が買うのか分からない木彫りの置物。
久美子は、こういう場所を素通りできない。
「ちょっと見るで」
「またいらんもん買うやろ」
「買わへんって」
五分後。
久美子の手には、黒いワイヤレスイヤホンがあった。
美代子が呆れた顔をする。
「買うてるやん」
「百円やで」
「値段の問題ちゃう」
透明な袋の中に、黒いイヤホンが二つ入っていた。
メーカー名は見当たらない。充電ケースもない。
小さな赤いランプだけが、眠っているように消えている。
値札には、油性ペンでこう書かれていた。
《イヤホン 動作不明 100円》
悦子が眉をひそめる。
「中古のイヤホンって嫌やわ。知らん人の耳に入ってたやつやで」
「拭いたら一緒や」
「何と一緒なん」
久美子は気にせず百円玉を差し出した。
最初に異変が起きたのは、その日の夕方だった。
家に帰った久美子は、イヤホンを念入りに消毒した。
試しに耳へ入れてスマートフォンを操作してみたが、Bluetoothにも表示されない。
音楽も流れない。
「やっぱ壊れてるやん」
そう思った。
百円なのだから捨ててもいいはずなのに、百円だからこそ捨てるのが惜しい。
結局、久美子はイヤホンを耳に入れたまま、いつものスーパーへ向かった。
鮮魚売場では、威勢のいい男性店員が声を張り上げている。
「本日のお買い得! 天然ぶりのお刺身、今が旬ですよー!」
久美子は足を止めた。
脂ののったぶりが、きれいに並んでいる。
「これええやん」
そう呟きながらパックへ手を伸ばした、その時だった。
耳の奥に、男の声が滑り込んできた。
《これ、六時なったら半額にするけどな》
久美子の手が止まる。
「……え?」
目の前の店員は、相変わらず笑顔だった。
「奥さん、今日のぶりほんまにええですよ!」
口から聞こえるのは、明るい接客の声。
けれど、その声に重なるように、イヤホンの奥へ別の言葉が入り込んでくる。
《今日ちょっと仕入れすぎたなあ。このままやったら絶対残るわ》
久美子は、ぶりをそっと棚へ戻した。
一緒にいた美代子が怪訝な顔をする。
「買わへんの?」
「美代子」
「何?」
「刺身、戻し」
「もう戻してるやん」
「夕方もう一回来るで」
「なんで?」
久美子は店員の顔をちらりと見た。
「半額なる」
「なんで分かんの」
「知らん」
「知らんの!?」
六時十二分。
三人は再びスーパーへ戻った。
鮮魚売場。
天然ぶりのパックには、鮮やかな黄色のシールが貼られていた。
《半額》
三人は無言でそれを見つめた。
数秒後。
悦子が手を出した。
「……それ貸して」
翌朝。
今度は八百屋だった。
店先には真っ赤なトマトが山積みにされている。
「奥さん、今日のトマトええよ! 甘いで!」
店主が元気よく声をかける。
その日は久美子がイヤホンをつけていた。
すると、店主の笑顔を見た瞬間、耳の奥へ別の声が入ってきた。
《まあ悪くはないけど、明日入るやつの方が絶対うまいねんな》
久美子はトマトを一つ持ち上げ、しばらく眺めた。
そして棚へ戻す。
「明日来るわ」
店主が目を丸くした。
「なんでや! 今日ええ言うてるやん!」
「今日はトマトの気分ちゃうねん」
「今持ってたやん!」
久美子は何事もなかったように歩き出した。
次はドラッグストア。
悦子がイヤホンをつけていた。
洗剤売場の前で、詰め替え用を三つ、買い物かごへ入れる。
そこへ店長が通りかかった。
「今日はまとめ買いがお得ですよ」
柔らかな営業スマイル。
その直後、イヤホンの奥に店長の心の声が響いた。
《来週ポイント十倍やけど、まだ告知前やしな》
悦子の動きが止まった。
「戻して」
久美子が振り向く。
「何を?」
「全部」
「なんで?」
悦子は、かごの中の洗剤を次々と棚へ戻し始めた。
「来週」
美代子が首を傾げる。
「何が?」
悦子は真顔だった。
「全部来週」
店長だけが、意味が分からず笑顔を浮かべていた。
商店街の精肉店では、美代子が試した。
こちらも結果は同じ。
店主の本音『今日の当たりは鶏肉』をピンポイントで引き当て、大成功を収めた。
能力の正体を理解するまで、それほど時間はかからなかった。
このイヤホンを耳につけると、
人の心の声が聞こえる。
最初は三人とも怖がった。
本当に怖がった。
だいたい十分ほど。
その後は、
「これ最強ちゃう?」
となった。
ただし。
彼女たちの使い方は、驚くほど壮大ではなかった。
株価を予測しようとは思わない。
政治家の秘密を暴こうとも思わない。
競馬場へ行って大金を手に入れようとも考えない。
スーパー。
八百屋。
ドラッグストア。
たまにデパ地下。
世界でもかなり恐ろしい部類に入る能力は、三人の手によって、
お買い得情報収集装置
になった。
ある日、スーパーの試食販売員が満面の笑みで唐揚げを差し出した。
「いかがですか? 新商品なんですよ」
三人は一つずつ口に入れる。
「おいしいやん」
「ほんまや」
その時、イヤホンをつけていた久美子の耳に、販売員の心の声が届いた。
《今日まだ三袋しか売れてへん……お願い、一個くらい買って……》
久美子の咀嚼が止まった。
販売員は、何も知らずに笑っている。
「いかがです? 今晩のおかずに」
久美子は美代子を見る。
美代子も久美子を見る。
悦子が小さくため息をついた。
「……買おか」
「うん」
「三人で一袋ずつにしよ」
結果。
本音が聞こえたせいで、予定になかった唐揚げを三袋買った。
帰り道。
美代子が袋を揺らしながら言う。
「これ、得してるんか?」
誰も答えられなかった。
危ない方向へ行きかけたこともある。
ある午後。
いつもの喫茶店で、三人はコーヒーを飲んでいた。
美代子がテーブルの上でイヤホンを指先に転がしながら、ふと思いついたように言う。
「なあ」
「何?」
「これ、うちの旦那の横でつけてみよかな」
久美子が顔を上げた。
「何で?」
「ご飯食べた時、毎回『うまい』言うねん」
「ええ旦那やん」
「ほんまに思ってるんかな」
久美子は間を置かず答えた。
「やめとき」
「なんでよ」
「三十八年一緒におるんやろ?」
「うん」
「三十八年『うまい』で成立してんねんから、それでええやん」
美代子は納得していない顔をする。
「でも、ほんまに美味しいと思ってるかもしれへんやん」
久美子はコーヒーを一口飲んだ。
「ほな余計、聞かんでええやん」
「なんで?」
「本心が『まずい』やった時だけ損するから」
悦子が吹き出しかけた。
美代子も数秒考え、やがて笑った。
「……そらそうやな」
話はそれで終わった。
しばらくして、悦子もぼそりと言った。
「私も、息子が嫁さんのことほんまはどう思ってるか、ちょっと気になるけど」
久美子は即答した。
「絶対やめとき」
「はい」
今度は悦子も素直だった。
三人は知りたがりだった。
噂話も好きだ。
誰が引っ越した。
誰の息子が結婚した。
どこの店が閉店するらしい。
そういう話なら大好物だった。
でも。
人の心のいちばん奥まで聞くとなると、話は別だった。
久美子はイヤホンを見ながら言った。
「本音ってな。知らん方がええこと、いっぱいあるやろ」
その時は、三人とも笑っていた。
商店街の外れに、小さな惣菜店があった。
《おかもと惣菜店》。
店主は岡本澄江、七十四歳。
三人がまだ若かった頃からそこにある、古い店だった。
名物はコロッケ。
一個百二十円。
しゃれた味ではない。
SNSで話題になったこともない。
けれど揚げたてを割れば、じゃがいもの湯気と甘い玉ねぎの匂いがふわりと広がる。
三人にとっては、
コロッケと言えば、ここだった。
その日も、澄江はいつものように揚げ物鍋の前に立っていた。
「いらっしゃい。今日はコロッケ、よう揚がってるで」
油の跳ねる音に負けない、明るい声だった。
「三つちょうだい」
「毎度」
澄江は手慣れた動きで、揚げたてのコロッケを紙袋へ入れる。
その日は、久美子がイヤホンをつけていた。
いつものように財布を取り出しかけた。
その時。
イヤホンの奥へ、澄江の声がもうひとつ重なった。
《今月いっぱいで、もう閉めよかな》
久美子の指が止まった。
目の前の澄江は笑っている。
「今日は形もきれいにできてん」
紙袋の口を折る。
イヤホンからは、静かな本音が続いた。
《腰も痛いしな》
テープを貼る。
《油も高なったし》
澄江はいつもの調子で顔を上げた。
「はい、三つ。三百六十円」
そして、その笑顔の向こう側から。
《客も減ったし。……もう十分やろ》
久美子は財布を開いたまま、動けなかった。
「久美ちゃん?」
「あ……ごめん」
慌てて金を払う。
澄江は何も気づいていない。
「毎度。また来てな」
「……うん」
三人は店を出た。
しばらく誰も話さなかった。
コロッケの入った紙袋から、まだ温かい匂いが漂っている。
最初に口を開いたのは美代子だった。
「……聞いてもうたな」
「うん」
悦子が店を振り返る。
ガラス越しに、澄江が一人で揚げ物のケースを拭いているのが見えた。
「どうする?」
久美子はすぐには答えなかった。
翌日。
久美子は友人を二人連れてきた。
「ここのコロッケ食べたことないん?」
「ない」
「人生損してるで」
「そんな大げさな」
「食べてから言い」
五個売れた。
美代子は美容院で宣伝した。
「駅前のチェーンもええけどな、おかもとのコロッケ美味しいねん」
美容師が鏡越しに笑う。
「今度行ってみます」
「今日行き」
「今日ですか?」
「明日は明日の晩ご飯あるやろ」
何となく説得力があった。
悦子は習い事の仲間に話した。
さらに、商店街の若い店員を捕まえた。
「なあ、あんたSNSできる?」
「できますけど」
「コロッケ載せて」
「何で僕が?」
悦子は真顔で答えた。
「若いから」
「理由それだけですか?」
理屈にはなっていなかった。
けれど、その青年も澄江には昔から世話になっていた。
結局、コロッケを一つ買い、写真を撮った。
《昔ながらの商店街コロッケ。揚げたて最高》
大きくバズったわけではない。
行列ができたわけでもない。
ただ、少しずつ客が増えた。
一週間後。
夕方のおかもと惣菜店には、三人ほど客が並んでいた。
澄江は汗をかきながら、次々とコロッケを揚げている。
「ちょっともう、何なん最近」
久美子が笑う。
「繁盛してるやん」
「急に来るようなったんよ。歳考えてほしいわ」
口では文句を言っている。
けれど、その顔は少し嬉しそうだった。
その日も久美子はイヤホンをつけていた。
澄江が新しいコロッケを油から上げる。
ジュワッ、と音が広がった。
その音の向こうで、イヤホンから小さな声が届く。
《……もうちょっとだけ、やろかな》
久美子は何も言わなかった。
ただショーケースを指差した。
「コロッケ三つ」
澄江が笑う。
「また?」
「今日は四つにしよか」
「食べすぎや」
「一個、旦那の分」
「珍しいな」
「たまにはな」
二人で笑った。
聞こえてしまった本音については。
誰も、何も言わなかった。
三人が商店街のベンチでコロッケを食べていた時だった。
「やっぱここのは美味しいわ」
「ちょっと小さなった?」
「それ言わんとき」
「原材料高いねんから」
そんな話をしていると、一人の青年が通りかかり、ふいに足を止めた。
白い肌。
整いすぎた中性的な顔。
人混みの中にいるのに、そこだけ世界の輪郭がわずかに違って見える。
青年の視線は、久美子の耳元に向けられていた。
黒いイヤホン。
赤いランプ。
青年――ノアの目が、わずかに細くなる。
「……それ」
久美子が顔を上げた。
「何?」
「どこで手に入れました?」
「フリマ」
「フリーマーケット?」
「うん。百円」
ノアは黙った。
久美子がコロッケを食べながら訊く。
「兄ちゃんも欲しいん?」
「いえ」
ノアは、もう一度イヤホンを見る。
それを知っていた。
以前。
このイヤホンを手にした人間は、他人の心を知ろうとした。
本音を先回りし。
自分に都合のいいように選択を変え。
他人の人生へ入り込み。
やがて、自分自身の存在まで世界から失った。
その最後に残ったのが、
この黒いイヤホンだった。
それが今。
コロッケを食べている六十四歳の女性の耳についている。
ノアは慎重に訊いた。
「……何に使いました?」
久美子は考える。
「特売」
美代子。
「値引き」
悦子。
「ポイント」
ノアは数秒、黙った。
「……他には?」
三人で顔を見合わせる。
久美子が残りのコロッケを一口かじった。
「コロッケ屋?」
ノアの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「それ、人の心が聞こえるんですよ」
「知ってるで」
久美子の返事は軽かった。
ノアは少し間を置く。
「怖くないんですか?」
今度は、久美子もすぐには答えなかった。
紙袋についたパン粉を、指先で払う。
「怖いよ」
声だけが、少し真面目だった。
「せやから、聞かんでええことには使わへん」
ノアは彼女を見る。
「でも、知りたいとは思うでしょう?」
「そら思うで」
久美子は笑った。
「人間やもん」
それから、少し考えるように続けた。
「でもな。口で言うてることと、腹ん中で思ってることが違うくらいで、ちょうどええねん」
美代子も頷く。
「全部本音でしゃべってたら、夫婦なんか三日で終わるで」
悦子が付け足す。
「友達もな」
美代子が横を見る。
「それ私らのこと?」
「知らん」
三人が笑った。
ノアだけは笑わなかった。
人は、知りたがる。
だからこそ、この道具は甘い。
知らないものを暴き、相手より一歩先へ進み、世界を自分の都合へ近づける。
人間とは、そういう生き物だとノアは思っていた。
けれど。
目の前の三人は、
知ることのできる本音を、
わざと知らないままにしている。
ノアはイヤホンへ視線を戻した。
「危険なものです」
「そうなん?」
「ええ」
「ほな気いつけるわ」
「……僕が預かりましょうか」
久美子は即答した。
「嫌や」
ノアが瞬きをする。
「……どうして?」
久美子はスマートフォンを取り出した。
画面には、スーパーの特売広告。
《明日限り たまご10個 98円》
「明日これやねん」
ノアが画面を見る。
「……卵?」
美代子が説明する。
「一人一パックまで」
悦子も続ける。
「三人やったら、三パックしか買われへん」
三人の視線が、
ゆっくりとノアへ向いた。
ノアは嫌な予感がした。
久美子が、にっこり笑う。
「兄ちゃん」
「はい」
「明日、暇?」
「……なぜですか?」
「一緒に並んで」
ノアは、しばらく答えなかった。
翌朝。
スーパーの開店十分前。
入口には、すでに小さな列ができていた。
山下久美子。
村井美代子。
藤原悦子。
そして、その隣に。
人にも、妖精にも見える、美しい青年が立っていた。
ノアは無言で買い物かごを持っている。
久美子が念を押す。
「一人一パックやからな。間違って二個取ったらあかんで」
「分かっています」
「広告の卵やで。赤いやつちゃうで」
「分かっています」
「ポイントカード持ってる?」
「持っていません」
三人が一斉に振り向いた。
「もったいな!」
ノアは、ほんの少しだけ顔をしかめた。
やがて開店を告げる音楽が流れ、入口の扉が開いた。
待っていた人々が、ゆっくりと店内へ入っていく。
久美子の耳では、黒いイヤホンの赤い光が小さく点滅していた。
けれど。
今日は誰の心も聞いていなかった。
卵は、
ちゃんと四パック買えた。
【関連エピソード】
第8話『心に効くイヤホン』
同じイヤホンに翻弄された別の主人公の物語です。
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