「間」の時計は止まらない
世界のどこかに、ノアという存在がいる。
人にも、妖精にも見える、不思議な存在。
そしてこの世界には、ときどき奇妙なアイテムが現れる。
それを手にした人々は、欲し、迷い、選び……翻弄されていく。
ノアは救い手なのか。
悪魔なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、誰も知らない。
これは、奇妙なアイテムと、それに翻弄される人々の物語。
古道具店の朝は、少しだけ時間が遅い。
シャッターを上げても、すぐに客が入ってくるわけではない。
通勤客が駅へ流れていく音を聞きながら、棚の埃を払い、昨日買い取った品物に値札をつけていく。
片桐亮、二十八歳。
この店で働き始めて四年になる。
アンティークに特別詳しいわけではない。
古い物にロマンを感じる性格でもなかった。
ただ、新品より中古品の方が、少しだけ面白いとは思っていた。
誰かが使った食器。
誰かの部屋に掛かっていた絵。
何十年も前の腕時計。
物には、持ち主が知らないところで続いていく人生がある。
そんなところが、亮は嫌いではなかった。
その朝も、いつものように買い取り品を整理していた。
レコード。
革鞄。
箱に入ったままの万年筆。
古いフィルムカメラ。
そして、その隣に。
銀色の懐中時計が置かれていた。
「……こんなの、あったっけ」
亮は手を止めた。
手のひらに収まる程度の、小さな懐中時計。
銀色の蓋には、植物にも文字にも見える細かな刻印が施されている。
古い品のはずなのに、不思議なほど傷が少なかった。
持ち上げる。
ずしりと重い。
蓋を開けると、白い文字盤の上を細い秒針が進んでいた。
カチ。
カチ。
カチ。
時刻は合っている。
亮は商品管理用の端末を開いた。
メーカー名なし。
型番なし。
買い取り記録なし。
「店長」
奥で段ボールを畳んでいた店長が、面倒そうに顔を上げた。
「何?」
「これ、昨日買い取りました?」
亮が懐中時計を見せると、店長は眼鏡を少しずらした。
「時計?」
「登録ないんですよ」
「昔の在庫じゃないの?」
「昨日、この棚整理しましたけど」
「じゃあ登録忘れだろ」
亮は端末から顔を上げる。
「誰が?」
「知らん」
店長はそれだけ言うと、また段ボールを畳み始めた。
この店では、こういうことがたまにある。
在庫番号が抜けていたり、買い取り担当者が入力を忘れていたり。
亮も、それ以上深く考えないことにした。
「値段どうします?」
「動く?」
「動いてます」
亮が蓋を開けて見せると、店長は段ボールを潰しながら時計を覗き込んだ。
「メーカー分からんのだろ?」
「はい」
「じゃあ三千円」
ずいぶん雑な査定だった。
だが、この店では珍しくもない。
亮は白い値札に、
《銀製風 懐中時計 3,000円》
と書いた。
そして時計をガラスケースの中へ置いた。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針は、何事もなかったように時を刻み続けていた。
その時計を買ったのは、その日の午後だった。
七十代くらいの男だった。
背筋は少し曲がっているが、歩き方はしっかりしている。
濃紺のジャケットに帽子という、どこか昔ながらの格好をした人だった。
男はガラスケースの前で足を止めた。
「これ、見せてもらえる?」
「はい」
亮が時計を取り出す。
男は受け取ると、懐かしそうに蓋を開いた。
「昔、こういうの持ってたんだよ」
「懐中時計ですか?」
「親父のお下がりでね。高校の頃まで使ってた」
男は耳元へ時計を持っていく。
カチ。
カチ。
カチ。
「いい音するなあ」
その顔が本当に嬉しそうだったので、亮も少し笑った。
「三千円です」
「安いね」
「メーカー不明なんで」
「じゃあ、これも縁だな」
男は財布から三千円を取り出した。
名前は高山といった。
特に値切ることもなく、保証について細かく尋ねることもなく、紙袋へ入れた時計を大事そうに抱えて帰っていった。
店長が横から言った。
「いい商売したな」
「三千円ですけどね」
「ゼロ円で入ってきたんだから利益率百パーだろ」
亮は、さっきまで時計があったガラスケースを見る。
「入ってきた経緯、分かってないですけど」
「細かいなあ、お前は」
店長は笑った。
亮も、それ以上は考えなかった。
翌日の午後。
高山が戻ってきた。
昨日とは違い、少し困ったような顔をしている。
手には、あの紙袋。
「すみません」
「どうされました?」
「これ、返品できるかな」
亮は時計を受け取った。
「動きませんでした?」
「いや」
高山は首を振った。
「よく動くんだ」
「……?」
意味が分からず、亮は蓋を開ける。
秒針は普通に動いている。
「時間、狂ってます?」
「そうじゃない」
高山は店内をちらりと見回した。
他に客はいない。
それを確認してから、少し声を落とした。
「昨日、これ買ってから、妙に間がいいんだよ」
「間?」
「タイミング」
高山は、自分でも変な話をしていると思っているのか、少し気まずそうに時計を見た。
「駅に着いたら、ちょうど電車が来た」
「それはまあ、ありますよね」
「信号も全部青だった」
「ツイてる日はありますね」
「喫茶店に入ったら満席だったんだけど、俺が入った瞬間に一人立った」
亮は少し笑う。
「めちゃくちゃツイてますね」
「俺はね」
高山の声が、それまでより低くなった。
亮の笑顔が止まる。
高山は時計の蓋を指先で撫でながら続けた。
「俺のすぐ後ろにも、女の人が駅まで走ってきてたんだ」
「はい」
「電車のドア、その人の目の前で閉まった」
亮は黙った。
「喫茶店じゃ、俺が座ったあとに杖ついた爺さんが来てね。しばらく立って待ってた」
高山は一度息を吐く。
「スーパーでも、俺が列に並んだ瞬間に新しいレジが開いた」
「……それも、偶然じゃないですか」
「かもしれない」
高山は頷いた。
「でも俺が移った直後、元のレジが故障してさ。後ろにいた十人くらい、全員並び直しになった」
大した不幸ではない。
誰かが死んだわけでもない。
怪我をしたわけでもない。
それでも高山は、昨日のようには笑っていなかった。
「それで今朝、試してみたんだ」
「試す?」
「時計を家に置いて出た」
亮が時計を見る。
「どうなりました?」
「バス、目の前で行っちまった」
一瞬。
亮は返事に詰まった。
「……それ」
高山を見る。
「むしろ、時計のせいっぽくないですか」
「だろ?」
高山は苦笑した。
けれど、その笑いには昨日のような楽しさがなかった。
「俺も、そう思っちまったんだよ」
亮は手の中の時計を見る。
カチ。
カチ。
カチ。
ただの古い時計にしか見えない。
「じゃあ、持ってた方が得じゃないですか」
亮がそう言うと、高山はしばらく何も答えなかった。
やがて、ゆっくり首を振る。
「昨日から考えてたんだ」
「何をです?」
「俺が一秒間に合うたびに、誰かが一秒間に合わなくなってるんじゃないかって」
亮は顔を上げた。
高山は時計ではなく、亮を見ていた。
「俺が席に座ったら、誰かが座れない。俺が電車に間に合ったら、誰かが間に合わない」
「でも、それは……」
「偶然かもしれない」
高山は先に言った。
「たぶん、普通ならそう考える」
少し間を置く。
「でもさ。もし偶然じゃなかったら?」
亮は何も言えなかった。
高山は時計をそっとカウンターへ置いた。
「こんな歳になってまで、人の間を奪って得したくないよ」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
「だから返す」
亮は時計と高山を交互に見る。
「本当にいいんですか?」
「いいよ」
「今日、またバスに乗り遅れるかもしれませんよ」
高山は少し考えてから笑った。
「そのときは次のに乗るさ」
返品期限内だったため、亮は三千円を返した。
高山はほっとしたように財布へしまう。
店を出る直前、一度だけ振り返った。
「兄ちゃん」
「はい」
「あれ、自分では使わない方がいいぞ」
今度は、冗談めかした言い方ではなかった。
高山はそのまま店を出ていった。
亮はカウンターに残された時計を見た。
カチ。
カチ。
カチ。
「……そんなこと言われてもな」
ガラスケースへ戻そうと、時計を持ち上げる。
そのときだった。
店の奥で電話が鳴った。
プルルルル。
突然の音に、亮は反射的に振り返った。
「はいはい、今出ます」
時計を持ったまま、一歩横へ動く。
次の瞬間。
ガタン。
頭上から何かが落ちた。
「うわっ!」
積み上げていた買い取り品の箱だった。
ほんの少し前まで亮が立っていた場所へ、大きな段ボール箱が落下する。
亮は目を見開いた。
「危な……」
だが、その箱は床に落ちる前に棚の角へぶつかり、向きを変えた。
ちょうどそこを通りかかった店長の足元へ落ちる。
「痛っ!」
「店長!」
亮は慌てて駆け寄った。
箱の中身は古本だった。
重量はあるが、大怪我をするほどではない。
店長は足首を押さえながら顔をしかめた。
「何だよこれ……ちゃんと積んどけよ」
「すみません、大丈夫ですか?」
「たぶんな。ちょっと捻っただけ」
亮は散らばった本を拾いながら、ふと動きを止めた。
さっき電話が鳴らなかったら。
自分が一歩動かなかったら。
あの箱は、自分の頭か肩に落ちていた。
プルルルル。
電話はまだ鳴っている。
亮は立ち上がり、受話器を取った。
「はい、もしもし。古道具みなとです」
返事がない。
「もしもし?」
雑音すら聞こえない。
数秒後。
電話は切れた。
亮はゆっくり受話器を置いた。
そして、手の中を見る。
銀色の懐中時計。
カチ。
カチ。
カチ。
偶然。
そう思おうとした。
さっきまでなら。
入口のベルが鳴った。
カラン。
亮が顔を上げる。
一人の青年が入ってきた。
最初に思ったのは、妙に綺麗な人だということだった。
年齢は二十代にも三十代にも見える。
白い肌。
中性的な顔立ち。
黒を基調にした簡素な服装。
古道具だらけの薄暗い店の中で、その人物だけ輪郭が妙にはっきりして見えた。
青年は店へ入るなり、何かを探すように視線を巡らせた。
そして。
亮の手元で止まった。
懐中時計。
青年の表情が変わる。
ほんのわずかだった。
けれど、それまでの静かな顔から、明らかに余裕が消えた。
「……なんで、こんなところに」
思わず漏れたような声だった。
亮は時計を見る。
「これ、知ってるんですか?」
青年はすぐに近づいてきた。
「見せてください」
先ほどまでの高山とは違う。
懐かしがっているわけでも、商品に興味を持ったわけでもない。
確かめなければならないものを見つけた。
そんな様子だった。
亮が時計を差し出す。
青年は受け取ると、すぐに蓋を開いた。
刻印を見る。
文字盤を見る。
秒針を見る。
カチ。
カチ。
カチ。
青年の指が、刻印の上で止まった。
「……間違いない」
「え?」
青年は、確かめるようにもう一度時計を見た。
「僕が確かに回収したものだ……」
独り言のような声だった。
亮は眉をひそめる。
「回収?」
青年がようやく顔を上げた。
「ええ」
もう一度、時計へ視線を落とす。
「こんなところにあるはずないんです」
亮には意味が分からなかった。
だが、さっきまでなら笑って聞き流していたかもしれないその言葉を、今は笑えなかった。
「この時計、昨日から勝手に店にあったんですよ」
「昨日から?」
「買い取り記録もありません」
青年の目がわずかに細くなる。
亮は続けた。
「一度売れたんですけど、さっき返品されました」
「どうして?」
「持ってると、自分だけ妙にタイミングが良くなるって」
青年は黙った。
亮は散らばった古本と、足を押さえている店長をちらりと見る。
「それと……さっき、僕も変なことがありました」
「変なこと?」
「電話が鳴って、一歩どいたら箱が落ちてきたんです」
亮は店長を見る。
「僕には当たらなかった。でも、代わりに店長に当たった」
青年の視線が、時計へ戻る。
しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「……この時計の能力は、そんなふうには動かないはず……」
「何ですか、それ」
青年は答えなかった。
ただ、さっきよりも強く時計を握った。
亮は少し戸惑ってから訊く。
「あの、名前聞いてもいいですか?」
「ノアです」
「ノアさん」
変わった名前だと思った。
けれど今は、それを気にしている場合ではない。
「その時計、あなたが知ってるなら持って帰ってくださいよ」
ノアは今度は迷わなかった。
「そうします」
懐中時計を胸元のポケットへしまった。
亮は思わず息を吐いた。
理由は分からない。
だが、厄介なものを引き取ってもらえた。
そんな気がした。
ノアは店を出る。
カラン。
入口のベルが鳴る。
亮は、その背中をしばらく見送った。
「何だったんだ、あいつ」
足首をさすりながら、店長が言った。
「さあ……」
亮はカウンターへ戻る。
時計が置いてあった場所には、三千円の値札だけが残っている。
それを片付けようと手を伸ばし――
止まった。
値札の横。
銀色の懐中時計が置かれていた。
「……え?」
亮は動けなかった。
見間違いかと思った。
だが違う。
同じ刻印。
同じ傷のない銀色の蓋。
白い文字盤。
カチ。
カチ。
カチ。
さっき。
ノアが確かにポケットへ入れた。
亮は勢いよく店の外へ飛び出した。
「ノアさん!」
少し先を歩いていたノアが振り返る。
亮は何も言わず、店の中を指差した。
ノアは亮の顔を見る。
そして何かを察したように、胸元へ手を入れた。
動きが止まる。
ポケットは空だった。
ノアがゆっくり店へ戻ってくる。
ガラス越しに時計を見る。
三千円の値札の横。
さっき自分が持ち去ったはずの懐中時計が、何事もなかったように時を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
ノアはしばらく黙っていた。
「……人の手に、自ら渡ろうとしている?」
亮がノアを見る。
「え?」
ノアは答えない。
時計を見つめたまま、小さく呟く。
「アイテムに意思がある……?」
一拍。
自分でその考えを否定するように、ノアはわずかに首を振った。
「……まさかね」
けれど。
その目は、時計から離れなかった。
やがてノアの口元に、ごく薄い笑みが戻る。
「でも――興味深い」
「興味深いって……」
亮は呆れたように言った。
ノアはそんな亮を一度だけ見て、再び時計へ視線を戻す。
「しばらく観察してみることにするよ」
「いや、うちの店で?」
「そうなりますね」
「困るんですけど」
「触らなければ、おそらく大丈夫です」
亮の顔が引きつった。
「おそらく?」
ノアは答えなかった。
その日の夜。
高山は自宅の居間で、テレビをぼんやり眺めていた。
夕食を終えたあとだった。
天気予報に変えようとリモコンへ手を伸ばしたとき、ニュースキャスターの声が耳に入る。
『本日午前、市内を走行していた路線バスが、交差点で大型トラックを避けようとして横転しました』
高山の手が止まった。
画面には、道路脇に横倒しになったバスが映っている。
割れた窓。
赤色灯。
担架を運ぶ救急隊員。
『乗客数名が病院へ搬送されましたが、いずれも命に別状はないということです』
高山は、画面をじっと見つめた。
車体の行き先表示。
路線番号。
見覚えがある。
いや。
見覚えどころではない。
今朝。
高山の目の前でドアを閉め、そのまま走り去ったバスだった。
「……あれ」
小さな声が漏れた。
時計を持っていなかったから、間に合わなかった。
そう思っていた。
でも。
間に合わなかったから……
助かった。
同じ頃。
誰もいない古道具店。
暗いガラスケースの中で、秒針が十二へ近づいていた。
五十八。
五十九。
……六十。
一秒、止まる。
そして。
ほんの一目盛りだけ、逆へ戻った。
道路の向こう。
暗い店を見つめていたノアの目が、わずかに見開かれる。
「……誰も使ってないのに」
その顔には、彼には似つかわしくない焦りが浮かんでいた。
ノアはもう一度だけ時計を見つめる。
そして、その姿は夜の闇へ溶けるように消えた。
誰もいなくなった街。
ガラスケースの中で、秒針が再び動き出す。
カチ。
カチ。
カチ。
間の時計は、
もう誰の手にもない。
それでも…
止まらない。
【関連エピソード】
第36話『間の時計』
この時計が最初に登場した物語です。
※同作品の目次からお読みいただけます




