トウサツホリック
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名は、ノア。
ノアは願いを叶えない。
ただ、欲望のそばに、そっと道具を置くだけ。
使うかどうかは、その人次第。
そして時には――
その先で助けを求められても、ノアは手を差し伸べない。
柴崎孝志、四十二歳。
都内のメーカーに勤める、ごく普通の会社員だった。仕事ぶりは真面目で、目立ったトラブルを起こすこともない。多少無口ではあったが、それを気難しいと評する同僚もほとんどいなかった。
独身。恋人はいない。
そんな柴崎には、誰にも話していない趣味があった。
写真を撮ることだった。
もっと正確に言えば――
人に気づかれないように、人を撮ること。
休日になると、柴崎は小型カメラや望遠レンズを鞄に入れて出かけた。
夏の海水浴場では、水着姿の成人女性ばかりを遠くから狙った。スポーツイベントでは競技そのものより、女性選手が休憩している瞬間や、本人がカメラを意識していない横顔を好んだ。
繁華街で好みの女性を見つければ、少し距離を置いて後ろを歩く。
公園では、ジョギング中の女性が水を飲んだり、ベンチで汗を拭ったりする瞬間を何枚も撮った。
本人に気づかれないこと。
それが柴崎にとって重要だった。
写真を撮ること自体よりも、「この瞬間を、この人自身は撮られていると知らない」という事実に、妙な興奮を覚えていた。
自宅のパソコンには、何千枚という写真が保存されていた。
《海》
《スポーツ》
《街》
《お気に入り》
フォルダは細かく分類されている。
夜になると酒を飲みながら、それらを眺め直すこともあった。
一度だけ、街中で女性に気づかれたことがある。
「今、私を撮りましたよね?」
柴崎は少しも慌てなかった。
「いや、景色ですけど」
「でも、こっち向けてましたよね」
「自意識過剰じゃないですか?」
そう言うと、女性は不快そうな顔をしながら去っていった。
柴崎はその背中を見送り、内心で舌打ちした。
――気にしすぎなんだよ。
別の日には、イベント会場のスタッフから撮影方法について注意を受けたこともあった。
それでも、やめなかった。
「売ってるわけじゃない」
「ネットに上げてない」
「外から見える場所にいるんだから仕方ない」
「犯罪になるようなことはしてない」
そんな言葉を、自分の中で何度も繰り返した。
何が嫌がられる行為なのかを、柴崎は知らなかったわけではない。
知っていた。
ただ、自分がやめる理由にはならないと思っていただけだった。
ある休日。
柴崎は繁華街の裏路地で、小さな中古カメラ店を見つけた。
何度も通ったことのある道だったはずなのに、そんな店があった記憶はない。
薄暗い店内には古いフィルムカメラや交換レンズが並び、奥の棚に一台だけ、妙に目を引くカメラが置かれていた。
手のひらに収まるほど小さい。
艶のない黒。
ブランド名も、型番もない。
「それ、気になりますか」
声をかけられて振り返ると、店の奥に若い男が立っていた。
黒を基調とした服。白い肌。中性的なほど整った顔立ち。
そして、不思議なくらい静かな目。
胸元の名札には、
《ノア》
と書かれている。
柴崎はカメラを手に取った。
「これ、どこのメーカー?」
「ありません」
「メーカーがない?」
「ええ」
柴崎は半信半疑のまま、レンズを覗き込む。
「ちゃんと撮れるの?」
ノアは頷いた。
「よく撮れますよ」
「どのくらい?」
ノアはほんの少し目を細めた。
「見たいものなら、だいたい」
柴崎は笑った。
「そんな都合いいカメラある?」
「ありますよ」
「ズームは?」
「必要ありません」
「暗いところでも?」
「撮れます」
「人混みは?」
「邪魔にはならないと思います」
柴崎の興味は、もう完全にカメラへ向いていた。
「いくら?」
「持っていっていいですよ」
「タダ?」
「ええ」
少し怪しい。
でも、それ以上に試してみたかった。
柴崎はカメラを鞄へ入れた。
「じゃあ、もらうわ」
ノアは止めなかった。
ただ一度、柴崎の手元を見てから言った。
「よく見えますよ」
それだけだった。
カメラは、本当に凄かった。
最初に試したのは駅のホームだった。
向かい側のホームに、一人の女性が立っている。人混みの中で、柱や看板も邪魔になっていた。
柴崎はカメラを向け、シャッターを押した。
カシャ。
帰宅して確認すると、女性だけが不自然なほど鮮明に写っていた。
周囲の人間はぼやけ、柱も看板も、まるで最初からそこになかったように写真の端へ退いている。
「……すげえ」
柴崎は思わず笑った。
次の日はカフェ。
ガラス越しでも、完璧だった。
イベント会場では、何百人もの客の中から、柴崎が狙った人物だけがくっきり写る。
ブレない。
邪魔されない。
失敗しない。
以前なら「撮れるかどうか」を考えていた。
今は違う。
見たいと思えば、撮れる。
それが、たまらなく気持ちよかった。
柴崎は以前より頻繁に出かけるようになり、以前なら諦めていた距離や角度からも、ためらいなくシャッターを切るようになった。
異変に最初に気づいたのは、一か月ほど経った頃だった。
写真の隅に、知らない人物が写っていた。
遠くの歩道。
黒い服。
顔はよく分からない。
最初は通行人だと思った。
ところが、次の写真にもいる。
その次にも。
駅。
海。
公園。
カフェ。
どこで撮っても、同じ人影が写り込む。
しかも、少しずつ近づいていた。
最初は画面の隅だった。
次は被写体の後ろ。
その次は、柴崎が撮った相手のすぐ横。
そして。
その人物だけは、毎回こちらを見ていた。
被写体ではなく、レンズを。
いや。
柴崎自身を。
ある夜。
柴崎はその人物の顔を確認しようと、写真を拡大した。
拡大。
さらに拡大。
画像は荒れていく。
輪郭が潰れていく。
それでも、一つだけ分かった。
笑っている。
柴崎はすぐに画面を閉じた。
「なんだよ……」
部屋の窓を見る。
もちろん、誰もいない。
念のためカーテンを閉めた。
その夜は妙に寝つきが悪かった。
翌朝。
保存フォルダに、見覚えのない写真が一枚増えていた。
柴崎だった。
自分の寝室。
布団の中で眠っている柴崎を、ベッドのすぐ横から撮った写真。
「……は?」
柴崎は飛び起きた。
部屋を見回す。
誰もいない。
玄関の鍵は閉まっている。
窓も閉まっている。
柴崎は気味悪くなり、写真を削除した。
ところが、翌日。
また一枚増えていた。
風呂上がりの自分。
その次は、会社の休憩室で一人で弁当を食べているところ。
スーパーで値引きされた弁当を選んでいるところ。
鼻をほじっている。
口を開けて寝ている。
鏡の前で薄くなった頭頂部を気にしている。
家で一人、上司の悪口を言っている。
本人しか知らないはずの、どうでもよくて、情けなくて、絶対に人には見せたくない時間。
それが毎日、勝手に保存されていった。
「誰だよ……」
柴崎はカメラを床へ叩きつけた。
しかし傷一つつかない。
ゴミ袋へ入れて捨てても、翌朝には机の上に戻っている。
やがて、写真だけではなく動画が増え始めた。
寝言を言っている動画。
酔って一人で泣いている動画。
好意を持っている女性のSNSを、何時間も遡って見ているところ。
そして、ついには。
誰にも見られるはずのない、もっとも私的な時間まで記録され始めた。
翌朝。
会社へ行くと、給湯室の前で数人の女性社員がスマホを覗き込んでいた。
そのうちの一人が画面を見た瞬間、
「キャッ……!」
と短い悲鳴を上げ、反射的にスマホを床へ落とした。
乾いた音が廊下に響く。
周囲にいた社員たちが、一斉に振り返った。
落ちたスマホの画面では、まだ動画が再生され続けていた。
そこに映っていたのは、柴崎だった。
自宅の薄暗い部屋。
一人きり。
誰にも知られるはずのない場所で、ただ自分だけの快楽に沈み込み、無防備な姿をさらしている。
カメラの存在など、もちろん知らない。
誰にも見られていないと信じ切った顔。
他人の視線など、そこには存在しないと思い込んでいる身体。
柴崎は一瞬で、それが何の映像なのか理解した。
全身から血の気が引いた。
「……やめろ」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
女性社員は床のスマホを拾えずにいる。
周囲の何人かは、もう画面を見てしまっていた。
柴崎は駆け寄り、震える手でスマホを拾った。
動画はまだ続いている。
タイトルもない。
説明文もない。
ただ、再生数だけが増えていた。
12,420。
更新。
28,917。
更新。
63,801。
さらに更新。
109,224。
柴崎の呼吸が浅くなる。
数字が増えるたび、自分の部屋に知らない人間が一人、また一人と入ってくるような気がした。
十万人。
その全員が、自分を見ている。
柴崎がこれまで向けてきたのは、たった一つのレンズだった。
相手に気づかれない場所から。
自分だけが見るための視線。
けれど今、その一方的な視線が何万、何十万という数に膨れ上がり、束になって自分へ返ってきていた。
――こんなの、理不尽だ。
そう思った瞬間。
柴崎は息を止めた。
自分が撮ってきた人たちも、同じことを思ったのだろうか。
ほんの一瞬だけ、その考えが頭をよぎった。
だが。
柴崎はすぐに振り払った。
今はそんなことを考えている場合ではない。
コメント欄が流れていく。
《こいつ例の盗撮男じゃね?》
《自分が撮られるのは嫌なのか》
《会社特定されてる》
《他人のプライバシーは好きだったのにね》
《普通に気持ち悪い》
柴崎は慌てて削除申請を送った。
《これは盗撮です》
《無断で撮影されています》
《プライバシーを侵害されています》
送信ボタンを押そうとして、指が止まった。
画面の文字が目に入った。
無断で撮影されています。
数秒。
柴崎はその一文を見つめた。
胸の奥が、少し冷えた。
だが。
反省より、恐怖の方が大きかった。
翌日から、会社の空気は完全に変わった。
エレベーターに乗れば、誰かが柴崎を見る。
廊下を歩けば、会話が止まる。
席へ向かう途中、若い社員二人が慌ててスマホを伏せた。
机の上には、一枚の紙が置かれていた。
QRコード。
その下に、手書きで、
《柴崎さんの昨日》
と書かれている。
「……何だよ、これ」
読み込む。
動画チャンネルが開いた。
昨日一日。
朝起きる。
歯を磨く。
着替える。
出勤する。
仕事をする。
トイレへ行く。
帰宅する。
食事。
風呂。
睡眠。
すべてが記録されている。
一日中、誰かが至近距離から柴崎を追い続けたような映像。
登録者数。
82万人。
胃の中がひっくり返りそうになった。
その夜。
柴崎はスマホを壊した。
ノートPCも、タブレットも床へ叩きつけた。
部屋中のカメラを壊す。
鏡には布をかけた。
テレビの黒い画面に映る自分さえ不気味に見え、そこにもタオルを被せた。
窓には段ボールを貼り、わずかな隙間もガムテープで塞いだ。
コンセントもすべて抜いた。
自分を映せそうなものは、何一つ残さなかった。
部屋を真っ暗にする。
柴崎は床に座り、しばらく闇を見つめた。
「これで……」
誰も見ていない。
誰にも撮れない。
そう思った。
カシャ。
柴崎の身体が硬直した。
「……やめろ」
カシャ。
どこかで、確かにシャッター音がする。
「やめろ!」
カシャ。
「見るな!」
カシャ。
「俺を見るな!」
翌日。
柴崎は、あの中古カメラ店へ駆け込んだ。
店は最初の日と何も変わっていなかった。
ノアも同じ場所に立っている。
「お前だろ!」
柴崎は怒鳴った。
「俺の写真も動画も! 全部お前がやってるんだろ!」
ノアは静かに柴崎を見る。
「僕は撮っていません」
「じゃあ誰だよ!」
「分かりません」
「ふざけんな!」
柴崎は黒いカメラをカウンターへ叩きつけた。
「こんなもの渡したの、お前だろ!」
「そうですね」
「だったら止めろよ!」
ノアは少しも動じない。
「なぜですか」
「なぜって……俺の生活が全部晒されてんだぞ!」
ノアは一度、カメラへ視線を落とした。
「誰が撮ったか」
「なぜ撮ったか」
「どこへ出るのか」
ゆっくり柴崎を見る。
「撮られる側には、あまり関係ないでしょう?」
柴崎の顔が引きつった。
「俺は……こんなことまでしてない」
「そうですか」
「俺はネットに上げてない!」
「そうですか」
「こんなプライベートまで撮ってない!」
ノアは、ほんの少し首を傾けた。
「程度の話をしているんですか?」
柴崎は黙った。
「違う。俺は……」
ノアが遮る。
「撮られた人が嫌がると、知らなかったんですか?」
柴崎は答えられない。
ノアの目は、怒っていなかった。
責めてもいない。
ただ、答えを知っているように柴崎を見ていた。
「知っていたでしょう?」
柴崎の唇が震える。
「……もうやらない」
ノアは何も言わない。
「分かったから。二度とやらない!」
沈黙。
「だから止めてくれ!」
ノアが、小さく首を傾げた。
「分かった?」
柴崎は息を止める。
「それとも、自分が撮られるのが嫌になっただけ?」
その言葉に、柴崎は何も返せなかった。
やがて、絞り出すように言った。
「……どうすれば許されるんだよ」
ノアは静かに答えた。
「僕に聞くんですか?」
声に怒りも、嘲笑もなかった。
それが、何より冷たかった。
「助けてくれよ……」
柴崎の目に涙が浮かぶ。
ノアは手を差し伸べない。
「あなたは、見る側を選んだ」
それだけ言って、カウンターの上のカメラへ視線を戻した。
柴崎はようやく理解した。
この男は、自分を救うつもりがない。
最初から。
それから三日間。
柴崎は会社へ来なかった。
電話にも出ない。
メールの返信もない。
同僚から連絡を受け、警察が柴崎のマンションを訪れたのは、三日目の夜だった。
二人の警察官がインターホンを鳴らす。
返事はない。
管理会社立ち会いのもとで鍵を開けると、玄関の奥は真っ暗だった。
「柴崎さん?」
反応はない。
懐中電灯を照らしながら中へ入る。
部屋は異様な状態だった。
テレビは割られている。
スマホも。
パソコンも。
カメラも。
すべて粉々。
鏡には黒い布。
窓には段ボールが何重にも貼られ、隙間にはガムテープが詰められている。
床には大量の写真が散乱していた。
駅。
海。
公園。
スポーツ会場。
何百人もの知らない女性たち。
油断した横顔。
背中。
休憩している姿。
本人たちが残そうとは思わなかったであろう瞬間ばかり。
そのすべての写真に、黒いマジックで目が塗り潰されていた。
警察官の一人が写真を拾う。
「……盗撮か?」
そのときだった。
寝室の方から、
カシャ。
二人が同時に顔を上げる。
「今の、聞こえました?」
カシャ。
懐中電灯を向ける。
寝室の扉は、わずかに開いている。
「柴崎さん?」
返事はない。
一人の警察官が扉へ近づき、ゆっくりと押し開けた。
部屋の中央に、
何かがいた。
いや。
“いた”という表現が正しいのかどうか、二人には分からなかった。
人間の形にも見える。
ただの影にも見える。
真っ黒な何かが、部屋の中央でゆっくりと渦を巻いていた。
煙ではない。
光を当てても、照らされない。
むしろ懐中電灯の光そのものを、黒が吸い込んでいるように見えた。
その闇の中で、
何かが一瞬だけ浮かぶ。
目。
次に、
口。
カメラのレンズ。
知らない女性の顔。
また別の顔。
笑っているもの。
泣いているもの。
怒っているもの。
どれも一瞬で黒の中へ沈み、また別の何かが浮かび上がる。
警察官が一歩後ずさった。
「……何だ、これ」
その瞬間。
カシャ。
真っ白なフラッシュが、部屋を埋めた。
翌朝。
インターネットの片隅に、一枚の画像が投稿された。
タイトルはない。
説明文もない。
二人の警察官が、寝室の入口で呆然と立ち尽くしている写真。
撮影位置は、
部屋の奥。
あの黒いものが渦を巻いていた場所だった。
投稿者名は空欄。
画像の下には、
数字が一つだけ表示されていた。
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