推しの炎
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名は、ノア。
ノアは願いを叶えない。
ただ、欲望のそばに、そっと道具を置くだけ。
けれど時々、ノアではない誰かが、
人間の欲望をもっと面白くしてしまうことがある。
黒瀬翔太、十八歳。
高校三年生。
歌は上手い。
ダンスも、それなりに踊れる。
顔も悪くない。
けれど。
それだけだった。
翔太が参加しているのは、全国から集められた男子高校生、大学生、練習生たちが競い合う大型サバイバルオーディション。
番組名は、
《PROJECT NOVA》
参加者九十六名。
歌唱審査。
ダンス審査。
グループパフォーマンス。
コンセプト審査。
そして、そのすべてに影響する視聴者投票。
最終的に選ばれた七人だけが、アイドルグループとしてデビューできる。
最初の順位発表。
翔太は三十八位だった。
悪くはない。
でも、良くもない。
二次審査。
二十九位。
三次審査。
二十四位。
落ちてはいない。
ただ、上がりもしない。
番組スタッフからも言われた。
「黒瀬くん、安定してるんだけどね」
安定。
翔太は、その言葉が嫌いになった。
安定している。
歌も。
ダンスも。
受け答えも。
全部、平均より少し上。
けれど、視聴者がわざわざ投票したくなるほどではない。
SNSで名前を検索してみても、
《翔太くん普通にかっこいい》
《歌うまいよね》
《悪くない》
そんな言葉ばかり。
悪くない。
それは、この世界ではほとんど、
興味がない
と同じ意味だった。
ある日の収録後。
翔太は一人で廊下の自動販売機の前に座っていた。
スマホには、順位予想の投稿が流れている。
《デビュー圏予想》
一位。
二位。
三位。
七位まで。
当然、自分の名前はない。
さらに下。
《惜しい練習生》
そこにもない。
翔太はスマホを伏せた。
「……もっと見てもらえたらな」
小さく呟いた。
そのとき。
隣から声がした。
「見てもらいたいの?」
振り向く。
女の子が立っていた。
番組スタッフではない。
出演者でもない。
銀色に近い淡い紫の髪。
黒とピンクを基調にした、アイドル衣装なのか魔女の服なのか分からない格好。
そして、異様に可愛い。
芸能界の人間を毎日見ている翔太でさえ、一瞬見惚れた。
「……誰?」
女の子は答えず、翔太の隣に腰を下ろした。
「人気ほしい?」
翔太は苦笑する。
「そりゃ欲しいけど」
「一位になりたい?」
「なれるならね」
女の子は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これあげる」
小さな星型のピンバッジ。
黒い縁取り。
中央には、紫色の石。
照明を受けると、妙に強く光る。
「なにこれ」
「スポットライト・ピン」
「商品名みたい」
「商品だもん」
女の子は胸を張る。
「ニスブランドよ!」
「ニス……?」
「わたしの名前」
ニスはピンを翔太の制服の襟元につけた。
「これをつけるとね、みんなが君を見るようになるよ」
翔太は笑った。
「そんな都合いいものある?」
「あるよ」
「どうやって?」
ニスは首を傾げる。
「知らなかった君を、みんなが知りたくなるの」
「それだけ?」
「それだけ」
「何か条件とかないの」
ニスは少し考えた。
そして、
「使いすぎると、知ってほしくない君まで、知られちゃうかも」
と笑った。
翔太は鼻で笑った。
「そんなの、芸能人なら普通じゃん」
ニスの目が少し細くなった。
「そっか」
嬉しそうだった。
「じゃあ、いっぱい使ってね」
変化は、その日の夜から始まった。
突然、一枚の写真がSNSで拡散された。
翔太が高校一年生の頃。
文化祭のステージで歌っている写真。
制服姿。
今より少し幼い。
体育館の簡素なステージ。
マイク一本。
投稿したのは、同じ高校の生徒だった。
《PROJECT NOVAの黒瀬翔太って、うちの高校なんだけど、高1の文化祭の時から普通に歌うまかった》
数時間後。
一万いいね。
さらに動画まで発掘された。
音質の悪いスマホ動画。
でも、確かに翔太だった。
一生懸命歌っている。
コメント欄が伸びていく。
《え、この子あの黒瀬翔太?》
《今より素朴でかわいい》
《ずっと夢追ってたんだ》
《推したくなった》
翔太はベッドの上で何度も画面を更新した。
フォロワーが増えていく。
番組公式アカウントの自分の動画も、再生回数が伸びている。
次の順位発表。
十八位。
一気に上がった。
次に出てきたのは、小学生の頃の写真だった。
小さな弟を背負って歩く翔太。
ランドセル。
汗だく。
弟は背中で眠っている。
母親が昔、家族だけに送った写真だった。
なぜか、それが拡散された。
《黒瀬翔太、小学生の頃から弟の面倒見てたらしい》
《お兄ちゃんすぎる》
《こういう子にデビューしてほしい》
ファンアカウントが次々に作られた。
《翔太をデビューさせよう》
《翔太くん投票お願いします》
次の順位。
十二位。
その次。
七位。
翔太は、控室で思わず笑った。
「……マジかよ」
胸元には、スポットライト・ピン。
紫色の石が光っていた。
廊下の先。
ニスが自動販売機の上に座っていた。
足をぶらぶらさせながら、スマホを見ている。
「すごいね」
翔太が言う。
「でしょ?」
「本当にこれのせい?」
「さあ?」
ニスは笑った。
「でも人間って、知らなかった一面が大好きなんだね」
画面をスクロールする。
「弟思い」
スクロール。
「努力家」
スクロール。
「昔から夢を追ってた」
ニスは楽しそうに言った。
「三枚写真があれば、人間って勝手に人生作ってくれるんだ」
翔太は少しだけ引っかかった。
でも、
七位。
その数字を思い出すと、どうでもよくなった。
それから翔太は、毎回ピンをつけた。
歌唱審査。
ダンス審査。
順位発表。
カメラに映る日は必ず。
スポットライト・ピンを胸元につけた。
そして。
ついに三位になった。
会場が沸いた。
翔太は泣いた。
「ありがとうございます!」
ステージの上から客席を見る。
ファンが自分の名前を書いたボードを持っている。
自分の名前を叫んでいる。
以前なら、誰も知らなかった。
今は違う。
見られている。
求められている。
翔太は、その感覚が好きになった。
だが。
ある朝。
スマホが異常なほど震えていた。
通知。
通知。
通知。
画面を開く。
最初に見えたのは、
《黒瀬翔太、性格悪くない?》
という文字だった。
中学時代のグループチャット。
スクリーンショット。
翔太が友人に送ったメッセージ。
《あいつ正直ダンス下手じゃね?》
たった一言。
昔の友達同士の愚痴。
それが切り取られ、
何万回も拡散されている。
《人のダンス馬鹿にしてたの?》
《自分だってそんな上手くないじゃん》
《性格いいと思ってたのに》
翔太の顔から血の気が引いた。
急いでピンを外した。
だが、もう遅かった。
次の日。
別のものが出た。
中学時代の裏アカウント。
先生への悪口。
《マジでうざい》
《今日の授業寝る》
どうでもいい投稿。
でも、弟思いの努力家として見られていた翔太には、十分だった。
さらに。
昔付き合っていた相手とのDM。
オーディション参加者について友人へ送った愚痴。
《あいつ人気あるの意味わかんない》
親に泣きながら電話した時の録音。
《これでデビューできなかったら、俺ほんと何もない》
次々に出てくる。
SNSは完全に祭りになった。
《黒瀬翔太 炎上》
《黒瀬翔太 裏垢》
《黒瀬翔太 性格》
検索候補が変わっていく。
昨日まで、
《黒瀬翔太 かわいい》
《黒瀬翔太 弟》
だったのに。
セミファイナル。
順位発表。
前回、三位。
司会者が名前を読み上げる。
上位から。
一位。
二位。
三位。
翔太の名前はない。
十位。
十五位。
二十位。
まだ呼ばれない。
残っている席は、最後の一つ。
大型スクリーンに数字が出る。
最下位。
黒瀬翔太。
会場がざわついた。
翔太は立ち上がれなかった。
カメラが自分を映している。
泣くな。
そう思った。
でも涙が出た。
デビュー圏内から、
最下位。
控室へ戻った瞬間。
翔太は鏡の前の机を叩いた。
「なんなんだよ……!」
そのとき。
鏡の中。
後ろにニスが映っていた。
「わあ」
嬉しそうに言う。
「すっごい落ちたね」
翔太は振り返った。
「お前のせいだろ!」
「え?」
ニスは本気で不思議そうだった。
「でも、いっぱい見てもらえたじゃん」
「こんなのいらない!」
「注目されたかったんでしょ?」
「こんな注目じゃねえよ!」
ニスは少し考える。
「じゃあ、捨てれば?」
机の上。
スポットライト・ピン。
翔太はそれを見る。
捨てればいい。
こんなもの。
ここまで自分を壊したもの。
でも。
次の審査で順位を上げなければ、
終わる。
十八歳。
高校三年生。
ずっとアイドルになりたかった。
文化祭のステージで歌った日から。
いや。
もっと前から。
翔太はピンへ手を伸ばした。
ニスの口元がゆっくり上がった。
「使うの?」
翔太は答えなかった。
胸元につける。
「……どうせ」
声が震えた。
「どうせもう嫌われてるなら、最後までやる」
ニスの目が輝いた。
「そういうの好き」
ファイナル直前。
さらに大きな炎上が起こった。
今度は、翔太がオーディション参加前に友人へ送っていた長文メッセージ。
嫉妬。
不安。
弱音。
他の参加者への愚痴。
自信のなさ。
全部。
ありのままの十八歳の言葉だった。
当然、叩かれた。
《終わったな》
《もう辞退しろ》
《性格最悪》
ところが。
数時間後。
少しずつ、違う意見が増え始めた。
《いや、高校生なんてこんなもんじゃない?》
《むしろこれ晒す方が怖い》
《嫉妬したことない人間いるの?》
《完璧な聖人より人間っぽい》
《ここまで晒されてもステージ立つの普通にメンタル強い》
《なんか逆に応援したくなってきた》
空気が変わる。
アンチも翔太の動画を見る。
批判するために切り抜きを見る。
再生数が伸びる。
おすすめに載る。
さらに人が見る。
ファンとアンチが争う。
その争いまで拡散される。
翔太の名前が、
番組そのものより有名になっていく。
ファイナル当日。
巨大な会場。
照明。
歓声。
出演者たちがステージへ並ぶ。
その正面。
審査員席。
有名プロデューサー。
振付師。
歌手。
芸能事務所の代表。
そして、その一番端に。
一人だけ、
誰なのかよく分からない男が座っていた。
黒を基調とした服。
騒がしい会場の中で、そこだけ妙に静かに見える。
スタッフも。
出演者も。
司会者も。
誰も彼を紹介しない。
誰も、
「誰ですか?」
とは聞かない。
まるで最初から、そこにいることが当然であるかのように。
けれど、カメラが審査員席を映すたび、
なぜか一瞬だけ目を奪われる。
静かな目。
中性的なほど整った顔。
存在そのものが、薄い光をまとっているようだった。
胸元には、
小さな名札。
《ノア》
ノアは、
ステージに立つ翔太を静かに見ていた。
最後の自己PR。
出演者一人ひとりが、視聴者へ言葉を届ける。
翔太の番。
会場が少しざわつく。
翔太はマイクを持った。
胸には、
スポットライト・ピン。
一度、息を吸う。
「僕は……」
声が震えた。
「たぶん、みんなが最初に思ってたような人間じゃありません」
会場が静かになる。
「嫉妬もします」
「人の悪口を言ったこともあります」
「逃げたくなったこともあります」
「自分より人気のある人を見て、なんで俺じゃないんだって思ったこともあります」
何人かの参加者が翔太を見る。
「でも」
翔太は顔を上げた。
「それでも、アイドルになりたいです」
涙がこぼれる。
「いい人だからじゃなくて」
「完璧だからじゃなくて」
「こんな僕でも」
「ステージに立ちたいです」
数秒。
静寂。
そして。
拍手が起こった。
最初は小さかった。
やがて会場全体へ広がった。
その映像は、
すぐに切り抜かれた。
《炎上から逃げなかった18歳》
《黒瀬翔太、本音》
《それでもアイドルになりたい》
数百万再生。
コメント欄は割れた。
《無理》
《嫌い》
《正直すぎて好き》
《ここまで来たらデビューしてほしい》
《許したわけじゃないけど投票した》
《なんか見届けたくなった》
好き。
嫌い。
応援。
批判。
全部が、
一つの場所へ集まっていく。
投票ページ。
最終順位発表。
七位。
六位。
五位。
翔太の名前は呼ばれない。
四位。
三位。
まだ。
二位。
違う名前。
翔太は俯いた。
終わった。
そう思った。
司会者が封筒を開く。
「PROJECT NOVA、最終順位……第一位」
会場が静まり返る。
大型スクリーンに名前が表示された。
《黒瀬 翔太》
翔太は動かなかった。
理解できなかった。
隣の参加者が肩を叩く。
歓声が爆発する。
翔太は口を押さえた。
「……え」
涙が溢れる。
最下位から。
一位。
ステージ中央へ歩いていく。
歓声。
紙吹雪。
光。
そのすべてを浴びながら、
翔太は泣いた。
舞台袖。
ニスがスマホを見ていた。
口が少し開いている。
「……え?」
画面を見る。
一位。
黒瀬翔太。
もう一度見る。
「え?」
スクロールする。
《炎上王子、奇跡の一位》
《嫌いだったのに投票した》
《推しじゃないけどデビューは納得》
《逆に伝説になった》
ニスは眉を寄せた。
「悪口言っても人気になるの?」
スクロール。
「炎上しても?」
スクロール。
「嫌われてるのに……一位?」
本気で理解できない顔をしている。
少し離れた審査員席。
ノアが静かに立ち上がる。
二人の目が、一瞬だけ合った。
ニスはノアを見る。
「ねえ」
ノアは答えない。
ニスはスマホを見せるように掲げた。
「これ、どういうこと?」
ノアは、ほんの少しだけ笑った。
それだけだった。
数か月後。
黒瀬翔太は、
デビューグループのセンターとしてテレビに出演していた。
番組では、
オーディション時代の軌跡が特集されている。
文化祭の映像。
弟を背負った写真。
順位上昇。
炎上。
最下位。
そして、
涙のファイナル。
ナレーションが流れる。
《数々の逆境を乗り越え、夢を掴んだ十八歳》
炎上した投稿も。
悪口も。
嫉妬も。
涙も。
全部が、
感動的な音楽とともに編集されている。
一つの、
美しい成功物語として。
テレビの前。
ニスがポテトを食べながら見ていた。
「逆境……」
一本食べる。
「夢を掴んだ……」
もう一本。
画面では、
翔太が笑っている。
《あの経験があったから、今の僕があります》
ニスはしばらく見つめていた。
そして、
ぽつりと言った。
「失敗も」
「悪口も」
「炎上も」
「最後に売れたら、全部“伝説”になるんだ」
少し考える。
首を傾げる。
「人気があるから好きになるの?」
また首を反対側へ傾げる。
「好きだから人気になるの?」
分からない。
ニスはポテトを一本口へ放り込んだ。
テレビの中では、
《黒瀬翔太、デビュー曲センター!》
という文字が輝いている。
ニスは、
ふっと笑った。
「……変なの」
画面の中。
翔太の胸元で。
小さな紫色の星が、
一度だけ、
きらりと光った。




