ととのいサウナハット
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名は、ノア。
ノアは願いを叶えない。
ただ、欲望のそばに、そっと道具を置くだけ。
使うかどうかは、その人次第。
そして使いすぎた先で何が起きるのかも――。
ノアは今日も、静かに見届けている。
高瀬圭介、三十八歳。会社員。
特別、不幸というわけではなかった。
会社は普通。
収入も普通。
独身。
人間関係で致命的な問題を抱えているわけでもなければ、借金があるわけでもない。
朝起きて、会社へ行き、仕事をして、帰ってくる。
休日は、気づけばYouTubeを見て一日が終わっていることが多かった。
映画も見る。
でも、映画好きと名乗れるほど詳しいわけではない。
ゲームもする。
でも、発売日に新作を買うほどではないし、特定のシリーズについて熱く語れるわけでもない。
旅行も嫌いではない。
ただ、せいぜい年に一度行くかどうか。
だから高瀬は、
「趣味は?」
と聞かれるのが、少し嫌だった。
「まあ……特にないですね」
いつもそう答える。
別に、それで困るわけではない。
けれど、誰かが、
「週末はキャンプです」
とか、
「最近ロードバイクにハマってて」
とか、
「毎月ライブに行ってます」
なんて楽しそうに話しているのを聞くと、自分だけ何も持っていないような気がした。
そんな高瀬を、ある日、会社の同僚がサウナへ誘った。
「高瀬さん、サウナ行ったことあります?」
「いや」
「一回行きましょうよ。マジでいいですよ」
高瀬は乗り気ではなかった。
熱い場所にわざわざ入って、そのあと冷たい水に入る。
何が楽しいのか、まったく分からない。
それでも予定のない休日だったので、付き合うことにした。
最初は、やっぱり苦しかった。
サウナ室に入って五分。
高瀬はもう時計を見ていた。
熱い。
息苦しい。
じっと座っているだけなのに、身体中から汗が出てくる。
「……何がいいんだ、これ」
隣の同僚は平然としている。
「もうちょっとっす」
「もう十分じゃない?」
「あと三分」
「長いな……」
ようやく外へ出たと思ったら、今度は水風呂だった。
「いや、無理無理」
「肩まで入ってください」
「死ぬって」
「大丈夫ですって」
意を決して入る。
冷たい。
というより痛い。
高瀬は思わず声を上げた。
「うわっ!」
同僚が笑う。
「すぐ慣れます」
数十秒。
高瀬は逃げるように水風呂から出た。
そして外気浴スペースのベンチへ座る。
そこまでは、ただ苦しいだけだった。
ところが……。
ベンチに身体を預けた、その瞬間。
ふわっ。
身体が沈んだ。
正確には、沈んでいない。
椅子に座っている。
なのに、自分の身体だけが柔らかい水の中へ落ちていくような感覚がした。
風が皮膚を撫でる。
腕。
頬。
濡れた髪。
さっきまで熱かった身体の表面を、夏の風がゆっくり通り抜けていく。
そして突然、
頭の中の雑音が消えた。
仕事。
金。
将来。
孤独。
明日のこと。
来週のこと。
自分はこのままでいいのかという、いつも頭のどこかに引っかかっている小さな不安。
全部、どうでもよくなる。
高瀬は目を閉じた。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
これか。
同僚が言っていた“整う”というやつ。
何かを達成したわけではない。
問題が解決したわけでもない。
それでも、この数分だけは、何も考えなくてよかった。
ただ気持ちいい。
ただ、生きている。
それだけでいい。
高瀬はもう一度、心の中で呟いた。
――これか。
その瞬間から、ハマった。
最初は週末だけだった。
それが週二回になった。
やがて週三回になった。
会社でも、
「高瀬さん、サウナ好きなんですね」
と言われるようになった。
それが、ちょっと嬉しかった。
人生で初めて、
「サウナが趣味です」
と言えるものができた。
サウナハットを買った。
タオルにも少しこだわるようになった。
温浴施設のスタンプカードを集めた。
サウナ用の時計を眺めるようになった。
評判の施設を調べ、有名なサウナへ遠征もした。
SNSのプロフィール欄も書き換えた。
《サウナ/銭湯/週3》
たったそれだけ。
それなのに、少しだけ自分が何者かになれた気がした。
以前なら、
「趣味は?」
と聞かれるのが嫌だった。
今は違う。
「サウナですね」
そう答えられる。
すると相手が、
「流行ってますよね」
とか、
「おすすめあります?」
と聞いてくれる。
会話が続く。
自分にも、話せるものがある。
高瀬は、それが嬉しかった。
サウナへ行くようになってから、休日を楽しみにするようにもなった。
仕事中でも、
「今日終わったらサウナ行こう」
と思えば、少し頑張れた。
高瀬は、何もおかしくなかった。
むしろ以前より、少し人生を楽しんでいた。
ある日。
仕事が長引いた。
予定外の会議。
取引先からの電話。
資料の修正。
ようやく会社を出た頃には、かなり遅い時間になっていた。
それでも高瀬は、いつもの温浴施設へ向かった。
到着したのは、閉店四十分前。
時計を見る。
「今日は無理か……」
高瀬には、自分なりのルーティンがあった。
最低でも、
サウナ十分。
水風呂一分。
休憩十分。
それを三セット。
せっかく来たなら、ちゃんと整いたい。
四十分では足りない。
慌ただしく一セットだけやるくらいなら、今日は諦めた方がいい。
高瀬はため息をついた。
そのときだった。
ロッカーの横に、小さな販売棚があることに気づいた。
今まで見たことがない。
棚の上には、一つだけサウナハットが置かれていた。
真っ白。
ロゴもない。
妙に柔らかそうな生地。
値札も、ブランド名もない。
高瀬が手に取ろうとしたとき、横から声がした。
「それなら、一セットで大丈夫ですよ」
振り向く。
店員が立っていた。
若い男だった。
どこか中性的で、妙に整った顔立ちをしている。
温浴施設のスタッフにしては、不思議なくらい静かな雰囲気だった。
胸元の名札には、
《ノア》
と書かれていた。
「一セット?」
「ええ」
高瀬は笑った。
「一セットじゃ整わないですよ」
男も、ほんの少しだけ笑った。
「これは整います」
高瀬は白いハットを見る。
「何分くらい?」
「三分でも」
高瀬は鼻で笑った。
「そんなわけないでしょ」
ノアは何も言わず、ハットを差し出した。
「試してみますか」
高瀬は受け取った。
「まあ、せっかく来たし」
そのとき。
ノアが言った。
「ただ、使いすぎないでください」
高瀬が振り返る。
「え?どういう意味?」
ノアは少し考えた。
そして言った。
「整ったら、脱いでください」
高瀬は笑った。
「当たり前じゃないですか」
ノアは答えなかった。
サウナ室。
高瀬は白いサウナハットをかぶった。
一分。
二分。
三分。
まだ汗も十分には出ていない。
身体も、いつものようには温まっていない。
なのに突然、
――来た。
身体が沈む。
「……え?」
頭の奥が、
じわぁぁっと、
ほどけていく。
水風呂にも入っていない。
外気浴もしていない。
ただサウナ室に座っているだけ。
なのに。
目を閉じる。
世界が回る。
いや。
回っているのではない。
自分だけが、世界から外れていく。
仕事も。
時計も。
身体の重さも。
全部が遠ざかっていく。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
いつもの整いより深い。
気持ちいい。
とてつもなく気持ちいい。
高瀬は半分白目になり、口を少し開けた。
何も考えられない。
いや。
考える必要がない。
ただ気持ちいい。
三分ほど経った頃。
ふと、ノアの言葉を思い出した。
――整ったら、脱いでください。
高瀬は帽子を脱いだ。
その瞬間。
すっ。
一瞬で戻った。
サウナ室の熱。
自分の呼吸。
時計の秒針。
全部が戻ってくる。
「あ……」
高瀬は白いハットを見た。
物足りない。
さっきまであったものが、急になくなった。
ほんの少しだけ。
もう一度だけ。
高瀬はハットをかぶった。
数秒。
また来る。
「……っはぁ」
身体が沈む。
頭がほどける。
こっちだ。
高瀬は笑った。
最初は、ただ便利だった。
仕事で疲れた日だけ使った。
「今日は時間ないから、帽子使お」
五分で整う。
最高だった。
以前なら一時間近く必要だったものが、数分で手に入る。
疲れていても。
時間がなくても。
確実に整える。
高瀬にとって、その白いハットは便利な道具でしかなかった。
ところが。
しばらくすると、普通のサウナで整えなくなった。
十分入る。
汗をかく。
水風呂。
外気浴。
ベンチへ座る。
目を閉じる。
「……」
何も来ない。
高瀬は目を開けた。
「あれ?」
もう一セット。
サウナ。
水風呂。
外気浴。
来ない。
「なんだよ……」
三セット目。
それでも来ない。
仕方なく、白いハットをかぶる。
三十秒。
――来る。
身体が沈む。
頭の奥が溶ける。
高瀬は目を閉じた。
「……これだ」
それから高瀬は、
初めてサウナで感動した、あの“整い”を、
白いハットで追いかけるようになった。
使う場所も、少しずつおかしくなった。
最初はサウナだけだった。
次に、自宅の風呂。
ある夜。
高瀬は白いハットを持って浴槽に入った。
「サウナじゃないけど……」
試しにかぶってみる。
来る。
「……おお」
普通の浴槽なのに。
整う。
そのうち、シャワーだけの日にも使った。
頭から熱めのシャワーを浴びる。
ハットをかぶる。
来る。
「便利すぎるな、これ」
そして、真夏のある日。
駅まで歩いただけで、身体中から汗が噴き出していた。
湿気の多い午後。
高瀬は鞄の中に白いハットが入っていることを思い出した。
「……もしかして」
近くの公園へ入る。
ベンチに座る。
白いハットをかぶる。
数秒。
――来る。
「……最高……」
蝉の声が遠くなる。
炎天下。
公園のベンチ。
一人だけサウナハットをかぶった三十八歳の男が、
半分白目を向き、
口を少し開け、
薄く笑いながら座っている。
傍から見れば、完全に異様だった。
通りかかった女性がちらりと見る。
子どもが振り返る。
高瀬は気づかない。
「最高……」
最初は、帽子を脱げば普通に戻った。
ところが。
少しずつ、顔が戻らなくなった。
会社。
会議中。
「高瀬さん?」
高瀬はゆっくり顔を上げる。
「……はい」
目が半分しか開いていない。
口元が、わずかに笑っている。
上司が眉をひそめた。
「体調悪い?」
「いや……」
高瀬はぼんやり笑った。
「めちゃくちゃ調子いいです」
本人は、本当にそう思っている。
パソコンを見ながら、
ふわぁ……。
と、どこか遠くへ行っているような顔をしている。
同僚が冗談っぽく言った。
「高瀬さん、なんか最近、ずっと整ってません?」
高瀬は笑った。
「いいでしょ」
「いや……ちょっと怖いですよ」
高瀬はまた笑った。
さらに、不思議なことが起き始めた。
白いハットを使い続けているうちに、
不快なことまで、
“整い”に変わっていった。
満員電車。
以前ならイライラしていた。
身体が押される。
知らない人の肩が当たる。
汗の匂い。
蒸し暑さ。
それなのに、高瀬は半白目で吊り革につかまりながら、
「……気持ちいい」
と呟いた。
真夏の湿気。
駅から会社まで歩くだけで、シャツが肌に張り付く。
「いい熱……」
高瀬は笑う。
会社で上司に怒られる。
「高瀬、最近ちょっと集中力落ちてるぞ」
高瀬は穏やかに笑った。
「ありがとうございます……」
「いや。褒めてないぞ」
「分かってます」
それでも、気持ちいい。
あるとき、もう少しで恋人になれそうと思っていた女性から、
「ごめん。もう会うのやめよう」
と告げられた。
以前なら傷ついていたはずだった。
高瀬はスマホの画面を見ながら、
ぼんやり笑った。
「なんか……これも……整うな……あぁっ」
悲しみ。
怒り。
不安。
寂しさ。
嬉しさ。
どんな感情も、
全部、同じところへ流れ込んでいく。
気持ちいい。
気持ちいい。
気持ちいい。
喜びも。
悲しみも。
怒りも。
全部、
「整った」
という一つの感覚に潰されていった。
周囲も、さすがに気づき始めた。
ある日の昼休み。
同僚が高瀬の向かいに座った。
昔からそれなりに仲のいい男だった。
「お前さ」
「ん?」
「昔、もっと喋ったよな」
高瀬はぼんやり笑う。
「そう?」
「そうだよ。仕事の愚痴とか、くだらない話とか。テレビの話とか」
「へえ」
「なんか最近、何聞いても『まあいいか』しか言わないじゃん」
高瀬は少し考えた。
そして笑った。
「だって、まあいいじゃん」
同僚は黙った。
高瀬は、本当にそう思っていた。
人生への執着が、少しずつなくなっていた。
仕事。
どうでもいい。
恋愛。
どうでもいい。
友達。
どうでもいい。
金。
将来。
どうでもいい。
サウナだけ。
……いや。
違う。
サウナですら、もうどうでもいい。
サウナ室でなくてもいい。
水風呂もいらない。
外気浴もいらない。
施設も。
温度も。
香りも。
全部いらない。
整えればいい。
ただ、それだけでいい。
ある夜。
閉店間際のサウナ。
高瀬は一人で上段に座っていた。
白いサウナハットをかぶっている。
三分。
五分。
十分。
汗が身体中を流れている。
それでも動かない。
スタッフが扉を開けた。
「お客様、そろそろ……」
高瀬はゆっくり顔を向けた。
半分白目。
口元には笑み。
「もうちょっと」
スタッフが時計を見る。
十五分。
「危ないですよ」
高瀬は笑っている。
「今、一番いいところなんです」
「一度出ましょう」
スタッフが近づく。
高瀬は白いハットを押さえた。
取られないように。
「嫌です」
その声は、
子どものようだった。
「お客様、本当に危ないですから」
「もう少しだけ」
「出ましょう」
高瀬は目を閉じる。
「もう一セット……」
そのとき。
サウナ室の扉が開いた。
一人の男が入ってくる。
不思議なことに、
汗をかいていない。
高瀬はぼんやりと目を開けた。
「あ……」
見覚えがある。
「あの時の……」
ノアだった。
ノアは高瀬の前に立った。
「使いすぎないで、と言いましたよ」
高瀬は笑った。
「使ってないですよ……」
「そうですか」
「使ってるんじゃなくて……」
高瀬は笑う。
「整ってるだけです」
ノアは、高瀬の顔を見る。
高瀬はゆっくり、
白いサウナハットを脱いだ。
それでも。
目は戻らない。
半分白目。
口元には、薄い笑み。
幸福そうな顔。
ノアはしばらく、その顔を見つめていた。
そして静かに言った。
「そうみたいですね」
翌朝。
会社。
高瀬の席は空いていた。
「高瀬、今日休み?」
「知らない。連絡あった?」
「いや」
誰かが笑いながら言った。
「またサウナじゃない?」
みんな笑った。
そのころ。
とある温浴施設。
朝一番の客がサウナ室へ入った。
まだ誰もいない。
静かな室内。
上段の中央に、
白いサウナハットが一つ置かれていた。
「忘れ物かな」
客は何気なく手に取った。
妙に柔らかい。
ブランド名もない。
値札もない。
内側を見る。
小さな文字が書かれている。
《もう一セット、いかがですか。》
「なんだこれ」
男が首をかしげる。
そのとき。
後ろから店員の声がした。
「それ、よく整いますよ」
男が振り返る。
若い店員が立っている。
静かな目。
整った顔。
胸元の名札には、
《ノア》
と書かれている。
そして、
ノアのさらに後ろ。
サウナ室の外。
休憩スペースの椅子に、
一人の男が座っていた。
目は半分白い。
口を少し開けている。
天井を見ながら、
とても、
とても幸せそうに笑っていた。




