16.贋作
仕度を終えたヒューを見送りに玄関に出ると、絹の燕尾服を着て髪を几帳面に撫で付けたヒューが立っていた。
見送りの使用人たちを一瞥すると、ヒューは少しだけ顔を顰めてトマスを見た。
トマスがアデラインに気付かれないよう、顎を小さく動かすと、ヒューは観念したように溜息をついた。
「では、行ってくる」
ヒューはそう言ってアデラインの顔をじっと見つめた。
とび色の瞳がどこか戸惑うように自分を見ているのを、アデラインが不思議に思っていると、ヒューは諦めたようにもう一度小さく息をついてアデラインの頬に唇を押し付けた。
突然のことにアデラインが見送りの言葉も忘れて立ち尽くしていると、ヒューはその間にリチャードが開けたドアから颯爽と出て行った。
アデラインは呆然とその姿を見送ったが、使用人たちは目を丸くしたり、年若いメイドたちは頬を赤らめて微笑んでアデラインを見ていた。
その様子をみて、トマスとポーラは安心したように、張っていた肩を少しだけ落とした。
ヒューが紳士の集まりに行くようになってから、アデラインもまた婦人の集まりに招待されることが増えていた。
中でも母の古い友人であったヒドルストン伯爵夫人はアデラインを気に入ったのか、長年の疎遠の罪滅ぼしかは分からないが、毎回のようにアデラインを招待しては自分の近くに座らせた。
そのおかげで、5回も参加をする頃にはアデラインはサロンの一員としてすっかり馴染んでいた。
「アルマン小侯爵夫人は本日もとてもお美しいわ」
「本当に——あのベッカー商会の会長を射止めただけありますわ。わたくしが殿方でも、夫人に跪いて愛を請うと思いますのに」
ヒドルストン伯爵夫人の寵愛が深いと気付くや、サロンのメンバーはすぐにアデラインの機嫌を取るようになっていた。
だが、伯爵夫人のサロンに集まる貴婦人たちは皆、教養深く、政治や哲学について話し合うこともあれば、音楽家を呼んでダンスを楽しみ、たまにゴシップに花を咲かせるような淑女たちだったので、すぐにアデラインに対しても特別な扱いはされなくなっていた。
「そういえば、先日の海難事故……お聞きになりました?」
「ええ。オルランド伯爵が大変な債権を背負ってしまったとか」
「オルランド商会ももうお終いかも知れませんわね」
カウチに座った夫人たちがひそひそと話しているのを、アデラインは耳にした。
先日新聞で読んだ商船の積み荷が爆発して沖合で沈んだ事故のことだろうと、すぐにわかった。
「ベッカー氏——いえ、アルマン小侯爵の商会や銀行は保険への投資はなさっていないと聞きましたわ。さすがですわね」
アデラインの姿を見つけたダストン子爵夫人が、にこやかな笑顔で語りかけてきたが、アデラインはヒューの仕事のことなど全く知らないことを、今更になって気が付いた。
「ありがとう存じますわ」
にこりと微笑んで、アデラインは扇を開いた。
屋敷に戻ると、なにやら騒がしさを感じた。
出迎えたポーラとキャサリンがヒューが帰っていることを告げると、アデラインは慌てて髪を手で撫でつけ、スカートの埃を払った。
いつもなら夕食の時間ぎりぎりに帰るというのに、今日はまだ日も高いうちに帰っているとは珍しい。
無視して自室に戻るわけにもいかず、アデラインは日傘とバッグをキャサリンに預けると、ポーラを見た。
「旦那様は客間におられます。どうぞ」
ポーラの先導で客間に行くと、ヒューは腕組をしながら客間の中央に立って、作業員たちが壁に絵を取り付けるのを監視していた。客間に入ってきたアデラインに気付くと一度だけ視線を向けたが、すぐに作業員たちの様子に向き直った。
アデラインは邪魔をしてはいけないと思ったが、薄い布がかけられた大きな絵が気になってヒューの隣にそっと立った。
「客間に絵が欲しいと言っていたと聞いた」
アデラインが隣に立つと、ヒューはアデラインを振り向きもしないまま言って、作業員たちの動きを見ていた。
アデラインは驚いてヒューの横顔を見つめたが、その表情からはなんの感情も読み取れなかった。
ようやく飾る位置が決まり額縁が留められると、絵にかけられていた薄い布が外された。
豪華な真鍮の額縁に飾られた絵を見て、アデラインは「あっ」と小さく叫んで息を呑んだ。
それは、アデラインが子供の頃にアルマン侯爵邸の広間に飾られていた、ユンベルグの絵だった。
教会の前に広がる草原と風車が描かれた素朴な絵だが、全ての景色が朝日に照らされて輝いているのがとても幻想的で、アデラインの一番のお気に入りの絵だった。
侯爵家が傾きかけて最初に手放したのも、この絵だった。
「オルランド伯爵の所蔵品が競売にかけられていて、その中にこの絵があった」
そう言ったヒューの横顔をもう一度見つめたが、その表情からは相変わらずなにも読み取れなかった。だが、アデラインはヒューがこの絵だから買ってきてくれたのだということだけは、不思議と理解することができた。
10年以上ぶりに見る絵は、相変わらず荘厳で美しかったが、アデラインはどこか言い得ぬ違和感を覚えていた。
子供の頃の記憶だからだろうか。
そう思ったが、違う。
毎日のように広間に入っては日が暮れるまで見続けた絵だ。記憶違いなどあるはずもない。
怪訝な顔でじっと絵を見つめるアデラインに、ヒューは少しだけ眉を動かしたが、声はかけなかった。
しばらく絵を見つめていたアデラインだったが、ようやく小さく声を漏らした。
「間違い、ない——」
そして振り返ってヒューを見た顔は、さっきまで紅潮していたとは思えないほど青ざめていた。
「旦那様、この絵は鑑定にかけられましたか?」
「どういうことだ」
ヒューは小首を傾げながらアデラインに返した。
「オークションはダンテ・ギャラリーで開催されたものだ。ギャラリーで鑑定済みに決まっているだろう」
ヒューの語気が若干強くなったのを、アデラインは怒らせてしまったと誤解して尻込みしそうになったが、胸の前で両手を組み合わせてヒューのとび色の瞳を覗き込むように見上げた。
「もう一度、信頼できるほかのギャラリーで鑑定を依頼してくださいませ。おそらくこの絵は——贋作です」




