17.貴族とは
「なぜそう思うのですか」
ヒューの感情が読めない声に、アデラインは息を呑んだ。
「……ユンベルグは100年前の画家です。つまり、絵具も100年前のものでなくてはなりません。ですが、この青はかなり濁してはいますが鮮やかすぎます」
アデラインの言葉には迷いがなかった。
「そして、この土に使われている黄色もそうです。昔見た絵はもう少し色褪せていたように思いますが、この絵にはそれがなくて——まるで新しい絵具で描いたような感じがします」
ヒューは絵をよく見たが、元の絵など知らないし、絵具の違いなどもっとわからない。
だが、アデラインの言葉には不思議な説得力があるように感じた。
「最後にサインです——ユンベルグのこの絵は、草のすぐ上にサインがありましたが、この絵のサインは草の上から描かれています。ユンベルグは必ず被写体にかからない場所にしかサインをしない画家です。こんなのあり得ません」
話しながら、アデラインは目元が熱くなるのがわかったが、感情的にならないようにと務めた。
だが、自分の好きだった絵が——華やかだった侯爵家の思い出が、そしてそれを取り戻そうとしてくれたヒューの想いが贋作によって踏みにじられてしまったようで、悔しかった。
ヒューはすぐに客間の入口に立っていたリチャードに向き直ると、「作業員を呼び戻せ」と命じた。
「あなたが安心できるなら、信頼できるギャラリーに鑑定にだそう」
そう言った横顔は、明らかに怒りに満ちていた。
アデラインは客間を大股で出て行くヒューの後姿を見送りながら、自分の物言いが夫の自尊心を傷つけたしまったのではないかと、酷く後悔した。
次にヒューに会ったのは1週間後だった。
結婚して既にひと月以上が経っていたが、アデラインがヒューに会ったのは指折り数える程度だった。
それでも、使用人の前では挨拶の抱擁や、頬へのキスを義務のようにされていたおかげで、屋敷の使用人の態度がわかりやすく変化していた。
ナタリーがいなくても、アデラインが刺繍をしていると甘いバーリーウォーターを持ってきてくれたり、夜遅くまで仕事をしていると蝋燭を取り換えに来てくれるのを、アデラインは嬉しく思っていた。
少しずつこの屋敷が自分の居場所になっていっている。そんな気がしていたからだ。
アデラインが部屋で夕食の時間を待っていると、キャサリンとナタリーが着換えを手伝いに入ってきたことで、アデラインは今夜はヒューが一緒なのだと察した。
以前のようにトマスやトビーが伝えに来なくても、キャサリンが夕食用のドレスを用意するだけでわかる。
アデラインはいつもに増して緊張した表情で食堂に向かった。
食堂には既にヒューが着席しており、アデラインを一瞥したがすぐに顔を逸らした。
相変わらず表情や仕草からはなにも読み取れない。
重苦しい空気を感じながら、アデラインは味のしない料理をただ胃に詰め込む作業に集中した。
アルマン侯爵から結婚の話を聞かされたときは、平民であることに戸惑いはしたものの、ここまで夫婦らしくない関係になるとは思ってもみなかった。
妹たちがいないところで何度も申し訳ないと謝る父に、アデラインは笑顔で答えた。
「大丈夫。たとえ爵位目当ての結婚でも、誠実に向き合えばきっとお互いを思いやれるいい夫婦になりますわ。お父さまとお母さまのように」
その言葉は本心だった。
愛はなくとも、お互いを尊敬して思いやれば、そこに信頼や情が生まれる。そう思っていた。
だが、自分の不用意な物言いが、せっかくのヒューの歩み寄りを台無しにしてしまったのだ。
アデラインは砂を噛むような思いで、最後のプディングを噛み締めていたが、ヒューの咳払いで顔をあげた。
「あの絵だが——」
ヒューは、プディングのかわりに出されたコーヒーを啜りながら口を開いた。
「老舗のロイズ・ギャラリーで鑑定したところ、君の言う通り贋作だった。——申し訳ない」
苦々しい表情で目を臥せるヒューに、アデラインは戸惑いを覚えた。
結婚式の日でも謝らなかった夫が、自分に素直に謝っている姿が信じられなかったからだ。
「旦那様が謝る必要はありません。サロンでも先日、あの絵を扱っていたダンテ・ギャラリーのことを少し聞きましたが、最近投資に失敗して金策をしていると噂になっていたそうです」
アデラインはゆっくりと自分を落ち着かせながら言うと、ヒューは更に表情を強張らせた。
「俺は貴族の集まりにも参加しているが、そんな話は聞いた事もなかった。鑑定済みだと言うギャラリーの話を鵜呑みにして騙された」
ヒューの表情が自分に向けられた怒りではなく、悔しさなのだとアデラインはようやく理解した。
「平民だからと侮られたんだ」
吐き捨てるように言った言葉に、アデラインは初めてヒューの本音を垣間見た気がした。
自分と結婚するまでは平民だったのに、自分と結婚したから貴族になった夫。
貴族として生まれて、貴族として生きてきた自分。
だが、貴族だった自分は平民だった夫に買われ、侯爵家はその平民の金で持ち直すことができた。
貴族とはなんなのだろう。平民よりも貧しく、気位だけの存在だとしたら、自分は一体なんなのだろう。
だが——
アデラインは唇を小さく噛んだ。
自分は貴族であり、ヒューと一緒に侯爵家を継いで領地民を守って行くことだけは確かなのだ。
そして、ヒューもまた貴族となったのならば、貴族として相応しい振舞を身に付けて行かなければならない。
アデラインはごくりと喉を鳴らした。
今がいい契機なのだわ——
アデラインは、プディングを食べていたスプーンを置くと、手を膝に乗せて薄い琥珀色の瞳でヒューを真っ直ぐに見つめた。
「あなたが貴族社会に溶け込みたいわけではないことは知っています。でも、貴族を相手に仕事をするつもりなら貴族としての素養を身につけなければなりません。マナーや所作だけではなく、貴族らしい教養も必要なのです。そのために私を利用しなさい。商人ならば買ったものの価値を見定め利用しなさい」
ヒューは、その言葉に昔の誇り高く優しい令嬢を重ねた。
ああ——そうか。
ヒューは心のどこかで納得する自分に気が付いた。
そして、目の前の女が自分の妻であることに非常に満足すると、立ち上がってアデラインの座る椅子のすぐ隣で跪いた。
「では、アデライン嬢。私の教師になっていただけますか」
そう言ってアデラインの手を取ると、その手の甲に芝居がかった仕草で口付けをした。
「わたくしはアデライン・アルマン侯爵令嬢ではありません。アデライン・アルマン夫人ですわ」
アデラインの言葉に、ヒューは少しだけ頬を赤く滲ませたように見えたが、食堂の暗い照明ではよく分からなかった。
「失礼した。では、麗しのアルマン夫人。私に貴族としての教養を教えていただけますかな」
その言い方があまりにもわざとらしすぎたので、アデラインは思わず吹き出してしまった。
その表情にヒューは少しだけ目を細めた。
バーリーウォーターとは、大麦やもち麦を煮だしてレモンや甘味などを加えた飲み物です。
紅茶を飲む習慣がなかった時代などで、よく飲まれていた飲み物になります。
現代でもシンガポールではよく飲まれています。
イギリスでは煮詰めてシロップ状にして保存し、お水やお湯で割って飲んでいたそうです。




