第一話 少年と少女
海が貼り付いたみたいな真っ青な空と、曇り空が貼り付いたみたいな海。
どこまでも続く砂浜。
波が押し寄せては、引いていき、押し寄せては、また引いていく。
こうして座って眺めていると、時間という概念はすっかり消え去って、風景と波音と、たまに聞こえる鳥の音だけが僕の世界の全てになる。
そうしているうちに、やがて空は赤くなっていく。
頭上にあった太陽は色を変え、地平線の彼方へと、その姿を徐々に隠し始める。
鳥の声も聞こえなくなり、心地よかった波音にやがて不安を覚え始める。
無限に続く地平線は、どこまでも続く無限の闇になった。
幾億の星と月が、僕を照らしていた。
「やっと見つけた」
その声は僕に向けて発せられたものだった。その声は聞こえていたけれど、僕は動かなかった。
強がりでも我慢でもない。
ただ、僕の世界に彼女をまだ入れたくなかった。そう思っただけだった。
「ごめん」
一日中、何もせずにただ海を眺めていた男の口から漏れたのは、謝罪だった。
その一言は僕の口をするりと抜け出すと、八月のシャボン玉みたいにふわふわと空に昇って、見えなくなった。
彼女は、そのシャボン玉が割れるまで見続けるほど子供じゃない。
彼女の手が、するりと僕の右脇に入り込む。
氷みたいな真っ白な彼女の手が、乱暴に僕を引っ張る。
立ち上がる。
彼女は僕を、裁いてくれるだろうか。
「行くよ」
彼女の心情を汲み取れるほど、僕は大人じゃなかった。
*
まだ八月にもなっていないのに、外はすっかり地獄だった。
少し歩いただけで、全身の孔という孔から汗が吹き出した。服はその汗を一生懸命吸ったせいで、びっしょりだった。
駅について、電車に乗る。
現代文明が生み出した冷気が充満している車両は、少し肌寒いくらいに冷やされていた。
冷や汗をかかないように急いで汗を拭う。
とはいっても、2つ先の駅で降りてしまうので、拭ってもまたどうせ汗をかく。
電車から降りると、異常な熱気が僕によってたかって襲いかかって来た。
負けず嫌いではないけれど、暑さには負けたくないので気合と根性で歩き出す。
駅から出ると、厳しすぎる日差しが容赦なく僕の肌を焼いていく。
早く屋内に入りたい一心で、学校を目指す。
日傘を指している女性を見ると、全く羨ましくて仕方がない。
どうして日傘を持って来なかったのだろうと、外に出るたび後悔する。ちなみに日傘を使ったことは人生で一度もない。
そうしてぐったりとした早歩きでなんとか校門を通り抜け、校舎内へと入る。
暑さはだいぶマシになったが、まだ暑かった。
革靴を脱ぐと異様な蒸気が足から噴出されていることに自分でも驚く。周りに誰もいないことを確認して嗅いでみたが、幸いにも臭くはなかった。
上履きに履き替えると、冷たい生地が僕の足の熱を奪っていく感覚がして気持ち良かった。
足の軽さが戻っていく気がした。
階段を昇って、教室に入る。
冷房ガンガンのその教室は楽園そのもので、なんだか良くない快楽物質が分泌されている気がした。
自分の席に座る。
まだ始業前だと言うのに疲労感がピークに達している。
そんな僕を横目に、まるで秋の涼しい風に吹かれているかのような優雅さを醸し出している人間がいた。
昨日転校してきたばかりの榛真白だ。
その名前通り、肌は透き通るような、いや病的な白さだ。お嬢様、という単語がよく似合っている。
性格も温厚を超えて冷ややかだ。
しかも顔が物凄く整っていて、男子からの人気は急上昇している。
しかし本人は恋愛に興味がないらしく、話しかけて来た男の子、特にデートのお誘いなどは問答無用、容赦なくお断りしていた。
なんというか、自分のパーソナルスペースを確保するタイプで、猫のようだ。
隣で本を読んでいる姿あいだも、常に周りも見ていて、危険があればすぐに逃げてしまう。そんな印象(偏見)があった。
「何?」
そんなことを考えながらチラチラ見ているのもお見通しのようだった。
「いや、涼しそうだなって」
「涼しそう?」
男子たちがこの子に惚れ惚れしているのが今わかった気がする。
こんなにつーんとしているのに、首を傾げるのか。これはいわゆるギャップ萌えというヤツか。
「いや、何でもないよ」
読書の邪魔をするのは申し訳なかったので、何もなかったふりをする。
そう言うと、何事もなかったかのように読書を再開した。
◆
午前の授業が終わって、お昼の時間になった。
皆が待ってましたと言わんばかりに机の上に弁当を置き始めた。
僕は家庭の事情により弁当がなかったので、購買へと足早に向かう。
メロンパンとカレーパン、それといちごミルクを買って、いつものところへと歩き出す。
いつものところというのは無論、屋上だ。
どこのドアも鍵がかかっているのだが、北の階段のドアは鍵が壊れていて、サムターンが横になっていても鍵がかからない。
屋上なんて滅多に使われないので、教員もまだ気がついていないのだろう。そして生徒もそのことを知らない。
おそらく学校で知っているのは僕だけだと自負している。
北の階段を駆け上がり、屋上へと出る。
日差しが厳しくてかなり暑いけれど、外の風に当たりながらお昼ご飯を過ごすというのは、全学生が憧れる過ごし方じゃないか。
袋からメロンパンを取り出す。
換気扇に腰掛ける。
そして一口目を食べた瞬間に、誰かがいることに気がついた。先生だと思ったので、心臓がドクンと大きくなった。
その人は目の前にいて、僕の方を見ていた。
「何してるの?」
聞き返すと、彼女は朝と同じように首を傾げた。
「あなたこそ一人で何してるの?」
「僕は昼食を食べに来たけど」
「じゃあ、私もあなたと同じだわ」
よく見ると彼女の手にはあんぱんと牛乳があった。
「いつもここで食べてるの?」
「居場所がないだけだよ」
僕は小さい頃に母親を亡くしている。
父親に育てられたが、仲が良いはおろか、ほとんど口を聞いていない。
そのため、と言いたいわけでもないけれど、他人との接し方が分からなかった。
小中学生は誰とも接していなくても、何とかなっていた。
しかし高校生になると、そうはいかなくなった。
他人は他人と繋がって、テリトリーをもち、そのテリトリーの大きさを競い合っていた。競り合う気もなかったけれど、彼らはテリトリーを持っていない生徒を吸収するのではなく攻撃するらしかった。
攻撃され続けるのは嫌だったので、いつしか他人と関わらないことで自分の身を守るのが僕の生き方になっていった。
「そう」
冷たい声で彼女はそう言うと、もう何も話しかけて来なかった。
やがて予鈴が鳴った。
居心地は不思議と悪くなかった。
「もうこんな時間か」
「戻りましょうか」
何を話すでもなく、僕らは自然と二人で教室に戻っていた。何人かから異様な目で見られたけど、特に反応もせず無視した。
彼女は席につくと、鞄の中から文庫本を取り出して読み始めた。
◆
午後の授業が終わった。
ホームルームが終わると、部活動に行く生徒、たむろして談笑する生徒、様々であった。
彼女の姿はもうなかった。
僕も居残る理由がないので、鞄を持って教室を出る。
すると面倒くさいのに絡まれた。
「こいつ、名前なんだっけ」
他人を見下す声。そしてそれを隠そうともしない態度。覚えがある。
「士郎だけど」
「聞いてねーよ」
熊野哲男。
バスケ部のエースで、その肩書きとガタイの良さから女子達の人気は高い。しかし男子達からの評判は乱暴で粗雑。とても関わりたいとは思えないタイプの人種だ。
素行も悪く、教師達をいつも困らせている。
「何?」
「は?何だその態度」
取り巻きの男二人が詰め寄ってくる。
周りの生徒は巻き込まれまいと見て見ぬふり状態だ。
周りから見れば完全に模範的なイジメに見えていることだろう。
「教えてやるよ。
何でお前みたいな陰キャがあの転校生と仲良くしてるのかって聞いてんだよ」
「あー」
何だそのことか。
自分の二回りも大きい男子三人に囲まれて怖気付かない人の方が珍しいだろう。
だが、今回は呆れの方が大きい。
「一緒に昼食を食べてただけだよ…っいった」
思いっきり右足を踏まれる。
「お前…ムカつくな。ちょっと場所変えようや」
乱暴に袖を掴まれる。
周りの生徒達も、流石に引いていた。
「なんだよ!」
取り巻きが威嚇すると、蜘蛛の子のように散らばった。
どうしようかと思っていた時。
「ちょっと」
僕の袖を掴む手を、誰かが掴んだ。
「あ?誰だおま…え…」
そこにいたのは榛真白だった。
「この手、離しなよ」
「え?あ、ああ」
熊野は完全に動転していた。
周りの生徒達も驚きの表情だ。
「私の友達なの。何してるの」
「え、ああ…ちょっと遊んでて」
榛真白は、何も言わずに熊野を睨みつける。
「嘘つく男は世界で一番嫌いなの」
そう言い放って、僕の手を掴んだ。
そしてそのまま下駄箱へと歩き出したので、こけながらもついていく。
振り返ると熊野が鞄を思い切り蹴飛ばしていた。
下駄箱につくと、もう誰も僕たちを見ていなかった。
「すぐに帰りなよ」
彼女はすぐに靴を履き替えて、帰ってしまった。
次の日、登校すると熊野達が僕を睨みつけた。
無視して鞄を机に置くと、昨日と同じように彼女は本を読んでいた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけ、でもよかった。
初めて、自分の居場所ができた。
そんな気がした。
◆
昼食になって屋上へ向かうと、彼女がいた。
「昨日のお礼。まだ言えてなかった」
購買で買ったチョコパンを彼女に渡す
彼女は何か考えていたが、すぐに受け取ってくれた。
「いつも何の本読んでるの?」
「ジョージオーウェルの一九八四年」
「良かった。分かる本で」
「読んだことあるの?」
「あるよ」
そこからは本の話題になった。面白かった本、つまらなかった本、彼女は僕よりもずっと本を読んでいて、ほぼついていけなかった。
でも、僕の話を聞く時も、自分で話す時も、どこか楽しそうで、それはそれで嬉しかった。
でも、そんな時間も長くは続かない。
「二人して、ここにいやがったか」
昨日聞いた声だ。
「熊野…」
取り巻きの男もセットだった。
「陰キャ同士いちゃいちゃ楽しいか?」
「お前良い加減にしろよ」
「やるか?女の前だからって無理すんなよ」
熊野がニヤつきながら近づいてくる。
流石に殴り合いで勝てるとは思えなかった。ましてや3対1。勝算はない。
でも昨日僕を守ってくれた彼女を守るために、戦わなければいけない。
「ちょっと、どっか行ってよ」
「おおごめんなさいね〜、榛さん。コイツボコしたら可愛がってやるからな〜」
レイプ脅迫地味たセリフだ。反吐が出る。
「榛さん。ダッシュで教室に逃げて」
熊野と取り巻きが走って迫ってきた。
唾を飲み込んで、両拳に力を込める。
踏み込んで、右手を大雑把に振り抜く。
それと同時に、みぞおちに鈍くて鋭い痛みが走った。よろけて、地面に倒れ込む。
痛みで、さっき食べたパンを吐き出す。
「気持ちわりい〜、ワンパンかよ」
次は顔面だった。
熊野の一蹴りが、僕を吹き飛ばす。
血の味がする。
耳鳴りと眩暈が酷い。
「弱いなあ〜」
熊野が笑うと取り巻きも笑った。
畜生。
俺はなんて弱いんだ。
血がポタポタと垂れていることに気がつく。口内か顔か、まさか頭か。
そんなことを考えている暇はない。
昨日守ってくれた彼女を、今度は僕が守らないと。
よろめきながら立ち上がり、顔を上げると、異様な光景がそこにはあった。
倒れ込んだ熊野の上に跨る榛真白。
そして怯える取り巻き。
一瞬の出来事だった。
「お、おい…冗談だろ?」
「冗談だと思う?」
熊野の首筋には刃物が突き立てられていた。
それは小刀のようだった。
歴とした人を殺すための道具だった。
「二度と、士郎と私には関わらないって約束出来る?」
出来ないなら、今殺す。
そう言っているかのようだった。
それくらいの覇気があった。
人はこれを殺意と呼ぶのだろうか。
「お、おい!お前ら!この女なんとかしろ!…くそ、なんつー力だ」
よく見ると、熊野の両腕を片手一本で押さえ込んでいた。
「お、おい!行けよお前!」
「ば、馬鹿野郎!行けるかよ!」
取り巻きは揉めていた。
それもそうだ。
自分たちのボスが、首筋にナイフを突き立てられた状態で地面に伏しているのだから。
「もう一回言うわね。
二度と、士郎と私には関わらないって約束出来る?」
彼女は熊野の首筋に刃物を押し当てた。
そしてそのまま殺してしまうのではないか。
「で、できる!だから離してくれ!」
「じゃあ、こう言って。
俺は二度と二人には関わりません、ごめんなさいって」
「二度と二人には関わらねえ!ごめんなさい!」
熊野は赤くなった目でそう言った。
彼女は最後に、熊野の耳元で何かを呟いた。
すると、熊野の顔色が真っ白になっていくのが分かった。
そして、手を離した。
熊野はすぐに起き上がって、取り巻きを残したまま、逃げていった。取り巻きも熊野の後を追って逃げていった。
彼女はナイフをスカートの中にしまうと、何事もなかったかのように、僕に近付いてきた。
そして、僕の目をじっくりと覗き込んだ。
汗が流れ落ちる。
「酷い怪我」
それだけだった。
彼女の声だけがずっとそこに滞留していた。
網膜に焼きついた彼女の姿。
僕はその影を見ていた。
やがて彼女も屋上を後にし、太陽が僕を照らし続けていた。
教室に戻ると、青ざめた熊野がいた。
僕を見るとすぐに目を逸らした。
彼女はいつも通り、本を読んでいた。
僕も何事もなかったかのように席についた。
彼女を見る。
なぜ熊野に勝てたのかは聞かなかった。
なぜ刃物を持っていたのは聞かなかった。
なぜ僕を助けてくれるのかは聞かなかった。
◆
放課後になった。
熊野はもう教室にはいなかった。
僕は鞄を持って席を立つ彼女を呼び止めた。
「ねえ」
彼女は動きを止めて、僕の方を見た。
呼び止めたは良いものの、何を言うべきなのかが分からなかった。
「怖くないよ」
自分でもどうしてその言葉を言ったのか分からなかった。本能的に、自動的に、必然的に、その言葉が相応しいと思った。
でも、その言葉が彼女に到達すると、彼女は驚きや悲しみや喜び、怒り、全ての感情を孕んだかのような笑顔を見せて、ありがとう、と言った。
もしかしたら、彼女は他人に恐れられるのが嫌で、誰とも関わらずに、自分のパーソナルスペースに閉じこもっているのではないか。
そんなことを思った。
明日も必ず、屋上に行こう。




