第8話 キスして炎上
居間に戻ると、爺ちゃんは縁側で煙草を燻らせていた。
「爺ちゃん、これ見てくれる?」
鉄扇を差し出した。
「ん? お前、これは……ッ!」
爺ちゃんが色めき立った。煙草を灰皿に押しつけ、すぐに鉄扇を受け取る。
骨の折れた部分を指でなぞり、親の罅を確認して、紋様の残った扇面を指先で撫でる。職人の目になっていた。さっきまでのお茶目な気配が、鳴りを潜めている。
「お前、これをどこで拾ってきた」
「拾ったというより、預けられた」
「預けられた!」
爺ちゃんが呆れた。
「朝帰りの理由はこれか」
「まあ」
「女ではないと言ったな」
「言った」
「嘘をつくな」
「……言い訳してもいいですか」
「話せ」
「厳密には女の子の家に泊まったわけじゃない」
「厳密には?」
「女の子の家で朝ごはんを食べた」
「それを世間では朝帰りと言う!」
ぐうの音も出ない。
爺ちゃんは再び鉄扇を見た。
「コイツは天目の業物だ。先代、いやもっと前だろう。数百年の代物だぞ」
「そんなに前?」
「腕が違う。今の儂より、先祖の方が上だった。悔しいが本当のことだ」
珍しく爺ちゃんが苦い顔をした。職人として、先祖を敬っているのがわかる。
「国宝級の逸品だぞ、これは。使い込まれてはいるが、それだけ長く現役だった証拠だ。持ち主はよほどの使い手だろう」
「うん」
「誰だ」
「言えない」
「なぜ」
「事情があって」
「惚れてるのか」
「ち、違うよ!」
「そうか。その娘が持ち主か」
爺ちゃんは楽しそうだった。職人の目で、口だけが笑っている。
「直せる?」
「時間がかかる。儂だけでは難しい。霊銀の継ぎ直しに、もう一人手が必要だ」
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「はあッ!?」
爺ちゃんが声を上げて驚いた。信じられない、といった表情で。
「……いいのか」
「今回だけだよ」
「どういう風の吹き回しだ」
責めているわけじゃない。ただ、確認している。
この孫が、なぜ今日に限って、と。
僕の脳裏に、昨夜の柳が思い浮かぶ。一人で戦い続けてきた華奢な背中――
「助けたい人がいるんだ」
「………………」
爺ちゃんは無言だった。聞かない。詮索しない。ただ、もう一度だけ鉄扇に目を落として、折れた骨を丁寧に撫でた。
「わかった。引き受ける」
「ありがとう」
「礼はいい。それより」
爺ちゃんが、ジトっと僕を見た。
「その娘、ちゃんと名前くらい教えてくれんか」
「いつかね」
「いつかではなく今教えろ」
「学校に行くぜ!」
「おい待てぇッ!」
玄関を飛び出した。
背中に「逃げるな小僧!」という声が追いかけてきたが、無視した。
朝の空気が、昨夜よりずっと軽い気がした。
学校へ着くと、すでに昼休みだった。けど、妙な空気を感じた。
玄関口で上履きに履き替えた瞬間から、周囲の視線が僕に集まっている。
「見て。あの子が……」
「なんでアイツなんだよ」
廊下を歩くたびに、背後でヒソヒソと声が追いかけてくる。
なんだ? 僕、何かしたか? 昨夜から今朝にかけてのことを頭の中で思い出す。怪異との遭遇。柳の吸精。奴隷宣言。炎上。謝罪文。動画の予約投稿。
――炎上。
嫌な予感は、教室の引き戸を開けた直後に的中した。
「――――――」
クラスメイトの視線が、一斉に僕を突き刺した。
それから、またもや聞こえる囁き声。
逃げたい……。でも逃げたら負けた気がする。
平静を装って自分の席に向かうと、匠が歩み寄ってきた。
「お前、ヤバいぞ」
開口一番それか。僕は声を潜めた。
「何がだよ」
「昨夜の配信」
「謝罪文は出した」
「そういう問題じゃねぇ。特定されてる。柳夕麗とキスしたの、お前だって」
「あーやっぱりか……」
「感想はいい。とにかく学校中に広まってる」
頭が痛い。
「あんな横顔でよく特定できたな」
我ながら脱帽だ。夜の校庭で、ほとんど映ってなかったはずなのに。
「お前、結構可愛い系の顔してるだろ」
「……は?」
「隠れファンがいんだよ。大方、そいつらが出元だ」
「マジかよ」
「マジだよ」
知らなかった。自分に隠れファンがいるなんて。意外も意外だ。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、判別できないまま匠が続ける。
「しかも相手が柳夕麗だから余計に広まって――」
「天目くん」
声がした。
教室の引き戸のところに、柳が立っていた。
カーディガンを羽織ったセーラー服。黒髪。氷の瞳。いつもの柳夕麗だ。
なのに、教室の空気が一瞬で凍りついた。
訪れた沈黙。それから――
「きゃーッ!?」「マジかよ!?」「来た来た来た!」「えぇ~!?」
黄色い悲鳴と野次が混ざった声が、教室中に響き渡った。
そんな周囲の反応などお構いなしに、柳は涼しげに誘う。
「お昼ご飯、一緒にどうかしら」
教室の温度が、二度くらい上がった気がした。
「え、ちょ、待っ――」
慌てた僕より先に、匠が動く。
柳の前に、すっと立ちはだかった。
「悪ぃが、俺のダチに近づかないでもらえるか」
教室の空気が、また変わった。今度は緊張感だ。
柳が匠を見据える。
「あなたは」
「鞘守匠。コイツの幼馴染だ」
「ああ、鞘守の」
「知ってたか。んで何の用だ」
「奴隷を迎えに来たの」
「奴隷だと?」
教室がざわついた。当然だよ。
「フザケてんのか」
「事実よ」
「事実だとしても俺のダチだ。柳夕麗、お前とは付き合わせられない」
柳は匠を見たまま、動じなかった。
「あなたに、そんな権利あるの」
「お前の周囲で何が起きてるか、知らないわけじゃねぇだろ。コイツは一般人だ。そんな奴を巻き込んで何が楽しい」
「もう巻き込まれてるけど」
「だから、今からでも引き返せって言ってんだよ」
静かな応酬だった。周囲の生徒が固唾を呑んで見守っている。
匠は表情を変えない。柳も変えない。
「天目くんの意思は?」
「関係ねぇ」
「あなたが決めることじゃないでしょう」
「友人として言ってる」
「友人なら、彼が自分で決めたことを尊重したら?」
「お前が脅して決めさせたんだろうがッ!」
教室の空気が張り詰めた。誰もが息を呑む。
柳は上目遣いで匠を睨み、一歩前に出た。
「ほーやるってのか。怖い怖い」
聞いたこともない、匠の嘲る声。
「"気狂い柳" とは、よくいったもんだなぁ?」
匠の右手が、腰に下げた小太刀の鞘に触れる。普段は装飾品のように見えるそれが、今は明確に武器の気配を放っていた。
鞘守家の業物。それ単体で怪異を制する『法具』だ。
柳の瞳が青く光った。口から、白い冷気を漏らして。
「"鞘師風情" が――死にたいの?」
教室の気温が、体感で五度は下がった。
一触即発。
匠が鞘を握る。柳の冷気が広がる。周囲は怯えて身構える。
こいつらマジかよ。護法使いの秘匿規定はどうなった!?
「あーもーやめろお前ら!」
叫びながら、僕は柳の手を掴んだ。
冷たい。でも、そんなことを思っている場合じゃない。
「行くぞ!」
「えっ」
「来い!」
引っ張って、廊下に飛び出した。柳は引かれるまま一切抵抗しない。廊下の生徒が驚いて道を開ける。そのまま走った。
教室の奥から、匠の声が追いかけてくる。
「バッカ野郎……ッ!」
振り返る余裕はなかった。申し訳ない。後で絶対謝る。
柳の手を引いたまま、人気のない渡り廊下まで駆け抜けた。
息を切らして立ち止まると、柳は握られた手を見つめていた。
「――っと、ごめん」
慌てて離す。
「逃げるの、好きなの?」
「好きじゃない。逃げないと死人が出た」
「大げさね」
「どの口が」
何が楽しいのか、柳は相変わらず笑っていた。
まったく、勘弁してくれよ。




