第9話 昼食と花子さんと戦術画
人気のない廊下を抜けて中庭に出た。
朝霧高校の中庭には、一本の柳の木がある。
校舎に囲まれた中心。そこにしっかりと根を張っている。幹の太さは人の腕二本ほど。あちこちが曲がりくねっている。枝垂れた枝が、風もないのに揺れていた。
「ここでいい?」
柳が、柳の木の下に座った。
「いいけど……」
木に近づいた瞬間、霊的な圧を感じた。
怪異の気配とは違う。もっと清々しいものだ。根の張り方が尋常じゃない。地面の下で、何かと繋がっているような感触がある。
「この木、普通じゃないな」
「一種の霊木よ」
「霊脈と繋がってる?」
「繋がってる。だから好きなの」
柳が、珍しく声を弾ませた。
「私のお気に入り。落ち着くわ」
気持ちよさそうな顔。木の幹に背中を預け、目を瞑っている。案外、彼女の先祖は江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある "柳女" なのかもしれない。
僕は隣に座りながら、ふと気づいた。
さっきまでちらほらいた生徒が、一人もいない。
中庭に出ときは数人が昼食を食べていたはずだ。それが今や、誰一人いない。申し合わせたように全員がどこかへ消えている。
「柳さんの瘴気?」
「ワザとじゃないわ」
柳は気にしてないのか、涼しい顔で風呂敷包みを広げた。弁当箱が二つ。
「ばあやが作った」
「二人分、用意させたのか」
「朝のうちに頼んでおいた」
有難い。
弁当箱を開けると、湯気が立った。鮭の塩焼き。卵焼き。きんぴらごぼう。梅干しと昆布の混ぜご飯。今朝の朝食と同じ、過不足のなく丁寧な仕事だ。
「いただきます」
「召し上がれ」
箸をつけた瞬間、視界の端で何かが動いた。
渡り廊下の柱の陰から、小さな女の子がこちらを覗いていた。おかっぱ頭。赤いスカート。前髪で隠れた顔――その姿に、僕は思わず声を出す。
「花子さん」
気配を察知したのか、身体がびくりと揺れた。逃げようとしている。
「花子」
柳が、静かに呼んだ。
しばらく間があって。
とてとて、と小さな足音が近づいてきた。
おかっぱ頭の怪異が柳の木まで来て、ちらりとこちらを見た。驚いたことに怪異特有の怖い顔ではなかった。人と変わらない、綺麗で可愛らしい笑み。
「姉さま」
そんな花子さんが、柳に飛びついた。
驚くほど自然に。
「お怪我はありませんか? 花子、すごく心配で……」
「大丈夫よ。見ての通り」
「よかったぁ」
花子さんが、ぎゅっとしがみついている。柳は、その頭を優しく撫でた。
「仲、いいんだね」
「たまに話をするの。この子が来てすぐの頃から」
「来てすぐって、花子さんは朝霧高校の七不思議だよな。なんで柳さんより新参なんだ。花子さんは昔からいる怪異じゃないのか?」
花子さんが、もじもじしながら僕を見た。
柳は小さな背中をさすりながら説明する。
「花子さんはね、全国の学校にいるの」
「え、そうなの……?」
「でも、最初から全国にいたわけじゃない。花子さんという怪談が有名になりすぎて、新しい学校ができるたびに生まれるようになった。人々の信仰と噂が怪異を生むのよ」
「じゃあ、朝霧高校の花子さんは」
「比較的新しい。この高校の歴史は浅いから」
なるほど。僕は感心した。古い怪異ではなく、新しく生まれた花子さん。だから先輩として柳を慕う。怪異の世界にも、上下関係があるわけだ。
「面白いな、それ」
「怪異の世界は意外と律儀なの」
花子さんが、おずおずと僕を見た。前髪の隙間から、昨夜の濁った目とは違う、綺麗な瞳が覗いている。
「昨夜は、ありがとうございました」
「どういたしまして」
花子さんは照れたように笑い、それからフッと、その場から姿を消した。
「可愛いな、あの子」
「好きになっちゃダメよ。ロリコン」
「なんでだよ」
弁当箱に箸を戻しながら、柳が言う。
「法具の件、どうなった?」
「爺ちゃんに頼んだ。二人で直すことになった」
「二人で?」
「僕も手伝う。どれくらい時間が掛かるかわからないけど、必ず直す」
「自信満々ね」
「いや、ないけど」
「なんで」
「言ったろ。もう十年も作ってない。霊能力だって、ちゃんと発動するかどうか」
「大丈夫よ。あなたは天目家次期当主。一族から刻まれた【戦術画】は、そう絶えるものじゃない。見せてみて。あなたの【戦術画】」
「え、見せる? 戦術、ん……?」
柳に言われて、僕は頭が真っ白になった。
「……呆れた。まさか忘れたの」
「いや、忘れてない。あれだろ、核兵器の」
「はぁ……」
「すいません」
ご教授願えないでしょうか。
「仕方ないわね」
柳は溜息混じりに言うと、おもむろに右手を広げた。
「〈臨ム兵 闘ウ者 皆 陳列ベテ 前二在リ〉――"顕現" 」
九字が、静かに紡がれた。
直後――柳の手の平から光が溢れる。
青白い光を帯びた象形文字。それが一つ、二つと次々に現れ、互いに絡み合いながら一つの紋章めいた形となる。複雑で、緻密で、何重にも重なった字画の芸術。
「これが私の【戦術画】――"戦術を編んだ字画" よ」
手の平に字画を浮かべながら、柳が解説する。
「霊能力の強さ、性質を可視化した字画。剥き出しの霊能力を理論として体系化することで、護法使いの力を増幅し、加護とする。一族が積み上げてきた霊能力の結晶」
「柳家は字画が多いな」
「歴史があるから。積み上げた分だけ、字画も増える」
光が、静かに消えた。
「さぁ。天目くんも出してみて」
「わかった」
右手を広げる。深呼吸して、九字を唱える。
「〈臨ム兵 闘ウ者 皆 陳列ベテ 前二在リ〉――"顕現" 」
柳と同じように光が溢れ、手に平に赤い字画が出た。
出たが――
「「…………」」
浮かび上がった字画は、柳のものと比べると、あまりにも小さかった。文字の数も少ない。申し訳程度に揺れている。
ショックを受ける僕を尻目に、柳が失笑した。
「ちっさ」
「う、うるさいな」
顔が熱くなった。
「これから鍛えれば大きくなる」
「よく継承できたわね、それで」
「継承は儀式だから関係ない。使うかどうかは別の話だ」
柳は黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。
「期待してる」
普段の冷たい表情とは違う、どこか慈愛に満ちた温かな笑み。
それに思わず見惚れていると、学校の予鈴が鳴った。
「昼休み、終わりね」
「あ、ああ」
柳が弁当箱を風呂敷に包みながら、ちらりと僕を見る。
「口、開いてる」
「閉じてる」
「開いてた」
「気のせいだ」
「……ふふ」
面白そうに笑う。立ち上がりながら、もう一度だけ、柳は口元を緩ませた。




