第5話 彼女の事情
柳に通された居間は広かった。
一歩入って、思わず足が止まる。
日本家屋なのは気づいていたが、居間を見て次元が違うことを理解した。
太い柱。磨き込まれた床板。土壁の壁には掛け軸と、青磁の花入れ。どれも骨董品。それも年代物だ。素人目にも相当な価値があるとわかった。
「座って」
柳に促され、大きな座卓の前に腰を下ろした。向かい合う形で夕麗も座る。
そのとき、廊下から気配がした。
障子を開けて現れたのは、老婆だった。
小さい。二頭身と言っても差し支えないくらい、小柄に白い髪が乗っている。顔は深く皺が刻まれていて、年齢の見当がつかない。もしかしたら人間の範疇で考えない方がいいかもしれない、という直感が働いた。
老婆は僕を一瞥した。
目が合った瞬間、背筋に悪寒が走った。値踏みするように、絡みつく視線。
次の瞬間には、もう厨房へ向かっていた。音もなく。
「あの人は……」
「使用人よ。気にしないで」
気になる。でも、今は聞かない方がいいだろう。
しばらくして、老婆が戻ってきた。
盆の上に、朝食が並んでいく。
白米。味噌汁。焼き鮭。だし巻き卵。小鉢に盛られた菜の花のおひたし。
どれも丁寧に、几帳面なほど整然と配置されている。
白米は湯気が立っていた。炊きたてだ。
味噌汁の匂いが鼻を抜ける。煮干しだろうか、出汁の香りが深い。
「ご準備が整いました」
老婆が静かな声で言った。
「ありがとう、ばあや」
柳が微笑みで返す。
「食べましょうか」
「い、いただきます」
警戒しながら箸を手に取って、まずは味噌汁を一口。
思わず、目が開いた。
出汁が、濃い。煮干しと昆布を合わせたのだろう、雑味のない旨みが舌に広がる。味噌は赤と白を合わせたのか、まろやかで深みがある。豆腐は柔らかく、口の中で崩れた。
焼き鮭に箸をつける。身はすぐにほぐれた。塩加減が絶妙で、米が進む。
だし巻き卵は、箸を入れた瞬間にふわりと沈んだ。卵の甘みとだしの香りが混ざって、口の中に広がる。これだけで白飯が一膳食えそうだ。
おひたしは、わずかな苦みと醤油の風味が合わさり、口内を爽やかに整えてくれた。
すべての料理が、過不足なく繋がっている。
豪勢ではない。けど、どれも極上の腕前だ。
「美味しい」
気づいたら声に出ていた。
「ばあやが作ったから」
柳は箸を進めながら、嬉しそうに言う。
すでに老婆は、気配ごと消えていた。
食事を終えると、老婆が茶を運んできた。
湯呑みを両手で包むと、ほどよい温度が手の平に伝わってくる。一口飲む。玉露だろうか、青みのある甘さが喉を落ちていった。
「さて、落ち着いたところでいいかしら」
柳が静かに湯呑みを置く。
「まずはおめでとう。天目くん」
「何が」
「今日からあなたは私の奴隷よ」
やっぱり。昨夜、朦朧とした意識の中で聞かされた宣言。
「ストーカーの罰、か」
なるべく平静を装って言った。頬が熱いのは気のせいだ。
「それもある」
柳はあっさりと認めた。
「でも本題は別よ。あなたには、私と景縫の戦いに協力してほしいの」
「景縫? 何かの怪異?」
「……霊能力者のくせに知らないの」
小馬鹿にしたような嘆息に、僕はムッとした。
「馬鹿にするな。いいから説明してくれよ」
「わかったわ。じゃあ順を追って話すわね」
言うと、柳が二回、手を叩いた。
瞬間、障子が開き――音もなく現れたそれに、僕は息を呑む。
黒いスーツ。細身の男の体躯。
けれど首から上だけが、人間じゃなかった。
古びた映写機。それが頭部として据え付けられていた。
「なに、これ」
「私に仕える怪異よ。名は "映写童子"」
映画泥棒の間違いじゃないのか。思わず心中でツッコむ。
けれど映写童子は、僕の怪訝な視線を気にすることなく居間へ入り込み、僕と柳が向かい合う座卓の前へと正座した。
「座るのかよ」
変なところで感心する。
直後、カチ、と。映写機の音が鳴った。
居間の照明がふっと落ちる。
「うわっ」
一気に暗転した室内。しかし、完全な闇ではなかった。映写童子のレンズからセピア色の光が漏れ、土壁へと映像を投影したからだ。ノイズ混じりの古い記録映像みたいな画面が、ゆらゆらと浮かび上がる。
「映画でも見るの?」
「似たようなものよ」
映像には、一人の男が映し出されていた。
洒落た黒髪。端整な顔立ち。細い目元には蛇みたいな陰湿さが滲んでいて、着崩し一つない和装姿が逆に不気味だった。
柳が男について説明する。
「景縫真墨。護法使いの旧家、景縫家の次期当主。呪詛、拘束、隠密、暗殺。陰湿で執念深い術を得意とする家系よ。月の初め頃、私はこの男との縁談を持ちかけられた」
「縁談?」
「ええ。政略結婚ってやつ」
さらっと言うが、内容は全然さらっとしてない。
「もちろん断ったけど」
「そっか……」
逆に受ける未来が想像できなかった。
柳みたいな少女が、家の決めた結婚を素直に受け入れるとは思えない。
「でも、真墨はそれが気に入らなかった」
映像が切り替わる。
景縫真墨の怒りの形相。無数に蠢く黒い影。それらを前に、銀髪の柳が鉄扇を振るう。氷と影の激突が始まった。
「破談になったあと、向こうから決闘を申し込まれたの」
「決闘って、今どき?」
「柳と景縫みたいな古い家は、時代錯誤なのよ」
ウンザリとした、妙に実感のある声。
「私の一族はこれを受理した。景縫家と規定を設けて、私とあの男による一ヶ月の戦いを取り決めたの」
「一ヶ月も……」
「その期間内なら、互いにどんな手段を使ってもいい。ただし、両家による干渉は禁止。決闘は当人の力だけで行われる」
なるほど。あくまで家同士の衝突を避けるためか。
護法使いなんて連中は、普通の喧嘩ですら洒落にならない。まして力ある一族ともなれば、街一つ消し飛ぶ規模の災害に発展しうる。
だからこそ、戦いを個人に限定した。
「勝者は敗者に一つだけ要求できる。敗者は無条件でそれに従う。この契約は絶対。家同士が承認した以上、拒否権はない」
柳の声は相変わらず静かなのに、その内容だけが異様に重い。
「ちなみに、柳さんが勝ったら?」
「簡単よ。金輪際、私への接触を禁じる」
「じゃあ、向こうが勝ったら?」
一瞬だけ、柳が黙った。
映写機の音だけが、やけに耳につく。
「夫婦の関係を強いられるわ」
「え」
間の抜けた声が出た。
「いや、関係って」
「要するに、無理やり結婚させられるの」
さらりと告げる。けど、その内容は全然さらりとしてない。
「景縫家は昔から柳の血を欲しがっていたもの。半霊である私なら、なおさら執着する」
「半霊って……」
聞き返すと、柳は小さく首を傾げた。
「あら、意外。あれだけ私を調べておいて、そこは知らないの」
「半分怪異なのは分かるよ。けど、どういう混血までかは……」
「幽霊よ」
明かされ、僕は固まった。
「ゆ、幽霊」
「ええ。正確には、柳家に取り込まれた霊の血統。雪女の系譜も混ざってるけど」
驚いた。つまり彼女は半人半霊。いや、怪異のクォーターか。
「だから私は人の生気を吸えるし、氷も操れる。どう? すごいでしょ」
フフン、と自慢げに鼻を鳴らす。髪をかき上げる仕草で。
「すごいでしょ、じゃないだろ」
僕は呆れて指摘した。
「幽霊って、もっとこう人の魂とか、成仏できない怨念とか、そういう類じゃないか?」
「それは下位霊。私の先祖はもっと格が高い。神霊未満、怪異以上って感じ」
「ふわっとしてるなぁ」
「説明が難しいのよ。そもそも怪異の分類なんて、人間が勝手に決めてるだけだし」
確かに、それはそうだ。
妖怪、悪霊、化け物。呼び名はいろいろあるが、結局は "人ならざるもの" を人間側の都合で "怪異" と括っているに過ぎない。
「でも、なるほどね」
僕は昨夜のことを思い出した。
柳の銀髪。肌を刺すような冷気。そして、生気を奪う口づけ。
「どうりで、人間離れしてるわけだ」
「失礼ね」
柳がジトっと睨んでくる。
「人間離れなら、あなたも大概でしょうに」
映写童子がカチ、と鳴いた。
映像が消えて、照明が戻る。
柳が僕を見て、姿勢を正した。
「お願いがあるの」
「な、なに」
「天目一箇神の加護を受けた護法使い――天目家次期当主。天目一」
「――――」
思考が、止まった。
「護法使いの武器職人である、あなたに」
心臓が、一拍だけ遅れる。
「私の『法具』を作ってほしいの」
空気が、冷えた気がした。




