第4話 奴隷にされた後
血の匂いが、夜の空気に溶けていた。
柳夕麗は地面に横たわったまま、ほとんど動かない。
床に広がった黒髪。赤塗れた紺のセーラー服。破けた黒いタイツ。
さっきまでの張りつめた気配が嘘みたいに消えていて、ただ静かに、壊れかけの人形みたいに倒れていた。
「柳、さん」
呼びかけても、反応はない。
マズい。本当に死んだんじゃ。あの出血量なら当然だ。
いや、待て。まだ助かるはず。とにかく救急車――
「……ッ!」
小さく息を吐いて、ポケットに手を入れる。
その瞬間だった。
「――ッ!?」
腕を掴まれた。
思ったよりも強い力。ぐいっと引き寄せられる。視界が一気に近づいて、目の前に柳の顔が迫った。
焦点の合わない氷の瞳が、まっすぐ僕を見る。
「待ってた」
かすれた声。意味を考える間もなく、
「んむっ!?」
唇が重なった。
冷たい。最初に感じたのは、それだった。まるで冬の水に触れたみたいな温度が、じわりと広がってくる。
でも、それだけじゃない。
触れた場所から、柳の "舌" が入り込んできた。
「んレロ……」
冷たいのに、やけに生々しい感触が、輪郭をなぞるみたいに広がっていく。
何かを探るように、口の中を撫でられて、じわじわと奥へ押し込まれる。
「ふ……ん……」
――侵されてる。
直感的に思った。
ただ舌を入れているだけじゃない。僕の中を楽しむように踏み込んでくる。
そのたびに、何かが削られていく。
身体の芯が、引き抜かれていく。
「……ちゅ、む……」
力が入らない。抵抗したいのに、腕も指先も言うことを聞かない。それどころか、触れられている場所から熱がじわりと広がって、身体の奥を鈍く痺れさせる。
なのに。
その侵入を、どこかで拒みきれない自分がいる。
ぞくり、と背筋が震えた。
冷たいはずの接触が、妙に離れがたく感じる。奪われているのに、満たされるような錯覚が混ざってしまう。
おかしい。こんなの、絶対おかしい。
けど――
「ん、ふ……」
小さな吐息が、直接伝わってくる。
細い指が、さっきよりも強く僕を掴む。
力が戻ってきているのが、はっきりわかった。
その分、僕の方は。
視界が揺れて、足の感覚がなくなり、地面に倒れ込む。
――持っていかれた。
はっきりと理解した。
これは、ただのキスじゃない。
僕の生気を、直接吸い上げている。
おそらくは怪異の為せる業か。どうやら夕麗は、他人の生気を吸えるらしい。
だとしても、こんな方法で……。
「ねえ」
柳が、僕を見下ろしていた。
「ずっと私のこと、つけ回したでしょ」
その声が、妙に近くて。
「ストーカー。だからさ」
逃げなきゃいけないのに、動けなくて。
「罰として、今日から奴隷ね?」
拒否しないと。そう思っているのに。
「よろしく――天目一くん♡」
頷きそうになる自分が、何よりも怖かった。
次の瞬間、僕は意識失った。
「――んぁ……?」
目が覚めたとき、最初に感じたのは温かさだった。
どうやら布団に寝かされているらしい。しかも柔らかい。自宅の煎餅布団とは明らかに違う質感。高級な寝心地だ。
そこで気づかされる。知らない天井。
見慣れた白いクロスじゃない。飴色に焼けた木の梁が、規則正しく並んでいる。障子越しに朝の光が差し込んでいて、畳の匂いがした。
ここは――
「どこだ」
寝ぼけ眼を擦る。全身が痛い。昨夜の鬼に吹き飛ばされ、植え込みに突っ込んだ脇腹。身体にのしかかる倦怠感。二つの痛みが主張してくる。
痛みに顔を歪めながら、寝返りを打った。
「おはよう」
目の前に顔があった。
氷の瞳が僕を見ている。
柳夕麗が添い寝していた。
「気持ちのいい朝ね」
「どぅわ――ッ!?」
飛び起きた。
瞬間、全身の痛みが一斉に抗議。足がもつれ、畳の上に転んだ。
「大丈夫?」
柳が起き上がって、尻もちをつく僕を覗き込む。昨夜、銀色に輝いていた髪が、今は深い黒に戻っている。血に染まった制服も、一点の汚れもなく新調されていた。
「素晴らしい回復力ね」
微笑を浮かべる。
「あれだけ私に生気を吸われて、自力で起き上がれるなんて」
髪の房をいじりながら、目を細めた。
「私と相性イイのかも」
「お……ぁ……が……」
昨夜のことが脳裏に蘇った。月明かりの中庭。銀色の髪。唇の感触。根こそぎ何かを持っていかれるような恐怖感。でも――
「顔が赤いわよ」
「誰のせいだ」
「初心ね」
楽しそうな顔だった。
「ここはどこ?」
「私の家。運べる状態じゃなかったから、連れてきた」
「よくも勝手に」
「文句ある? それとも、あのまま放置がよかった?」
言い返せなかった。
「と、とにかく。僕は帰る。介抱してくれたことには礼を言う。ありがとう。けど、これ以上の関係はなしだ。ていうか、今何時――」
「八時二〇分」
教えられ、ハッと気づく。僕のスマホを見せてくる柳。しかもアプリが整列する画面だ。きっと寝ている間に顔認証でロックを外したのだろう。
「それ僕の――」
急いで取り上げようとする。が、青く光る瞳に気圧され、僕は委縮した。
「ぜんぶ見たわ。写真、ファイル、検索履歴。そしてメールも」
マジかよ。最悪だ。
「『キミと秘密の夏休み ~高嶺の花の彼女と過ごす蜜月~ 女優:姫川あゆみ』」
「おいやめろッ!?」
画面に表示される、お気に入りのアダルト動画。
「なんてね。【突撃! 隣の都市伝説】。そして依頼に "柳の下の幽霊少女"」
ふふ、と笑いながら見せる僕のチャンネルとメール内容。
「合点がいったわ。どうりで急に近づいてきたと思った。しかも配信目当てじゃなく、報酬で動いていたなんて。天目くん。あなた、これは立派な犯罪よ」
「ま、待ってくれ!」
柳の冷たい眼差しが、僕を慌てさせる。
「僕はファンの依頼で調査したに過ぎない。それに犯罪って言うけど、いったいどこがだよ。ただの怪談だ。その出元が柳さんってだけで――」
「この画像は?」
スマホのタップで表示される――柳の写真。
「これはなに?」
登校時。廊下を歩く姿。中庭で弁当を食べる画像の数々。
「ずいぶんと、いい趣味をお持ちで」
そして最後に表示された、ローアングルショット。
「……ッ……」
もうダメだ。言い逃れできない。
「あなたが一週間前から、私をつけ回していたことは知ってた」
溜息をつき、スマホを投げてよこす。
「調査なら噂だけで済んだでしょ。なのに、こんなストーカー紛いまでするとか。正直言って最低。最も低い」
「あ、あはは……」
白状しよう。依頼を受けてからの数日間、僕は資料だけでは飽き足らず、柳夕麗を尾行していた。最初は興味本位から始まった行為だが、彼女の美しさに見惚れていくにつれ、ついには盗撮にまで及んだ次第だ。
「申し訳ございませんでした」
即、土下座する。男なら、時には諦めも肝心だ。
けれど柳は、僕の誠意に満足できないらしい。
「許さない」
「え」
顔を上げると、柳が僕に手を伸ばしていた。仁王立ちのまま、近づけてくる。
ヤバい。殺される。
そう観念した瞬間、
「だから」
シャツを掴み上げる。
「付き合って」
「――は?」
「朝ごはん」
パッと離された。拍子で腰が抜ける。
許されたのか? でも、どうして。
柳は障子を開けて廊下に出た。立派な庭園を背景に振り返る。
「なにしてるの。早く来て」




