第3話 深夜の学校
夜の学校は、昼間とは別の顔をしている。
誰もいないはずの廊下に、自分の足音だけが響く。非常灯の薄緑色の光が、床のワックスに反射していた。窓の外は雲ひとつない夜空で、月明かりが校庭に影を作っている。
来てしまった。
我ながら、つくづく懲りないと思う。
あの後、家に帰って夕飯と風呂を済ませ、さあ寝ようとしたところで気になった。
――なぜ、彼女は僕に教えたのか。
あの柳夕麗が、わざわざ僕に七不思議の話をするなんて。
偶然とは思えない。意図があるはずだ。
考えながら布団に入って、天井を見つめて、気づいたら私服に着替えて家を出る。
夜の通学路を進みながら考えた。
理由は二つ。
一つ。 "共闘"。
わざわざ単独で戦う理由はない。消耗を抑えたいなら、駒は多い方がいい。霊能力者である僕を手駒として引き込み、怪異の相手をさせながら自分は温存、という理屈だ。
二つ。 "囮" 。
最弱の霊能力者を囮に使う。怪異の注意を引き、その隙に仕留める。消耗を抑えたいなら、雑魚を盾にするのは合理的な判断だ。
どちらにしても、僕の役割はろくでもない。
「…………」
廊下の角で立ち止まって、引き返すことを一秒だけ検討した。
でも、スマホのカメラは起動している。配信アプリも同様に。
コメント欄にはもう――三桁の視聴者が集まっていた。
ええい、ままよ。
どうせ誘われたならネタにしてやる。共闘でも囮でも、生きて帰れば伝説の回だ。一千万円の依頼だって、こういう場面を撮ってこそ価値が出るというもの。
踏ん切りとは、いつも雑な理由でつくものだ。
「それじゃー行くよ。今回で最後となる超危険な心霊調査――」
狐面をつけて、カメラに向かって宣言する。
「"平坂高校の怪異・柳の下の幽霊少女" 。その謎を解き明かします!」
ひんやりと、首筋に冷気を感じた。
校内を探索し始めて、十分ほど経った頃。
気配がした。
教室棟から特別棟に繋がる渡り廊下を歩いていたとき、女子トイレの方から。
怪異の気配というのは、霊能力者なら大抵わかる。空気の質が変わるのだ。
柳か。そう思ったのは一瞬だった。
「いや、待て」
思わず声が出た。
これは、違う。
柳夕麗の瘴気とは質が違う。もっと古い、粘ついた、じっとりとした気配だ。怪異特有の、人間には決して出せない種類の存在感。
カメラを向けながら、慎重に近づく。
女子トイレの扉は、半開きだった。
隙間から光は見えない。中は真っ暗だ。それでも確実に、何かがいる。
「入るよ」
コメント欄が一斉に湧いた。
:やめろ!
:死亡フラグ!
:お巡りさんコイツです!
やめないお。ここで引いたら配信にならない。
扉を開ける。
暗い。非常灯すら届かない暗闇の中に、個室がずらりと並んでいる。タイルの床が月明かりを反射して、かすかに光っている。
気配は、一番奥の個室から。
「……いるんだろ?」
声が反響する。
しん、と静まり返っていた空間が、ほんの少し動いた。
扉が、ゆっくりと開く。
出てきたのは、子どもだった。
いや、子どもの形をしたもの、だ。
おかっぱ頭。赤いスカートに白いブラウス。昭和のどこかの時代から切り取ってきたような服装。身長は小学校低学年くらいしかない。
顔は――長い前髪が、目元を完全に隠している。
「…………」
動かない。ただ、立っている。
僕も動けなかった。霊能力者といっても、実物を前にすると足がすくむ。
これが七不思議の一つ "トイレの花子さん" か。
次の瞬間、冷たい何かが足首を掴んだ。
「――ッ!?」
半透明な小さな手。それが僕の足首を握りしめ、勢いよく床に引き倒す。
「い……ッ!?」
背中が叩きつけられる衝撃。カメラが滑って、タイルの上を転がった。
「う、あっ!」
逃げようとした。腕をついて上体を起こした瞬間、花子さんが目の前に。
真上から、こちらを見下ろしている。
前髪が垂れ、目が見えた。
――泣いている。
「え」
土気色の肌。白濁した瞳。それが、はっきりと濡れていた。大粒の涙が頬を伝って、タイルに落ちる。
「ね、ね……」
かすれた声。子どもの声じゃない。もっと古い、年月を経たような。
「姉さまを、助けて」
息が、止まった。
「姉さまが、死んじゃう」
縋るような瞳だった。ただ純粋に、必死に、助けを求めている光。
「姉さま……?」
瞬間、轟音。校舎全体が、大きく揺れた。
「な、なんだ!?」
窓ガラスが震えて、廊下の非常灯がチカチカと明滅する。揺れはすぐに収まったが、何かが壊れる音と、冷気が廊下を走り抜けていった。
出元は校庭だ。
そう判断したとき、花子さんは消えていた。足首を掴んでいた手も。
床に転がったスマホを拾い上げる。画面にはノイズが走っていた。強い霊障による影響だ。辛うじて見えるコメント欄は阿鼻叫喚。
「ああ、もうっ!」
こうなっては仕方がない。僕は立ち上がって走り出した。
校庭に踏み出した瞬間、冷気が顔を叩きつけてきた。
夜気とは違う。もっと鋭い、刃のような冷たさだ。
そして見た――黒い大きな巨体を。
三メートルはある。いや、もっとか。人の形をしているが、人ではない。黒い靄をまとったような巨体。顔らしきものはあるが、目も鼻もない。ただ口だけがある。耳まで裂けた、歯の見える口が。さらに、頭部から生える二本角。
鬼だ。
どこかの伝承から出てきたような、正真正銘の鬼だった。
そして、それと向かい合っているのが――
「…………」
言葉が出なかった。
柳夕麗だ。
でも、知っている彼女とは違った。
髪が銀色だった。あの深い黒髪が、月光を溶かし込んだような銀色に変わっている。それが夜風に揺れて、まるで光の束が舞っているみたいだ。
手には鉄扇。青地に白い雪紋様が描かれた大きな扇子。それを片手にしている。
足元には、ひび割れた氷がいくつもあった。すでに、戦闘は始まっていた。
「ゴォォオオオオオオッ!!」
鬼が腕を薙ぐ。
柳が跳ぶ。間一髪で避けたように見えたが違った。セーラー服の肩口が裂けていた。鬼の爪が掠ったせいだ。
着地した瞬間、わずかに膝が折れた。
立て直す。でもその隙を、鬼は見逃さない。
勢いよく踏み込んだ。地面が揺れるような一歩。
「く――ッ!」
扇子が薙がれた。
空気が裂ける音。氷の弾が無数に生まれて、鬼の胴体に叩き込まれる。
それでも鬼は止まらない。分厚い腕でまとめて弾き、砕けた氷が校庭に降り注ぐ。そのまま歩みを緩めず、柳との距離を詰めていく。
鬼が地面を叩く。
彼女が横に飛ぶ。
衝撃で地面が抉れて、砂と石とが飛散した。
着地した柳の足元が滑る。体勢が崩れる。
そこに、鬼の蹴りが入った。
「ぁ――ッ!?」
くぐもった声がした。
柳の華奢な身体が飛ばされて、学校の壁に激突した。
崩れ落ち、膝をつく柳。それでも扇子を手放さない。
よろめきながら立ち上がる。もう限界なのが遠目にもわかった。
「まだっ」
「グッフ」
鬼が嗤った。口だけの顔で。楽しむように歩み寄ってくる。
柳の身体が、小さく震えた。
寒さじゃない。疲弊だ。霊力の底が見えかけている。
扇子の紋様の光が、さっきより弱くなっていた。
マズい。このままだと彼女が殺される。
だったら助けろ。何をしてるんだ僕!
そう思った瞬間――パキ、という音がした。
「……ッ!?」
見れば、僕の足元。氷の破片を踏んでいた。
「ガァ……ッ!?」
鬼が、僕を見る。
「あ」
目が合った。目のない顔と。
ゆっくりと、鬼が向きを変えた。
「ま、待って――――ッ!?」
走った。方向が逆になった。鬼の拳が地面を叩く。衝撃が足元に走って僕の身体が浮いた。受け身を取る間もなく転がって、頭から地面に突っ込んだ。
「ぐ……ッ!?」
痛い。全身が痛い。配信用の狐面は割れていた。
急いで立ち上がる。が、頭上には巨大な影。
「――――」
鬼が、腕を振り上げていた。
終わった。本当に終わった。
でも――衝撃は来なかった。
代わりに、視界に揺れる銀の髪。
「黙って見てなさい」
柳が、僕の前に立っていた。両腕を広げて。鬼に背を向けて。
鬼の爪が、柳の肩口を深く抉っていた。
赤い血が、噴水のように吹き出していく。
「柳さん!?」
「うるさい」
倒れない。膝が笑っているのが見えた。
扇子が開く。紋様が光り輝いた。だがその光は、さっきよりずっと弱い。霊力が底をついている。それでも扇子を打ち振って、残った全部を叩き込むように。
「【幽世吹雪】――〝白墓刑〟」
地面が凍った。
校庭全体が、みるみるうちに霜で覆われていく。柳を中心に、無数のツララが逆さまに展開した。鬼は逃げる間もなく、全身を氷の墓標で貫かれた。
「ゴォォアアアアアア…………ッ!」
鬼が、悲鳴を上げた。
不快な周波数の音だ。黒い靄がほつれ始める。形が崩れていく。
やがて鬼は影になった。地面に溶けて、夜の闇に消えていった。
静寂。
柳夕麗が、床に崩れ落ちた。




