源泉
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「───夏様、準備はいいですか?」
夏は静かに頷き、腕を天に向かってまっすぐ伸ばし、深呼吸をする。
「“印”」
────ゴロゴロ…
空に暗い雲が集まりはじめる。
やがて、ぽつぽつと雨水が大地を湿らせはじめ、間もなく本格的に降り始めた。神秘的な雨が周囲一帯を濡らす。
「素晴らしい。完璧です!」
上達が早くて誇らしい限りですわ、と騒ぎ立てる水姫に抱きつかれながら夏はほっと一安心した。
水姫の作ったマニュアル通りに神事を進めているものの それは思いのほか順調で少し拍子抜けだった。
と言っても、序盤で人間の身体を治癒するなんて高難易度なことをしたからか、水姫の教えひとつですんなり出来てしまって、夏自身も戸惑いを隠せないのだが。やはり、応用を先にこなしてしまうと、基礎は自然と出来てしまうものなのだ。
「これで一から三までクリアですね」
マニュアルにチェックを入れる機嫌のいい水姫に少し複雑な気持ちになる。
「次は水神のメインワークである、“浄化”ですわね」
次々に話を進める水姫に拳一振くらい落としてやりたくなったが、気になるワードが出てきてつい「メインワーク?」と尋ねてしまう。知らない事が話に出てくると理解しようとしてつい前のめりになってしまうのは、勤勉な夏の悪癖とも言えるだろう。
「これはどの国でも問題になっていることですが、水の汚染は人間の日常生活に多大な影響を与えます。水神はそれを未然に阻止するため、各所にある“源泉”を定期的に確認し、汚染が進みそうな泉を浄化していきます」
「源泉? そんなのあるのか」
「はい。日本各地に川がありますが、それらの母体となる源泉が必ずあります」
水の浄化って聞いた時はどんなものかと思ったが、ちゃんと“対象”があったらしい。
もっとアバウトで果てしないものだと想像していた手前、少し安堵してしまう。
突然、川まるごと浄化して下さい!とか、水姫なら言いかねないから。
「まずは明日、近場にある源泉に向かいましょう。ちょっとだけ足場が悪いので、先に謝っておきます」
「それはべつに構わないけどさ…」
───翌日、早朝。
「……っ……なにが……“ちょっと”だよ!!」
夏の嘆きが森中に木霊する。
それもそのはずで、“ちょっとだけ足場が悪い”と聞いていた筈の道中だったが──ちょっとどころの話じゃなかった。
地元の俺でも知らない裏山に連れて行かれたかと思えば、人の手が掛かっていない雑木林へと誘われ、ほぼ足場の無いぬかるんだ道を草木を掻き分けて進む。
朝露で服はびちゃびちゃで泥だらけだし、馬鹿みたいに虫がいるし、どこからか動物らしき変な鳴き声はするし───とにかく、最悪だった。
「なんなんだよ、ここ!」
「大事な源泉が人目の付くところにあるわけないでしょう? ほら、もうちょっとで着きますよ」
「くっそ!!」
水姫はすいすいと先に行ってしまうのでこちらは追いかけるしかない。
こんな所に置き去りにされても困るからと必死に進むが、少しくらいスピードを落としてくれてもいいんじゃないかと夏は思う。
あちこちから飛んでくる虫が怖いしキモいし、なんか身体が痒い気がするし、全身泥だらけで汚いし……。
いっそ源泉なんてどうでもよくなってきた。
何よりも理不尽なのは、こちらの惨状に対し水姫はその召物に汚れ一つ無く、草木を掻き分けることなく進めていることだ。これが神の特権と言われればそれまでだが、何とも解せない。
こんな時こそ自身の中にある水神の命の出番だろうと思うが、こういう時に限って生身の人間であることも思い知らされる。




