重荷
月代夏は呆然と紙切れを見つめていた。
それはそれは穏やかな朝。
小鳥のさえずりさえ鬱陶しく感じるほどのこの良き日に、夏は先程からずっと目の前でニコニコと嬉しそうに笑っている水姫に嫌気がさしていた。
「…本当に行くのか?」
「もちろんです! 私に力がない今、夏様が代わりに水分神としての仕事を請け負うのは、せめてもの礼儀というものですわ」
「………」
週末。
この日は、水姫によってアルバイトの面接を受けさせられる日である。
これから面接を受けるのは個人営業の喫茶店で、今手に持つ紙切れはそこまでの道順が書かれたものだ。大学までの道中にあるらしい。
“出雲に行く”と言ったからには水神の仕事も!と散々水姫に言われた夏が致し方なく承諾したのである。
…まあ、仮にも彼女は命の恩人なわけだし、恩返しと思ってやればいいと夏は割り切ってはいたが、正直のところ、本当にあのマニュアル通りに神の仕事をこなせるのか半信半疑であった。
なにせ、神迎祭まで残り数ヶ月だ。その間に、神迎祭に呼ばれる神憑になれなんて……
(冷静に考えても、無茶なこと言うよなぁ……)
月神になるに相応しい神憑のみ呼ばれるという今回の神迎祭。つまり、就活やオーディションで言う一次選考だ。
正直、できる気がしない。
やるとは言ったが、出来るか否かは別問題だ。
しかし、如何せん水姫は頑固。
自分がそんなことを気にしたところで、“やってもいないことを出来ないというな”とでも言われるに違いない。
常に真っ直ぐを見つめる姿勢は素晴らしいが、やはりどこか人間離れした思考の持ち主である。平たく言うと、世間知らずだ。
(それにしても、アルバイトか…)
何年ぶりだろうか。
高校生の時は、周囲の友達がバイトを始めたことに焦りを感じて無理矢理始めたんだったな、と夏は懐かしい思い出に浸る。高校生によくありがちなことだ。まあ、一ヶ月持たずに辞めたけどな。
「さあ夏様、そろそろ行きましょうか」
大佐を抱きしめた水姫が元気な声を張る。
休日にお父さんとお母さんと一緒に遊園地に行く子供のように自分を急かす水姫に、夏は冷ややかな目を向けた。
「何行く気満々になってんだ。留守番だよ、お前は」
「え!?」
衝撃を受けた水姫は抱きしめていた大佐を落とすと、駭然と立ち尽くす。
そんなことを気にする様子もなく、鞄と履歴書の入った封筒を手に持ち出かける準備を済ませた夏に、水姫は縋り寄った。
…また始まった。水姫の病気。
「どうしてですかっ! アルバイトの件は私が発案者ですし、責任者として事の終始を見守る権利と義務があります!」
「そういうのいいから……あと服引っ張るな!」
「嫌ですぅ~! 私も連れていってください~!」
「ダ・メ・だ!」
駄々をこねる水姫の肩を押すが、不思議なことに一切抑えられない。何度も言うが、この華奢な体のどこにそんな力があるというのだろう。
「しつこいな…!お前がいると何かとトラブルが起こるんだよっ」
「酷いッ! そんな言い方! 私はいつだって夏様の為を想って…」
「ええいうるさい!大人しくしないとまたお縄だぞ!」
「!」
ぴたり。
“お縄”と言えば水姫は大人しくなることを、夏は知っていた。
夏の言う“お縄”とは、注連縄という神具のことである。
表向きには神域と現世を隔てる結界の役割だったり、厄や禍を祓ったりする意味をもつもの。
起源はアマテラスの天岩戸伝説かららしく、引きこもった彼女を引きずり出した際、二度と入れないようにと施した封印……その際に用いたものが、この注連縄だ。
水姫によると、その伝説の通り、この注連縄には神の動きを封じる力があるらしく、高天原では何か問題を起こすと注連縄で拘束されるらしい。
よって、神々が嫌う傾向がある……らしい。あくまで水姫の見解だが、少なくとも水姫は見ることも嫌がるくらいには嫌いだ。
そういう事情も有り案の定大人しくなった(…というよりも固まっている)水姫に、夏は段々彼女が哀れに思えてきた。
脅迫めいたことを言っている自覚はある。ので、せめてもの餞にテーブルの上にビスケットをおいてやる。今日のおやつにでも食べればいい。
ちなみにこれは水姫の好物のひとつであり、大体おやつはコレ、食事は夏の手作りの特大おにぎりと決まっている。
「じゃ、行ってくるからな。おとなしくしてろよ?」
「………」
(……ああ、めんどくさい)
気にしはじめるとキリがないと知っている夏は、時間を確認しながら、重たい腰を持ち上げ部屋を出た。
バイトの面接は十時からだ。
部屋を出ると同時にシクシクと嗚咽する音が聞こえてきたが、夏は罪悪感など感じなかった。
何故なら、同時にシャクシャクと言う音も聞こえきたからである。美味しく召し上がっているようで何よりである。
───先日のボヤ事件から数日。
あの後、夏はタイミングを見計らって水姫に全てを話した。
月彦と出会ったこと、月彦から神憑のすべての話を聞いたこと、そして、高天原のこと。
全てを包み隠さず伝えた夏に、水姫は『そうですか』としか言わなかった。
『では、次は私の話を聞いてくださいますか?』
自分の中での整理がついたのか、穏やかに微笑んだ水姫に夏は頷いた。
この日、夏は改めて水姫と出会った気がしていた。
誤魔化さずに、自らの口から自分の事を話す水姫は初めてだったからだ。
『──高天原は、私達神々の終着地点、またの名を桃源郷と呼ばれています』
徐ろに話し始めた水姫はいつになく真摯な声音で語った。
『彼の地に辿り着いた者は森羅万象の神々の長になり、誰よりも高い位置から世界を俯瞰する存在になります』
高天原の神々は現し世の理を形成していると言われ、現し世を作り上げたのも高天原の神々だとも言われている。
『何より、高天原にはイザナミ様がいらっしゃいます』
以前も出た名前に夏は首を傾げた。
『総ての神産みの長母であり一度は死している“特異”な神であるイザナミ様に目通り叶う者は、それこそ彼の三貴子のようなトップの方々だけ。……ですが、神界では昔から言い伝えられていることがあるのです』
『言い伝え?』
『はい。───高天原に昇天した神は、必ず一度あのお方に目通り叶うことが決まっていて、その際にひとつだけ、どんな“願い”も叶えて頂けると言われています』
イザナミといえば、イザナギと共に日本列島を創ったとも言われる神だ。
そんな創世神が叶える“願い”ならば、どんな無理難題なものだとしても叶えられないものなどないはず…だが、神様が願うほどのものとはなんなのだろうかと夏は解せなかった。
正直、くだらないとも思ってしまった。
願いを叶えてもらうため、神々で競い合うなど、自分では考えられない。
『じゃあ、お前もそのために?』
夏が尋ねると、水姫は静かに首を縦に振った。
『……私は、実の母に会いたいのです』
『え?』
“実の母”と言われて、夏は喫驚した。
『私の母は“ハヤアキツヒメ”といって、水を生み出したとされる水神の長母です』
水姫は少し目を泳がせた後に夏の目をしっかりと見つめた。
『夏様は、おっしゃいました。“人間であることを諦めない”、“目的は違えど互いの目的のために頑張ればいい”……と』
私は…それが嬉しかったのです。
水姫は愛おしむように目を細め、言葉を胸に抱くように手を置いた。
伏せた目のよって長いまつげが影を作り、彼女がそこにいる事を証明付ける。
こんなにもはっきりと目に映るのに、自分以外には見えないのが不思議だった。
『私は高天原で富裕層の生活をしたいわけではありません。私は、人間を愛しています。人間界の神でいたい。人間を見ていたい』
でも。
そう矢継ぎ早に言葉を重ねる水姫の表情は、切願に苦しむ表情だった。
『それでも、一目でいい…。母に会って、伝えたいことがあるのです』
それが私の“目的”だと、水姫は言った。
やがて、水姫は畳に手をつき、深々と頭を下げる。出会った当初は、夏が阻止したものだ。
『だから、今一度お願い申し上げます。私に力を貸してください。…高天原に在る母に会うには、こうするしかないのです』
その後、水姫は一頻り頭を上げることはなかった。
「───」
そんな数日前のことを思い返して、夏はため息をついた。
本当にいろいろなことがありすぎる。重荷すぎて死にそうだ。




