9.最後の一線
夕闇が下町の路地をじわじわと侵食していた。
焼け落ちたハンスの靴工房からは、いまだに細い灰色の煙が立ち上り、焦げた革の臭いが風に乗って漂っている。
ジャンは作業台の上で、黒打ちの短剣を無言で革鞘へと滑り込ませていた。
カチリ、と硬質な金属音が静まり返った土間に落ちる。
その時、表の通りからバタバタと荒い足音が近づいてきた。
引き戸が勢いよく開かれ、飛び込んできたのは肩で息をするエレナだった。その顔は蒼白で、唇は血の気を失って小刻みに震えている。
「ジャンさん……! た、大変、ニコが……!」
「……ニコがどうした」
ジャンは作業台の上の革袋を瞬時に身体で遮りながら、低く問い返した。声の調子は穏やかだったが、その双眸の奥にはすでに冷たい光が宿っている。
「ハンスのおじさんの薬をもらいに神殿薬局へ行ってくれたんだけど……帰りに『アイゼンシュランゲ』の連中に見つかって……! さっき、ボリスって大男の部下が食堂に来て『あのガキを返してほしけりゃ、道具屋の腰抜けと食堂の親父が連名で立ち退き書類を持って、西の廃棄倉庫へ来い』って……!」
エレナの目から大粒の涙が零れ落ちる。
「どうしよう、ジャンさん……! あの子、あいつらに逆らって石を投げたみたいで……酷く殴られて引きずられていったって……!」
ジャンは静かに目を閉じた。
わずか数秒の沈黙。その間に、ジャンの胸の内で激しく軋んでいた「日常という名の檻」が、完全に音を立てて砕け散った。
耐えて、泥水をすすり、頭を下げていれば守れると思っていた。
だが、奴らは最初からすべてを踏み躙るつもりだったのだ。ハンスの工房を焼き、エレナの食堂を脅かし、そして――かつての自分と同じ目をしていたあの少年を、暗闇の底へと引きずり込もうとしている。
ジャンはゆっくりと目を開けた。
そこにはもう、おどけて愛想笑いを浮かべる「しがない道具屋」の気配は微塵もなかった。
「……エレナ」
「え……?」
呼ばれたエレナは、思わず息を呑んだ。
ジャンの声は、今まで聞いたことのないほど静かで、深く、そして氷のように研ぎ澄まされていた。立ち姿すらも違う。背筋は無駄なく伸び、両腕は重力に従って自然に垂れ、一切の隙が存在しない。
「お前は店に戻って、親父さんと一緒に鍵を閉めていろ。表に誰が来ても、夜が明けるまでは絶対に扉を開けるな」
「で、でも、ジャンさん一人で行く気!? 相手はあの凶暴なボリスよ!? 殺されちゃうわ……!」
ジャンは棚の引き出しから、昨日修理を終えていた真鍮の壊れた懐中時計を取り出し、エレナの手のひらにそっと握らせた。
「ゴルドの親父さんから預かってた時計だ。ゼンマイも留め具も、全部直しておいた」
「ジャン、さん……?」
「大丈夫だ。……少し、道具の使い道を間違えてる連中に、正しい手入れの仕方を教えてくるだけさ」
ジャンはエレナの肩をそっと叩き、工房の外へと促した。
エレナは戸惑いと得体の知れない恐怖、そしてかすかな胸騒ぎを覚えながら、何度も振り返りつつ食堂の方へと走っていった。
一人残された工房。
ジャンは作業着のエプロンを外し、黒く染め抜かれた無骨な革の胴当てを身につけた。
腰の左右に、二本の黒打ち短剣。
前腕の内側の革ホルダーに、十本の鋼の目打ち針。
腰袋には、刺激性の鉱物粉末と、麻痺毒の小瓶。
最後に、火鉢の灰を指先に取り、両の頬と首筋に薄く塗りつける。光を反射させず、夜の闇と同化するための『ネーベルクレーエ』の古い仕草。
外に出ると、冷たい夜風とともに、ポツリ、ポツリと雨粒が落ちてきた。
石畳を濡らす雨の匂いが、鉄の匂いと混ざり合う。
ジャンはフードを深く被り、西の廃棄倉庫街へ向けて、音もなく駆け出した。
その足取りには、水たまりを跳ね上げる音すら存在しなかった。




